戦争は何故なくならないのか?
平和が叫ばれて久しいが、人類の歴史から戦争が消えたことはただの一度もない。
それどころか、現在進行系で大規模な戦闘が続いている。
では、なぜ戦争はなくならないのか?
人類が野蛮だからだろうか。あるいは、野蛮な個人・民族がいるからだろうか。
もちろん、事態はそこまで単純じゃない。
本当のところは、こういうことなのではないか?
戦争の、少なくとも軸となる部分は理性の産物である。
人間が理性的な生き物だからこそ、戦争は起こり、一層激しさを増す。
今日はこのことについて少し考えたい。
なぜ戦争が起きるのか?
『戦争論』
クラウゼヴィッツは言った。
「戦争とは、相手にわが意志を強要するために行う力の行使である」と。
そして、ここで言う「わが意志」とは、平和的な交渉などの他の手段によっても達成しうる「政治的な意図」なのだと。
つまりこういうことだ。
まず「達成したい政治的目標(領土、資源、民族の独立…)」がある
→そのための手段として、色々ある中から「戦争」が選ばれる
→この「戦争」が、当初の「達成したい政治的目標」の大きさに沿って組み立てられる
例えば、
何人くらい兵士を動員するのか
どのくらいの期間で終わらせるのか
どの程度の戦果を目指すのか
どれくらい戦力が損耗したら諦めるのか
……などが政治的目標の規模に合わせて決められるといえるだろう。
当然、相手に押しつけたい政治的目標の規模が大きくなればなるほど、戦争も大規模化していくわけだ。
このように、クラウゼヴィッツの言う戦争は、
「達成すべき政治的目標に見合うだけの戦果を求め、そのために必要なだけの力を行使する、極めて合理的・合目的的な活動」なのである。
…しかし戦争とは、本当にそのような合理的活動なのだろうか?
近現代の戦争
少なくとも現代において、戦争は極めて非合理的な様相を呈している。
だからこそ「民族の統一」などという曖昧なもののために戦争を仕掛けることがあるし、戦闘は当初予定されていた期間を遥かに超えて泥沼化する。
そこに「政治的利害の合理的計算」などないように見える。
これはなぜなのか。
「民族」という想像力──近代論(構築主義)
近代以降の戦争が非合理的なのは、多分、人間の想像力のせいだ。
「民族の統一」などという目標を掲げて戦争をするためには、高度な想像力が要求されるのである。
まず、自分の目で実際に見て回ることはできないほど広い地域に散らばった人々を「自分と同じ○○人」だと想像する力が必要だ。
考えてみれば、これは結構高度な想像力だろう。
自分が行ったこともない土地に住む、会ったこともない人々を、どうやって自らと同質な存在とみなせというのか。
こうした想像力は、言語(国語)や学校教育、本、地図、写真、新聞、テレビなどの多種多様なメディアがあってようやく可能になるものなのである。
ちょうど、私が実際には行ったこともない尾道を、写真を介して「日本の綺麗な街」と認識しているように。
↑この写真の撮影者は「尾道観光協会」であって、私ではない。
私は他者の書いた言葉、撮った写真、「広島」が囲い込まれた「日本」地図によって「尾道という街に住む人々は、どうやら私と同じ日本人らしい」という認識を持ったに過ぎない。
これらのメディアがなければ、私はせいぜい「オノミチ人?という集団が海の近くに住んでいるらしい」程度の認識しか持ち得なかっただろう。
しかも、それですら識別しているだけ上出来な方だ。
これが一つ目の想像力。広い地域に及ぶ想像力である。
では、その次に必要なのは何か。
「民族の歴史」を想像する力である。
言うまでもなく、人は永遠を生きるわけではない。
生物的な限界まで行ったとしても、せいぜい120年かそこらしか生きられないだろう。
しかし、私たち人間の想像力は、120年を遥かに超えて及ぶ。
なんといっても、「日本」の歴史なんて2000年以上あるのだ。
↑世界最古の木造建築群として知られる法隆寺が完成したのは、607年頃らしい(一回焼失したようだが)。
もちろん、法隆寺が建てられた時代から生きている人間など存在しない。
私たちは「日本の歴史」と呼ばれるものを、余すところなく経験してきたわけではないのだ。
にもかかわらず、私たちは法隆寺を「日本の歴史を物語る寺」としてはっきりと認識することができる。
先に挙げたのと同様、様々なメディアを通して。
これが二つ目の想像力。広い時代に及ぶ想像力である。
そして、この想像力があるからこそ、人間は「○○人と✗✗人は、元々一つの民族だった」などと想像することができてしまうのである。
「○○人と✗✗人が分岐する前」のことを、実際に自分の目で見たわけではないのにもかかわらずね。
(そもそも、当時の人間は「一つの民族」というアイデンティティすら持っていなかったはずだ)
このように、人間が広い時空間にまたがって「自分と同じ民族、同質な存在(≒家族)」という想像力を働かせることができるようになったからこそ「民族の統一」という近代戦争の目標が生じてきたのである。
(広い時空間にまたがる「自分の民族」は、宗教・身分制度・普遍権威がバラバラになってしまった後に現れてきたアイデンティティのよすがだ)
(唯一のよすがだもの、そりゃあ縋るよね)
想像力──そして、これを支える認識能力や理性がなければ、「民族の統一」なんてものは意識にも上らない。当然、政治的目標にだってなりえない。
しかし、人間は自分たちのアイデンティティにも深く関わるこの「民族」なるものを発明し、愛し、他者に対して確立することを欲するようになった。
そして、「民族の統一」というアイデンティティをかけた戦争には、「ちょうど良い」力の行使なんてものはない。
「民族」とは自分であり、家族であり、決して壊されてはならない文化の基盤なのだから。
負けたらおしまいだ。
敗北は、自我に深い傷として残る。「家族」は蹂躙され、それまで自分たちが築いてきた歴史や文化はめちゃくちゃにされてしまう。
だから負けるわけにはいかないのである、絶対に。
「敵」は絶滅させなければならないのだ。
そこに合理的計算も交渉の余地もへったくれもない。
勝つか負けるか。民族として、優れているか劣っているか。支配するか支配されるか。
交戦する両集団は、極限に至る二者択一の前に立たされる。
まさに理性と教育によって獲得された、想像力とアイデンティティのゆえに。
確かに、この二者択一は非合理的といえるだろう。
しかし、戦争が起きるのは決して「単に人間が野蛮だから」ではないのである。
まとめ
特に近代以降の戦争の動機についてざっくり考察した。
本当は戦争の手段についても考察する予定だったのだが、それをやるとあまりに長くなりすぎるので、機会があればいつか。
参考文献
カール・フォン・クラウゼヴィッツ著、日本クラウゼヴィッツ学会訳『戦争論 レクラム版』(芙蓉書房出版、2001年)
マイケル・ハワード著、奥村房夫・奥村大作共訳『ヨーロッパ史における戦争』(中公文庫、2010年)
B・アンダーソン著、白石さや・白石隆訳『増補 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』(NTT出版、1997年)
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