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23.02.23 大人に管理される「子どもの主体性」

・仕事の研修会に行ってきた
ものすごくもやもやしたが、みなさんが思いを持って一生懸命取り組んでいることを全否定してしまう気がして、言わずに帰ってきた

みなさんがやっている取り組みはすばらしいことだと思う
でも引っかかったのは、「主体的に」という言葉
それぞれの学童保育で行った実践を発表している中で、どこの学童も口を合わせたように「子どもたちが主体的に活動していた(のでよかった)」と言っていた
でも聞いていると、「主体的」ってそういうことじゃなくない?と、もやもやしてしまった

・例えば、毎年恒例の行事をやったとき
①リーダーとなって話し合いや準備を仕切った子
②アイデアを出した子
③飾りつけを率先して作った子
④準備で困っている子や足りない物を見つけてサポートした子
みんな主体的に動いていて、いきいきと活動してとてもよかった、という事例

でも恐らく、⑤話し合いも準備も我関せずで1人遊びをしていて、他の子や大人に「一緒にやろうよ」「きみはこれやって」と言われて初めて参加したような子(もしくはそれでも参加しなかった子)もいたはずだ
彼らは主体的に活動したとは言えない、という認識がなされたことだろう

さて、①~④の子は本当に主体的だったのだろうか?
⑤の子は本当に主体的ではなかったのだろうか?

・私は、「大人が子どもを成長させようと意図して設定した」空間や活動の中で、子どもが自ら「大人の意図した方向」に動いたことを「主体的」ともてはやすのは、違うと思っている

①~④の子は、人に言われずとも自分から動いたので確かに主体的だ
でも、それは大人によって、彼らがそう動くように作られた場での行動だ
彼らは大人の働きかけに呼応しただけだ
技術のある大人たちによって巧みに練られた働きかけが上手くいったのだ
それって、子どもが主体的に活動したと言えるんだろうか

一方⑤の子は、確かに行事に対して主体的ではなかった
でも、自分の遊びには主体的だったのだ
彼は大人の働きかけも他の子が何をしているかも関係ない、自分はこれがしたいんだ!という強固な主体性を発揮していたわけで
そう考えると、1番主体的にいきいきと活動していたのはむしろ⑤の子ではないだろうか

・毎日の忙しい業務の中で無理だとわかってはいるのだけど
こんな子にはこう対応しましょう、こんな実践をしたら子どもがこうなりました、みたいな話だけじゃなくて
今自分たちがやっている実践を、よしとしていることを、そもそもから疑うような、本質を問うような話し合いがしたいなぁと思う
まぁ無理なんだけど

・この前読んだ本、阿比留久美著『子どものための居場所論』に、昭和の子どもたちについての記述があった
彼らの写真を見るととてもいきいきとした表情をしている
でも当時、彼らがいきいきと遊べるように大人が配慮していたわけではない
彼らは大人に構ってもらえなかったからこそ近所の子どもと異年齢集団を作り、遊び道具はないけど時間だけはあるという退屈な環境だったからこそ創造性を発揮し、いきいきと遊んでいたのだ、という話に、その通りだなと思った

時代が違うので、今から昭和のように子どもをほおっておけばうまくいくという話ではない
でも、大人の意図による設定を最小限にすること、大人の意図に沿わない行動もその子の主体性として肯定的に捉え直すことで、子どもが本当の意味でもっと主体的に動ける場をつくれるのではないかと思う

今の時代は、いかに大人が空間や活動を上手に設定するかということばかりに注目が集まっているように思う
大人の意図も確かに必要なんだけど、ちょっと偏りすぎている
最近の子は主体性がないとか言うけど、常に大人に配慮されて場を与えられる環境でどうやって主体性が育つんだよ

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