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Hair dressing

 今日、失恋した。なんか、合わないんだよね。一年付き合って、突然言われた言葉がこれだ。
私は、彼のことがすごく好きだった。彼も私のことを愛してくれていると思っていた。でもそれは私の思い込みに過ぎなかった。
 彼との付き合いは話が合い、顔もタイプだったところから始まった。本や映画の好き嫌い、服や持ち物の趣味も合っていた。料理の味も辛さの好みに違いがあるくらいだった。きれい好きなところも、時間を守るところも、いろんなことがこんなに合う人はいない。この先は結婚も・・・、と思ったりもしていた。
 でも一年の間、彼は人差し指の根本を口に当てるいつもの仕草をしながら私を見て、心の中では、なんか・・・、という気持ちでいたのだ。そして私は、彼が何を思っていたのかまったく知らずに、彼に笑顔を送っていたのだ。
 私は悔しくて、情けなくて、三日三晩、泣くだけ泣いた。

 それから私は身の回りを整理を始め、色々なものを捨てた。彼にプレゼントしてもらったブランド物のバッグも何のためらいもなく捨てた。
 そして私は銀座へ行った。別のブランドの新しいバッグを、自分で買うために。そのブランド店に入り、いいと思って手にしたものはとても高かったが、思い切って買った。
 バッグの入ったブランド店の大きな紙袋を肩にかけ通りに出た私は、ふと、上を見上げた。街灯の上にカラスが止まっていた。銀座に、カラス・・・。怪訝そうな私の視線に気づいたのか、カラスは黒い羽根を大きく広げ、飛び去っていった。
 その時、私は思った。そうだ、髪を切ろう。この、肩まであるこの髪、彼がよく指を入れて梳いていた、この髪を・・・。失恋で髪を切るのはよくあるパターンだけど、もう誰にどう思われても構わない。私の決心は揺るぎなかった。だけど行きつけの美容室には行きたくない。髪を切ると言ったら、間違いなく担当の美容師に面倒な聞き込みをされてしまう。新しい私を始めるためにも、ここは、初めての美容室で・・・。
 表通りから一本裏の通りに入った私は、両側に並んでいる店を見た。ブティック、高級時計店、和食屋、ギャラリー・・・。その先の宝石店の2階に、黒いフラッグが出ているのが目に入った。羽根をあしらったロゴマークの下に、細いフォントでhair dressingとあった。うん、ここでいい。私は何の迷いもなく、宝石店の入り口横の階段を上がっていった。
 
 首を振る。アゴで切り揃えた黒髪が軽く揺れる。うん、いいね。会社のトイレの鏡に映った私に、昨日髪を切ってくれた美容師の言葉が聞こえた。私は初めてのショートカットにあらためて満足しながら、これから始まるミーティングに向かった。

 「水野さん、佐藤さんとおっしゃる方から電話ですけど」
ミーティング中にドアが開き、デスクの女性から私に声がかかった。サトウ、サトウ・・・。ケータイではなく会社に電話を掛かけてくるのはどこの佐藤さんだろうと思いながら、私は席を立ってルームに戻り電話に出た。
「お電話替わりました、水野です」
「ああ、佐藤です・・・。佐藤、孝司です。久しぶり・・・」
つやのある声が耳の奥に響いた、佐藤を名乗ったのが誰かすぐに分かった。
「佐藤って、コーちゃん・・・!?」
コーちゃん。佐藤孝司。四年前に別れた彼だった。声をあげてしまったと思い、私は短くした髪を振って、周りを見た。でもどうして、今の彼と別れたばかりの、このタイミングで・・・?
 私とコーちゃんは、横浜の大学時代に出会った。経済学部3年の時の環境経済のゼミで知り合い、軽い会話から冗談を言い合うようになって、私はコーちゃんと付き合い始めた。コーちゃんは育ちの良さそうな清潔感があって、笑うとくしゃくしゃになる顔が私は好きだった。コーちゃんはほんとうにやさしかった。私のことをいつも思って、何よりも私を優先してくれた。それでも別れてしまった理由は、たぶん仕事だったと思う。大学を卒業して私はマーケティングの会社に、コーちゃんは商社に就職した。社会に出てからというもの、お互い目の前の仕事を覚えるのに精一杯で、一緒にいる時間が持てなくなっていた。それでも、気持ちを通わせるメールだけはなんとか送り合っていたが、慌ただしく過ぎて行く日々にまみれるうちに、次第にお互いの伝えたい気持ち自体も薄れていった。その年の暮れに、私とコーちゃんとの恋愛は終わった。
 「ケータイに掛けても出てくれないかもしれないと思って、会社へしてみたんだ」とコーちゃんは言った。
あれから四年も時が経っていて、私はコーちゃんとただの久しぶりの友達という感覚で電話のやり取りをした。ちょっと会わないかというコーちゃんの申し出に、私はすぐにいいよと言った。 私は元彼コーちゃんと突然、今夜会うことになった。コーちゃんが会いたいという、理由も聞かないままで。

 私は地下鉄の表参道駅から広場に出て、周りの人々を見渡した。すると突然横から私を呼ぶ声がした。
「水野!」
私は横を振り向き、その声の主を見て驚いた。
「田口さん・・・!? 何やってるんですか、こんなところで?」
「久しぶりだっていうのに、ごあいさつだな。どうしてる?」
「どうしてるって、田口さんこそニューヨークじゃないんですか?」
 田口さん。田口淳一。会社で私が所属するグループの元上司で、去年外資系のマーケティング会社にヘッドハンティングされニューヨークへ渡った人。私は駆け出しの一年目から、この長身でスーツの似合う有能な上司の下につけて、本当に良かったと思っていた。それは見た目だけじゃなく、しっかり仕事をして、部下の失敗にもきちんと責任を取る田口さんを見たからだった。私は二十の歳の差も関係なく、田口さんに恋愛感情まで持ったことがあった。だけど言い出す勇気まではなかった。その後、仕事でこれほど尊敬できる人に私はまだ会っていない。
 明るいグレーのスーツを着て黒革のブリーフケースを持った田口さんは、この三日間東京出張で明日ニューヨークに帰り、来年早々にはロンドン赴任の予定でまたしばらくは日本に帰って来れないだろうと話した。
 田口さんは私の短くなった髪型については何も言わず、私の顔を少しのぞくようにして言った。
「水野も世界へ打って出てみるか」
「ありがとうございます、でも私はこのまま日本に骨を埋めるつもりです」と私は言った。
田口さんは笑って、また会う日までと言って長身を翻し雑踏の中を歩いていった。
 しかし、この偶然の重なりは何だろう。久しぶりの元彼と会う夜に、海外から東京に出張してきた元上司とばったり会うなんて・・・。

 そこに紺のスーツにクリーム色のハーフコートを着たコーちゃんがやって来た。コーちゃんは私を見てすぐにはにかんで笑った。髪を短く刈り上げていたコーちゃんは少し大人になった感じはしたが、表情や雰囲気はあの時と変わらなかった。でも短くなった私の髪を見てもコーちゃんは何も言わなかったので、私もあえて自分からは言わなかった。
 私はコーちゃんとパスタを食べながら話をした。コーちゃんは白ワインを飲んだが、私はノンアルコールのスパークリングにした。仕事の話をするコーちゃんは、一人前の社会人に成長した男の自信があらわれていたが、私はコーちゃんに何もときめかなかった。好きだった頃のことを思い返そうにも、ただ仲の良かった友達としか思えなかった。私は今、一年付き合った彼と別れたばかりだけど、昔別れた元彼をまた好きになる感性はないことが分かった。
 そしてもう一つ分かったのは、コーちゃんの話のメインが、結婚、ということだった。コーちゃんは、相手は取引先の常務の娘で来春に式を挙げることになっていると言った。付き合っていた私に直接会って話をしておきたかったという。私には意味がまったく分からなかった。どうして別れて四年も経つ私と会って、結婚の報告などする必要があるのか。こっちは結婚も考えた彼と別れたばかりだというのに。コーちゃんは、そんな私の気も知らず、ワインで少し顔を赤くしながら自分の結婚話を続けた。

 コーちゃんと別れた後、私は少し気持ちを落ち着けようと思ってタクシーに乗り、前に寄ったことがある西麻布のバーへ行った。しかしそのバーはドアに改装中と張り紙があって閉まっていた。どうしようかとそのままタクシーで通りを走っていくと、前に見たことがあるロゴがついているドアがあるのが目にとまった。私はまさかと思いながら、急いでタクシーを止めた。
 そのドアを開けると、奥に続くカウンターの中にいた、白髪まじりの髪を後ろで結わいたバーテンがこちらを向いた。
「いらっしゃいませ。あ・・・、里奈ちゃん!?」
「え・・・、八木さん!? どうして、ここに・・・」
「今年こっちに店出したんだよ。しかし、久しぶり!」
 横浜のバー、オールドクロウのマスター、八木さん。私は呆気に取られた。学生時代にコーちゃんと一緒によく寄ったバーの八木さんが、今ここに・・・。これは、どういうことなの?私が関わった人と再会するっていう偶然が、たった一日の間に次から次へとまるで列をなしたように起こるなんて、こんなことがあっていいの・・・?
 八木さんは偶然の再会にシャンパンを出してくれた。私はグラスの中の細かい泡を見つめ口に含んだ。八木さんは去年離婚して独りになったのを機に、東京へ出てきて店を開いたという。 私もコーちゃんとは仕事一年目で別れたことを話し、そのコーちゃんとさっき四年ぶりに会ったこと、その前に、去年海外赴任した元上司田口さんともばったり会い、さらにこうして横浜から東京に来てバーを開いた八木さんとも会えた、今日の偶然の重なりを興奮気味に話した。
「八木さん、いったいこれは、どういうことなんだろう?」
八木さんは丸いメガネを指で上げ、少し笑みを浮かべながら言った。
「何も悪いことが重なったわけじゃないから、いいじゃない。神の思し召しで、長い人生にはそんな日もあるんだよ、里奈ちゃん」
 神の思し召し・・・。私はこの間一年付き合った彼と別れた話もしようと思ったけど、八木さんも短くなった私の髪を見ても何も言わなかったので、やめておいた。
 たった一日の間に繰り広げられた偶然の不思議と美味しいシャンパンに少し酔った私は、八木さんにまた来ますと言ってバーを出て、タクシーに乗った。

 マンションに着いた私は、エレベーターで3階に上がり、自分の部屋のドアにキーを差して開けようとした。でも、ドアが開かない。少し酔ってはいるけど意識はたしかなのに、何が違うのと思いながら、私は無意識に呼び出しボタンを押してしまった!どうしようと焦っていると、ゆっくりとドアが開き、中から男の人が顔をのぞかせた。ウェーブのかかった髪をかき上げた顔を見て、私はハッとした。男の人が私を見て口を開いた。
「何か・・・?」
「いえ、あのこの部屋・・・」
「ここ、407です。」
男の人は呼び出しボタンの上の、プレートを指差した。番号は、407。私は上の階に降りていた。でもその間違いよりも、私の目はその顔にクギづけだった。男の人が首を傾げた。
「どこかで、お会いしましたか・・・?」
「あの、昨日、髪を切ってもらった・・・」
「髪を・・・?」
少しウェーブのかかった髪、細面の顔、切れ長の澄んだ目。ドア越しにあらわれた白いTシャツの30代前半に見えるこの男の人は、昨日銀座で、私の髪を切ってくれた人だった!彼は鏡の中の私に向けたのと同じ、柔らかい笑顔を見せて言った。
「僕は確かに美容師だけど・・・」
「昨日、銀座の美容室で」
「銀座の・・・?どうして君は・・・、僕がそこで働くのは来週からで、今週はまだ・・・」
「いえ、でも、この髪はあなたが・・・」
彼の言葉を遮って、私は髪に手をやった。私は愕然とした。私の髪が、長い・・・!?私は混乱し、うろたえた。これは、どういうこと・・・!?その時、私の頭の中に、黒く光るカラスの目が浮かんだ——
                                       
                                       (了)                

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