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NYLife 日本食レストラン

25年程前にニューヨークの田舎で小さな大学に通っていました。マンハッタンから北に1時間ほどの、私が住むニュー・シティという町には、ひとつだけ昭和の風情が漂う日本食レストランがありました。派手ではなくどちらかと言うと地味で、寿司、テンプラ、テリヤキを提供し地元のアメリカ人に評判の店でした。当時の日本食店はアメリカ中どこも同じような作りとメニューでした。ちょっと昭和っぽい風情で日本人が経営していて店員は日本人の学生やバイトです。
経営者は日本人の夫妻で旦那さんは寡黙に寿司を握り、奥さんは英語を話し社交的でフロアを切り盛りしていたのを今でも鮮明に覚えています。派手ではなく地味に経営していました。

私が学生だった頃は、アメリカは入国に関してはかなり寛大で、マンハッタンには日本からの不法移民が2万人ほどいると言われていました。日本人の不法移民のほとんどは、ビザなしでアメリカに留まった旅人、留学生でアメリカにきたのですが、学校に通うことができなくなり、そのままアメリカに残っている元留学生が多かったように思います。彼らは移民局に捕まることもなく日本食レストランで働いていました。厳密にいうと不法就労です。

私の通う小さな大学にも日本人が7人いて、それぞれが面白い生活を送っていました。私のように学校にちゃんと通い、さらに上の大学にトランスファーを試みる学生は少なく、日本人留学生は適当にアメリカでの生活を楽しんでいるように見えました。中にはこの名もない大学に10年間在籍して、親の仕送りでポルシェを買い遊んでいるような方もいました。おそらくこの時代は、日本の富裕層の御子息で、日本の大学に入れず、親の体面があるので、アメリカに来させられている日本人留学生が多かったのでしょう。中にはご両親が離婚し、お父さんもお母さんも新しい相手を見つけて新しい家族を築いてしまったので、居場所がなくてニューヨークにいるという人もいました。お金はあるのに心がない両親に苦労させられている人でした。こういう方々はアメリカの大学を卒業するとか将来の夢を持っていないので、学校を卒業するのはほぼ無理でした。ただ在籍しているという感じです。そしていつの間にかいなくなっていくのです。

今思うと、ニューヨークにいた多くの日本人はこういった訳ありの人たちでした。必死で勉強している日本人留学生は数パーセントで、あとは留学生と言ってもほとんど学校に来ていない人が多く、さらに街には怪しげな日本人が結構いたのです。

ニューヨーク郊外の街

大学のカフェで話をするようになった1人の日本人がいます。彼は元々レスリングの日本代表だったそうですが、体を壊しレスリング界のツテを頼ってニューヨークのレストランで働いていたそうです。しかしそのレストランはかなりブラックで、日本から来る労働者のパスポートを取り上げ、レストランに付随する狭い寮で生活させ、まるで奴隷のように働かせていたようです。彼はこのレストランから逃げ出し大学に転がり込んだようでした。もちろん英語も話せず、大学について行くほどの学力もなく、体を壊しているのでスポーツで何かすることもできず、ただ大学附属の英語学校の一番下のランクのクラスに席を置き、ビザを更新していたのです。

その彼が生活のために働いていたのがMaikoIIです。経営者のご夫婦は彼の全てを理解し、雇っていました。彼はそこからの収入で細々と生活をしていたのです。私はたまにレストランに行って安いカリフォルニア・ロールを注文したりしました。いつもご夫婦と友人は私が頼んでいない料理を1、2品出してくれました。日本食を食べる機会のない私は、これがとても嬉しかったです。

不法就労者という言葉は悪い人というイメージがあります。一括りにされますが、人にはいろいろな人生があり、どうしても日本に帰れない人や、やむをえずニューヨークで貧しい生活を強いられる人もいるのです。Maiko IIは、そういった人達の受け皿になっていました。どこにも引き取り手のいない若者に手を差し伸べ、まともな生活ができるように支援していたのです。そしてこの日本食レストランを巣立って立派になっていった日本人留学生たちもたくさんいました。

私は、田舎の大学を短期間で卒業し、校長先生の推薦状をもらいアメリカのTOP10にランクされる大学に編入し、この町を出ました。
その後も、あの町、あのレストランをよく思い出したものです。

そのレストラン"Maiko ll"が数年前からGoogle Mapから消えて、Kobeという日本食店になってました。
ニューヨークに出張の際に、レンタカーを借り、あのニュー・シティに行き、店を訪ねて聞いてみると、オーナーが変わったことを知らされました。以前のオーナーの消息はわからないそうです。

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