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何げないまばたきの一瞬に、人生の奇跡が映る。

夫ががんになった。早期発見で通院治療で完治するという。妻は不安の中で生活をしながら夫を見守った。夫はめいに、何か趣味を持つことをすすめられ、カメラをはじめることにした。何を撮ればいいのかと夫が出歩いている時、妻には健診の再検査の通知が届いていた・・・。日常のささいな出来事の中にこそ起きている人生の奇跡。それに気づいた初老の夫婦の、思いやりのまなざしと、こまやかな愛情に満ちた物語。



      1

 「だから大したことないっていってるだろ」
「大したことないって・・・、まだ分からないじゃないの!」
話を終わらせようとする和雄の言葉に、スツールに座っている佐智子が強く出かかった声を潜めて言った。
「今時、がんなんて誰でもなる。で、俺のは初期でまだ小さいもんなんだよ。早期発見ってやつだ。何度言ったら分かる!」
 和雄の病室中に響く声に、佐智子は思わず言い返そうとする自分の声を飲み込む。ここがカーテンで仕切られただけの相部屋であることを気にして、佐智子は眉間に皺を寄せ、口を大きく動かしながら小声で言った。
「もう、大きい声ださないで!」
「うん?ああ・・・、でもな、小便する時も何でもない。腰が重いなんてことも、これっぽっちもないんだよ。痛くも痒くもない、自覚症状ってやつがまったくなくて、それなのに病状が重度でステージもう後半とか、もう手遅れで後は死ぬだけとか、そんなのあるはずがないだろう!」

 佐智子は天井の蛍光灯が映った明るい緑色の廊下を歩きながら、夫、和雄とのやり取りを思い出し首を振った。和雄は二週間前にこの病院に一泊入院していた。疑いのある病気は、男性特有のがん、前立腺がんだった。
 九月に受けた健康診断の血液検査で引っ掛かり、再検査をすると前立腺の数値に異常が認められ陽性の判定が出た。それで超音波エコーやMRI、直腸診、そして生検検査といった精密検査全般を行なうことになった。その時の医師からは一連の検査の結果を見なければ病状の確定は出せないと言われていたが、和雄は検査結果が出る今日の今日までずっと、がんだとしても症状も全く出ていないから大したことはない早期発見だと、自分勝手な考えを主張し続けていた。
 
 佐智子の頭の中は、たった今会ったばかりの担当医師との話で一杯になる。
「病状は初期のものと見てとれます」
細いフレームのメガネをかけた、30代前半くらいにしか見えないまだ若そうな医師が、和雄に向かって言った。和雄は少しの間を置き、腕を組んでゆっくり頷いた。だが口を開かないので佐智子が医師に聞いた。
「あの、それで・・・」
医師は高い背もたれのある椅子を回し、佐智子に体を向けた。佐智子がちらりと胸のネームプレートに目をやる。そこには細面の顔写真と浅尾という名前があった。
「前立腺がんには二種類あって、前立腺内にできるものと、前立腺の外に浸潤してしまったものがあります。そこから転移してしまうものも含めてですね。ご主人のは幸いに前立腺内に生じたものです」
佐智子は浅尾医師の言う言葉は聞き取れたが、その意味するところはすぐには理解できなかった。浅尾は一呼吸置いて言葉を続けた。
「まず放射線治療を行なっていきましょう」
「放射線治療・・・」
「放射線照射でがんを消滅させる治療で、回復、治癒が見込めます」
和雄は依然腕組みをしたまま頷くだけだった。
「この治療は入院には及びません。通っていただくことで大丈夫ですよ。週三回で始めましょう。曜日はですね・・・」
 浅尾が眼鏡に指をやり、デスクのパソコンを見ながら顔を少しだけこちらに向けて話をした。そして浅尾はパソコンからデスクのカルテらしき紙の上に目を落とし、二人に構う気配もなくペンを走らせた。
 
 佐智子は歩いている廊下の先にトイレのマークを見つけた。佐智子は担当医浅尾の最初の言葉に引っかかっていた。初期のものと見てとれますというのは、また違う見方、捉え方もあるということなのだろうか。ほんの少し口角を上げて話す浅尾だったが、その表情からは安心感や信頼感が感じられなかった。あれはただ患者や患者関係者に向けて作った顔であって、医師としてコミュニケーションを取る上での最低限のものだろうと佐智子は思った。彼も当然高学歴で頭は良いのだろう。若いのに名の知れた病院のこのポジションで仕事をしているということは、知識も技術もあり今は経験を積んでいるというところか。しかし、仕事が出来て優秀であることと、その人の資質、人間性については、また別の話だ。人様に対してもただの上っ面の形だけ、思いやる気などなくてただ仕事としてこなしているだけという医師もほんとうに多い。医師は人の健康、生き死にまでも預かる大変な仕事なのだから、技術の習得と合せて、人の心というものをもっと学んでから現場に出るべきだと思う。人への誠意を一番大事なものとする人は、医師だけじゃなく、今の世の中ほんとうに少なくなっている・・・。
 佐智子はトイレに着き、洗面の鏡に目をやった。          「だからといって、油断は禁物です。この段階止まりのものなのか、これから悪くなっていくものなのかは分かりません。一気に悪化して最悪亡くなられる方もいますから」
浅尾医師の抑揚のない言葉が頭の中に響いた。佐智子の頭の奥に疑念が湧いた。まさか、浅尾が早期発見と言ったのは事実ではなく、すでに和雄の病状は相当悪化が進んでいて、そのことを隠しているのでないか・・・。
 佐智子は鏡に映った自分の心の中では疑心が渦巻いていることが嫌になり目を逸らした。
 


 「良かったなあ、早くに見つかって。でもがんはがんなんだから、良くはないか」
和雄の横に座っている白髪頭の永島が、和雄に向けて上げていたチューハイのグラスを下ろしながら言った。
「そうよ、もうこれで確かになっちゃったんだから。大事にしてよ、本当に!」
ここ小料理屋「川路」のちょっとした美人で評判の女将が、着物の袂を抑えスナップを効かせて右手を振った。
 和雄が膝に手を置き、口を開く。
「わかってるって。それで酒も飲めないのにこうやって店に来たのはさ、みんなに心配かけてるんだから、俺の口からちゃんと報告しておかないとさ!」
「そうだな、それで篠田はどうなったとか、やばいらしいとか、変な噂をすることになっちゃうからな。顔を見せに来たあんたは、ほんとうにエライ!」
永島の言葉に、L字のカウンターの角に座って焼き魚をほぐしていた禿頭の鎌田が大きな目をぎょろっと上に向けた。
「あんたは、エライ!って、そんなギャグありましたね。でもそうとう昔ですよ。誰のだっけなー」
鎌田もここの常連で、和雄、永島とは気心知れた飲み仲間だった。鎌田は古いギャグの使い手の名前を思い出すのを諦めて箸先の魚の身を口に放り込み、ロックの焼酎をごくりと飲んで言った。
「でもさ、和雄さん。もしもですよ、もしもほんとに悪くなってたら、どうしてましたかね?」
「まずは放射線。それで治らないようなら、抗がん剤。抗がん剤でも駄目なら、あとは切除しかない。それでもってことは、もう他に転移だ何だで、みなさんさようならだ」
和雄は用意していたメモを読み上げるようにすらすらと言った。
「臓器が機能するならまだいいけど、全部取っちゃったらその臓器のやっていた働きはどうなるんですかね。他の臓器が肩代わりするのかな。それとも、ないままでも、生きていけるのか?」
鎌田が首を傾げて言った。
「そういう話は美味しく飲んだり食べたりする所でやらないの!」
女将がおひたしを小鉢に盛りながら眉間に皺を寄せて言った。
「そのおひたし、こっちにもちょうだい。食べるか?」
永島が女将の手元を見ながら和雄に聞いた。
「おう、これからは食生活にもより一層、気を使わないとな」
そう言う和雄の顔をのぞいた女将が、きれいにカーブした眉を上げて言った。
「いきなり、殊勝ね。和雄さん」
「そりゃそうさ、早く治して美味しい酒を飲みたいからな。だけど、俺は前から暴飲暴食なんてしてなかったよ。女将が証人だよな。だから何が災いしたのか分かんない。体の中のことは、ほんと本人でも、分からないな」
「そうねえ、和雄さんで飲み過ぎっていうんなら、この人なんかどうするの」
鰹節をのせたおひたしの小鉢を永島と和雄の前に置きながら、女将が鎌田に目を向けた。あわてて鎌田がぎょろ目をむいて言った。
「ど、どうするのって・・・。そりゃ飲みますよ、俺は。何と言われようと、飲まなきゃね、やってられないのよ、これが」


 「おいしそうね。いつもありがとう、結衣ちゃん」
茶色の紙袋の中に何個も入っている狐色のベーグルを見て、佐智子はお礼を言った。
「どういたしまして!」
青いTシャツにGパンの長い手足をバレリーナの挨拶のように折り、顎までの短い髪を揺らせて、結衣が応えた。
「コーヒーじゃなくて、紅茶入れようか」
「うん、いいよ。でも、ほんと良かったね、早期発見で。さっちゃんもほっとしたでしょ」
結衣は黒い革のリュックを椅子の背に掛けながら、キッチンに立った佐智子に言った。
「そうね」
「検査はちゃんと受けておくものだって。うちの二人も言ってた」
「ああ、淳さんにも、気をつけてって言っておいて」
佐智子がケトルからティーポットにお湯を注ぎながら言った。
「パパは大丈夫でしょ」
「分からないよ、結衣ちゃん。年を取っていくと体中どこだって悪くなる可能性はあるんだから」
「悪くなる、可能性・・・。ね、なんか変だね、悪くなる可能性って。可能性ってさ、いい方、良くなっていく時に使う感じ、しない?」
佐智子は棚から取り出したティーパックをポットに入れながら結衣に聞いた。
「で、イラストの方はどうなの?」
結衣は眉間に皺を寄せて顔をしかめた。
「うーん、こないだ仕事場のある辺りの地区のフリーペーパーにひとつ描いたけど」
「何を?」
「うさぎ。赤い目のうさぎたちの中に一匹だけ青い目がいて、立ち上がっているの」
「いいじゃない」
結衣は大きな目を見開いて佐智子に言った。
「いいわけないじゃない!ギャラは商品券・・・、いやクーポン券かな。何かそんなようなものくれただけなんだよ」
「それでも、描いたものは人に見てもらえるんだから」
「いやー、もっと、雑誌とかポスターとかじゃないと!」
「いい仕事はね、小さくても誰かがちゃんと見てくれてるって」
佐智子が結衣の前に紅茶を置く。すぐにカップを口元にもっていき、一口啜りながら結衣が言った。
「いや、それでさ、早期発見と言ったって病気は病気、がんなんだから、和おじ、滅入ったりしないかと思って」
「うーん」
佐智子はあいまいな返事をした。
「やっぱりさ、病は気からって言うから、変に考え込んじゃったら良くなるものもならないじゃない。ね、和おじ、通院治療?」
「そう。週三回だって」
「でしょ。ま、普段は、節制しなきゃいけないとかあるけど、基本自由にしてていいんだから、何か気を向けられるものとか、熱中できることがあった方が絶対にいいんだって。バイト先の子のお父さんもがんだったんだけど、そのことが書いてある本読んで、前から好きだった釣りをまた始めたら、がんが良くなったんだって!その本は今度買ってくるけど、ね、さっちゃん、和おじも何もしない人でしょう。ここで一つ、病気対策と治った後のことも考えて、何かした方がほんといいと思って」
 結衣が話していたところで、玄関のドアが開く音がした。すぐに廊下をどすどすと步く足音が続き、ダイニングのドアが開いて和雄が入ってきた。
「おお、結衣ちゃん!」
「和おじ!良かったねー、早期発見!」
体を投げ出すようにして椅子に座った和雄は、結衣のいきなりの言葉をもらい、ポロシャツの襟に手を入れ首をさすりながら短い一言を返した。
「まあな」
「でも前立腺ガンってことは確かなんだから、早く治さなきゃね。お酒はもちろんNGだよ。ほら、これ、食べて」
「おう、いただくか!」
差し出されたベーグルに顔を向けた和雄に、間髪入れず、手を洗ってきてと佐智子の声が飛んだ。
 洗面から戻って来た和雄に結衣が言う。
「パパとママも、早く見つかって良かったって言ってた」
「心配かけて、すまなかったな」
椅子に座った和雄は膝に手を乗せ、白髪頭を下げた。
「ま、病気は治していくとしてさ、和おじ」
「うん?」
「何かさ、何かやらない?」
「何か、やらない?」
和雄が結衣の言葉を繰り返して、何のことだという顔をした。
 結衣がすらりと伸びた長い手を胸の前で組んだ。
「まあ、世に言う、趣味ってこと」
「趣味?」
「だって和おじ、趣味がないでしょ?お酒飲むこと?」
いきなり言われて、和雄は大きく首を振った。
「そ、そんな、趣味と言われるほど飲んでないよ。そりゃあ仕事してた時はまあ飲んだけど、今は全然だって。ま、月に一、二回、いや二、三回か、外で飲んでる酒は、コミュニケーションを楽しく取るためにさ・・・」
「じゃ、趣味は何?」
結衣が和雄の言葉を遮って聞く。
「そりゃ、時々だけど、本読んだり、してる」
今度は結衣が首を大きく横に振った。
「まあそれもいいけど、何かさ、自分でやることだよ。スポーツしたり、本を書いたり!」
結衣の言葉に一瞬口を開けたまま固まった和雄が、すぐに口を動かして言った。
「本を書いたり?そりゃ無理だ。この頭で本なんて書けるわけない。スポーツは三十代で草野球を引退した。もういまさら・・・。待てよ、今自分で出来るっていうと、自転車に乗ることぐらいだな」
結衣が腕組みを解いてテーブルに身を乗り出した。
「あのね、自分の頭を使うのと、体を動かすのを、一緒にやるものがいいって。年を取ると特になんだって!和おじ、絵、描くのはダメなんだっけ」
「また何言ってんだ。結衣ちゃんと違って、その才能の血は一滴も流れていない。残念ながらな」
「じゃあさ・・・。陶芸とかは?月並みだけど」
「陶芸?あの、ろくろ回すやつ?」
「何かさ、もの作り、いいじゃない?創意工夫ってやつ。頭に描いた思いが、体に、手にこう伝わっていって、カタチになっていくの。その逆もあるんだよ。何かこねってたら、あ、この形、いいなって。ちょっと、器にしてみようかなって思ったりして」
「うーん・・・」
「来るとき、通りの掲示板見たら、陶芸を始めて見ませんかってポスターが貼ってあった。もしあれだったら、今ネットでも見てみるし」
結衣がリュックからスマホを取り出した。
「陶芸ねえ」
 結衣のいきなりのそれも具体的なアドバイスに、腕組みをした和雄はそのまま椅子の背もたれに体をあずけ息をふうと吐き出した。


 翌日、昼になる少し前に、家の固定電話が鳴った。佐智子が表示をみると、妹の加奈子の名前が出ていた。
「ああ、加奈ちゃん、昨日結衣ちゃんが寄ってくれてね、またパン、パンじゃない、ベーグルをごちそうになった」
「ああ、バイト先のね。それで結衣から聞いたけど、和雄さん元気なのね。早く見つかって良かった!」
「本人は前から大丈夫って言い張ってたけど、これではっきりしたから。でもがんはがんよ」
「そうだけど、ほんとに良かった、大変なことにならなくて・・・」
「うん。病状が悪くてこれから先苦しむんだったら、さっさといっちゃった方がいいって思ってたんだけど」
「何言ってんの、人生これからよ、和雄さん。ちゃんと治して」
「お宅はどうなの?淳さん」
「うちは・・・、今咳が出てて、風邪かなっていうくらい」
「いいわね、健康で」
「お酒もタバコもやらないけど、何か喉がね。気管支が弱いのよ。あと、もうすぐ定年で気持ち穏やかじゃないみたい。結衣のことがあるから」
「結衣ちゃんが、何?」
「まともな仕事にもつかないで、結婚する気もないっていう娘の事を心配じゃない親がいると思う?」
「あの子は大丈夫よ。ちゃんとしてる」
「どこがちゃんとしてるっていうの。いい歳になっても、まだふらふらしてて。イラストでも食べていけなくて」
「とりあえずOLでもやって、って子じゃないから」
「誰かとお付き合いする気配もなし」
「男の人に食べさせてもらおうなんて考えはないんだって」
「それじゃどうするの?これからの長い人生、一人で生きていくっていうの?」
「それもありなんじゃない」
「その辺が分からないのよ、私たちには。そっちにはよく寄らしてもらって話してるようだけど、こっちでは全然、何も話さないから。いったい何を考えてんだか・・・、さっちゃんからさ、聞いてみてよ」
「聞くって、何を」
「この先どうするつもりかって」
佐智子が首を横に振り、一呼吸おいて応えた。
「タイミングがあればね」
「和雄さんによろしく。ほんと、大事にしてください」
ありがとう、と言って佐智子は受話器を置いた。
 窓外に目をやると、ベランダの手摺に雀が一羽とまっていた。雀は佐智子の視線に気づいたのか、頭を左右に振ったかと思うとぱっと飛んでいった。
 結衣は大丈夫、時間がかかってもきっと自分ですべきことを見つける。佐智子は雀のいなくなった手摺を見たまま、そう思った。

 「陶芸のつどい」と立て看板に掲げられた区民館の一室、そこに集まった参加者十五人の中に和雄はいた。佐智子に持たされ体の前にした焦げ茶色のエプロンには、きっちりたたみジワがついていた。
 「はい、みなさん、とにかくやってみましょう!まずはその粘土をろくろに乗せて下さい。習うより慣れろ、ですからね」
禿げた頭をつやつやさせた、エプロンが出っ腹で盛り上がっている初老の講師が、教室中に響く声で言った。和雄を含めほとんどが老人という参加者の中に、友達同士の若い女性が二人混じっていた。和雄はその二人から目線を戻し、目の前にあるろくろをあらためて見た。  
 講師の説明が始まり、銀色の天板は軽合金でできているという。和雄はその横に置かれた黄土色の粘土を両手で持ち上げ天板の上に乗せた。その量500gとあったが、これがなかなか重い。横の男が体を傾け、和雄のろくろの下の方を指差した。
「そこ、右にペダルあるでしょ。それ踏むと回るから」
いきなり横から言われた和雄が、ペダルの方に目をやった。
「それ、踏み方でスピード調節できるから。それでブレを取りながら、真ん中にまとめていくんです」
和雄が、はあ、と言いながら声の主を見ると、大きな銀縁の眼鏡を指で押し上げ少し口をゆがめ、それは多分少し笑ったつもりの男が説明を続けた。
「それで中心をくぼませてね、あ、私、こう見えて経験者なんですよ」
そう言った男に和雄は苛立った。先輩面か。人は自分の知っていることを知らない人に教えて、その人がうまく出来るといいと思う人と、相手より自分の知識経験があることで関係上優位に立ち、優越感に浸る人、つまり威張る奴がいる。この男はどっちなんだと和雄は男の顔を見ながら、和雄はこの隣人が経験者であることに敬意を表しながら、指南お断りと取られないように気を使いながら、前に立つ講師の方に顔をやった。
「そうなんですか。あの、これから先生が実技を」
男が講師を見て小声で言った。
「習うより慣れろって言っておきながら、彼は長いんですよ、講釈が。同じ話すならみんなの創作意欲をかき立てるような話しないと、入門なんだから。茶の湯の話とかねえ」
男は和雄を見て続けて言った。
「長次郎はご存知ですよね。あの利休の器」
和雄は始まったと思いながら、首を横に振った。
「いえ、まったく」
「そうですか。楽焼、ご存じない?それはもったいない。知ってること少しお教えしますよ。これもご縁だ、終わったら、お茶でもいかがですか。ちょっと一杯といきたいところだが、まだ日も高いですからね」              
講師の実技が始まっているのに自分の話を続けるのは失礼で迷惑じゃないか。
「すみません、この後は用事があるので」
 和雄はこの指南男によっぽど言ってやろうかと思ったが、やめておいた。その代わりに和雄は少しひんやりしたろくろの粘土を、この野郎!と心の中で怒鳴りながら手のひらで強く叩いた。

 「いるんだよな、ああいう奴が。ちょっとかじったくらいで、何が、利休をご存じない、だ。あんな奴がいるところで陶芸なんか・・・」
「やめてよ、つっかかって問題起すの」
ブロッコリーをナイフで切り分けている手を止めて、佐智子が顔を上げて言った。
「おう、だからやめる。やめるっていうかまだ入った訳じゃないからな。問題は陶芸じゃない。そこにいる奴だ」
「しょうがないじゃない。色んな人が集まって一緒にやるところなんだから」
「そんな奴らとは一緒にいたくないね。ふざけやがって!」
「ねえ。この世の中はそんな人達と一緒にやっていかなきゃならないってこと、これまで長いこと生きてきて、十分分かってるでしょうに」
佐智子の言葉が終わるのを待っていたかのように、火にかけていたケトルがけたたましく音を立てた。


          2

 ベンチシートに座った和雄はロビーをざっと見渡した後、奥向こうへ続く廊下の方を見た。そこを行き交う人の中で、パジャマや病院のガウンを着て歩いている人に目が行く。点滴を吊るしたスタンドを押して歩く人。松葉杖で体を支え片方の足を出してはもう片方の足を引きずるようにして歩く人。鼻にチューブを入れ車いすに座り後ろから押してもらっている人・・・。その人たちは入院患者で、みんなそれぞれの様々な病で、ここでの入院生活を送っている。その病気を治すためだけに、ただ退屈極まりなく、どうすることもできない辛い日々を過ごしているのだ。それを免れることが出来て、自分は本当に良かったと、和雄はあらためて思った。
 和雄は初めての放射線治療を終えていた。治療は体の外から放射線を光をあてる外照射で、時間にして20分程度。痛くも痒くもなく、何ということはなかった。この治療は三ヶ月間、十一月、十二月、来年の一月まで続く。放射線の量はグレイという単位で表されるらしく、治療に必要な総量は7、80グレイだという。体の負担を考えて一回2グレイまでが限度で、それが照射時間にして20分というこだ。総量から回数を割り出すと35回以上。週三回で三ヶ月、という計算になる。この入院患者たちがきっと辛く苦しい入院生活を強いられることを思えば、自分のこの通院治療が煩わしいとか、面倒だなどとは言っていられない。 
 しかし、と和雄の頭の中が、今気になっていることに切り替わる。この有名な総合病院は、医師の体制についてはどうなのだろうか。確かに医療設備は充実しているのだろう。だが患者の数に見合った医師は、その数と質は共にちゃんと揃っているのだろうか。自分の担当医はどう見ても30代、それも前半にしか見えない。あんな若いのに、責任あるポジションが務まるのか。頭脳明晰なホープか何か知らないが現場の経験を十分積んでいるとは思えない若手に、人一人の体を、ひいては人の命に関わることを、任せてしまって大丈夫なのか・・・。
 担当医の浅尾は和雄にとって初めての放射線治療の前にあらわれ,、内容を口早に説明をしていった。確かに忙しかったのかもしれないだがその張りのない声や少しだけ口元を上げた作り笑顔には、診断の時感じたのと同じく、彼の人間味というものが少しも感じられなかった。人と接する、人に関わる仕事というのは、仕事をただソツなくまとめればいいとか、うまくこなせばいいというだけのものではない。相手のことを思う心そのものが、大事になってくる。
 和雄は自分がまだ仕事をしていた時のことを思い返す。三十代になった自分がどんなに仕事の成績を上げても課長補佐止まりで責任あるポジションに就くことはなかった。部長職に就いたのは歳も四十を越えてからのことで、管理職になってからも、現場に成績優秀な若手がいても責務ある地位を与えることはしなかった。それは仕事のスキルのみならず、人と向き合うことの大切さ、難しさを考えてのことで、全ては人からの信頼を得ることが一番という会社のポリシーによるものだった。仕事が出来さえすればいいという今の時代の能力本位主義的な考えは、それを否定することがどんなに古い考え方だと言われようが、間違っていると和雄は思っている。あの若い担当医には、人の信頼を得るという医師になくてはならない大事な力がまだ備わってない。
 和雄はそこで少しだけ首を横に振った。待て待て、そんなことはもう考えなくてもいいのだ。兎にも角にも自分のがんは早期発見で軽いもので、今日から始まった治療で三ヶ月もすれば良くなる。自分がこの先あの若い担当医の世話になることは、もうないはずだ。                                          思い直した和雄が、ベンチシートに背中を当て仰け反るように伸ばしていると、佐智子がロビーの向こうから歩いて来るのが見えた。日頃離れたところから佐智子を見ることはないなと和雄は思った。
 バッグを置いて横に座った佐智子に、和雄は今思っていたことを言った。
「病院っていうところは、ほんとに大変だよな」
佐智子は返答をしないままバッグからケータイを取り出し、前方に掲げられた大きなモニターに顔を上げ、ずらりと表示されている3桁の番号を目で追った。
「ずっと入院なんてことにならなくて、ほんと、良かった」
和雄は他人事のように言ってみせるが、佐智子はすぐに眉間にしわを寄せた顔を和雄に向けた。
「何をもう治ったみたいなこと言ってるの。これから何ヶ月か治療していくのよ。分かってる?あなたは健康で何でもない人っていう訳じゃないのよ」
「そりゃ、そうだけどさ」
和雄は、シートから体を起こし腰を上げようとした。
「行くか」
佐智子は顔をしかめ和雄をにらんだ。
「まだ。薬。あとお金払わないと」
「薬に、カネか。それもまた滅入る話だな。医者も若くてなんだか信用ならんし。病院ってところは、ほんとうに精神的に良くないぞ」
佐智子は和雄に言葉を返さず、小さくため息を吐いた。

 佐智子は門前仲町で地下鉄東西線に乗った。次の駅茅場町から歩いて5分のところにある総合病院へ年に一度の健康診断を受けに行くためだった。毎年九月くらいに受けていたが、今年は和雄のことで掛かり切りになってしまい、自分のことなどすっかり忘れてしまっていた。和雄が早期発見とはいえがんを患ってしまったことで、自分もこの歳になって何か病気を患ってしまう可能性がなくはないと少しは思ったが、今までの検診で再検査となったこともなく病気らしい病気の経験もないので、今回に限って不安が、ということはない。
 人はだいたい、若いとか元気だとかまだまだやれるとか、本当に自分に自信があるうちは、胸を張っていられて何の問題もない。しかし体力が衰えてきたとか、記憶力が悪くなってきたとかいう老いの自覚が出てくると、内心不安のまま、それを認めずにやり過ごすようになる。そして自分に都合のいい解釈をして取り繕い、自分を良く見せようとするのが常だ。自分もそんな人間の一人であることに違いはないのだけれど、実際自分が病気になると、どうなるのか分からない。
 ただ、私が病気になるようなことはない、というこの根拠のない自信は一体どこから来ているのかと佐智子は思う。健康診断を受けることを毎年きちんと守っているのは、悪いところがないかとか病気の可能性はないかということより、年に一度病院へ行って受診するという自分に課したノルマを果たす、そのことのみに意義があるようになっている。その意義以外に、本当の病気など見つかることがあってはならない。そんな面倒なことは絶対にご免だというのが、無意識のうちにある本心だろう。私が病気になるようなことは、あっては、ならない・・・。
 佐智子は目線を下に落とした。そこは優先席であり、一人座っているのは、スマホをいじっている細身の若いサラリーマンだった。頭の中に渦巻く考えを振り払うのには打ってつけの状況だった。
 一体何をやっているの。そこをどきなさい。近くに老人や体の不自由な人がいるいないの問題じゃない。ここはあなたのような人が座る席じゃないの。それがどうして分からないの。とにかくすぐにそこから立って!
 佐智子は今にも口から声が出そうになるのを堪えた。するといきなり電車が減速を始めてがくんと揺れた。許せないものは許せない、佐智子は憤りながら両足をしっかり踏ん張った。
 
 
 
 マンションを出た和雄は暖かい日差しを感じ空を見上げた。空はどこまでも真っ青で雲一つなかった。十一月とは思えない陽気に、和雄の足取りは自然と軽くなった。
 和雄は勤めていた住宅サッシの会社を定年退職後、五年間の子会社勤めを終え、六十五歳でまたここ深川の門前仲町に戻った。以来三年になるが、高校卒業から五十年が経ったことになる。
 和雄の両親はもともとここ門仲の古石場という、八幡宮のある方とは反対側の地区に住んでいた。ふるいしば、とは珍しい名前だが、この辺りが江戸時代に石切場だったことに由来する名前だという。和雄はこの町にあった実家で生まれ育ち、高校までの十八年間を過ごした。受験に合格して入った大学は横浜にあり、そこで下宿生活をして四年で卒業、就職先は定年まで勤め上げることになる住宅の窓枠、サッシの製造販売の会社だった。入社から五年後、社内で出会った佐智子と結婚、佐智子の実家に近い横浜で賃貸マンション暮らしを始めた。その後すぐに和雄の父親が急な病気で他界。以来母親は一人でずっとこの古石場の一軒家に住んでいたが、その母も八年前に亡くなった。
 和雄は母の生前ずっと、月に一度は必ず家に寄っていた。それは息子としての義務ということもあったが、和雄は少年期まで過ごしたこの門仲という気の許せる幼馴染のような街に寄ること自体が楽しみだった。佐智子もこの一軒家に母と住んで生活をともにすることには首を縦に振らなかったが、義母のことは決して嫌いではなく、また横浜のハイカラとは全く違う、江戸の粋を感じさせる深川の雰囲気も好きで和雄とともに寄っていた。 和雄と佐智子はこの母の家土地を整理処分して、その目と鼻の先にあり比較的安い価格で出ていた中古マンションを購入し、人生の残りの日々をこの街で過ごすことにしたのだった。 
 和雄は何かあった時にはいつも、江戸深川の八幡さまとして有名な富岡八幡宮に参拝することにしているが、今回の自分のがんのことも報告しておかなければと思っていた。和雄は自分が信心深い人間だとは思っていない。現に困ったことがあった時も、お助けください、何とかしてください、というような神頼みはせずに、何か判断や決断に迷っている時、どうしようかと考えていますとか、事の結果が出た時、こういう事になりましたというお伝えをすることにしている。それで有り難いお言葉が聞こえてくるなどということはないのだが、自分の気持ちを隠さずにあらわすことで、心が落ち着いてくるのが参拝の良いところだ。あのとんでもない事件が起きた後も、それは変わらない。
 あんなとんでもない事件・・・、それが富岡八幡宮で起きたのは二年前の十二月、世の中が年の瀬に向かう頃だった。その時の宮司は先代の親から引き継いだ娘だった。その女性宮司が夜外出先から車で境内の自宅に帰宅したところを、女性宮司の実の弟が、自分の妻とともに待ち伏せていて、所持していた日本刀で女性宮司に斬りつけ死亡させた。弟は姉を殺した後、自分の妻を殺した上自ら刃を立て自殺した。弟は八幡宮の元宮司で、親から宮司の座を譲り受けたが、素行不良でその地位を姉に奪われ長年不仲だったことからその恨みつらみで犯行に及んでいた。
 人の幸せを祈る神社の内部で起きたこの凄惨な事件により、そのすぐ後の今年年明けの八幡宮の初詣は参拝客が激減したが、長年お参りしてきた多くの人々の、八幡様が悪い訳ではないという声は多く上がり、江戸から続くこの神社本来の根強い人気で、年があらたまる来年の新年にはまた例年通りの詣で客で活気が戻るのではないかと言われている。
 この事件の顛末を人の話や週刊誌などでよく知るほどに、和雄は、神に仕えるというまさに神聖な仕事の裏で、実の姉弟で骨肉の争いをし続ける執念を、互いに持ち続けられたのは何故だろうと思った。そして、人の持つ果てしない欲望というものは一体何処から来るのだろうと思った。
 しかし、と和雄は首を傾げる。つい一年前のことなのに、この事件は随分前に起きたことのような気がしてならない。それは、現実にはあまりにも有り得ない、悪夢のようなことだったからかもしれない。
 和雄が永代通りに出た。通りの向こうには見上げるほどの高さの大鳥居が、青空に聳え立っている。その下を真っ直ぐ続く参道の奥には、明るい青緑色の屋根に鮮やかな朱塗りの御本殿が見える。和雄は通りを渡り、大鳥居の左端を少し頭を下げてくぐった。
 
 和雄が参道途中にある手水所で手を洗い口を濯いで行こうとすると、横の方から声が掛かった。
「スミマセン」
「はい?」
振り向くと、そこにはデニムのシャツを着た細身で長身の、金髪の外人が立っていた。和雄が見上げた小さな顔には柔らかい笑みが浮かんでいる。その表情から歳は若そうに見えた。外人の若者は真っ白い歯を見せながら言った。
「トッテ、イタダケマセンカ」
和雄に向けて差し出されたのは、Canonのロゴのついた黒いボディに長いレンズの本格派のカメラだった。
「ああ、いいけど・・・、そんなすごいカメラ、写せるかな・・・」
和雄は若者が発した正しい日本語に気を許しながら、プロが使うようなカメラを見て首を傾げた。若者はそのカメラを和雄の前に持って来てシャッターボタンを指で指した。
「コレ、デス。コレ」
「コレって・・・?コレ、押すだけなの・・・? 」
若者は指でボタンを押すアクションをしながら大きく頷き、和雄にカメラを渡した。和雄はカメラを手にした瞬間、その重みと手触りに驚いた。
「お、結構重いねえ」
カメラの後ろには大きなモニター画面があって、若者がそこ、そこと人差し指で指した。和雄は言われた通りモニターを見ながらも、その上にファインダーがないかと探したが見当たらない。どうやら今時のカメラはスマホのようにこのモニター画面を見て撮るようだと和雄は気づいた。だが和雄はスマホでも写真など撮ったことがない。和雄が若者にレンズを向けてみると、モニターに顔が映った。
「おお、映った、映った!これで、シャッター押すだけ?」
和雄がまた驚きながら言うと、若者は金色の眉を上げて頷いた。
「よし、分かった!でもあなた、日本語うまいですね」
「スコシ、ベンキョウシマス・・・、シマシタ」
間違いを気にして少し恥ずかしがった若者の笑顔に、和雄が思わずシャッターボタンを押すと、ピッ、パシャッという小気味いいシャッター音が鳴った。

 和雄は外人の若者に、八幡さまの説明を英語でしようと試みた。
 今から四百年前の江戸時代に、徳川将軍家がこ富岡八幡宮、八幡さまを作った。江戸の相撲はここ八幡さまの境内で行なわれ、鳥居の横には相撲の大関力士の碑が立っていて、本殿の後ろの方には横綱力士の碑がある。そこには江戸の横綱から名前が記され続けていて、最後は今の一番新しい横綱の名になっている。和雄の単語をなんとかつなげた英語は、大体の意味を若者に伝えることができたようだった。
 若者が、アレハ・・・、と言って手水所の向こうの倉庫を指差したので、和雄は、ああ、あれねと頷き若者を促した。その倉庫はガラス張りになっている神輿庫で、中には巨大で豪華な神輿が格納されていた。若者はそこに鎮座している大小二台の金色の神輿に目を見張り、巨大な一台の方を下から上へとゆっくりと見上げて、驚きと感心を端的にあらわす日本語で言った。
「スゴイ、デス・・・」
「これは、御神輿。オ、ミ、コ、シっていいます。知ってる?」
そう言いながら若者の顔を見た和雄は、英語を使わなければならないことを思い出した。。
「ディス・バードアイ・イズ・ダイヤモンド!あ、えーと、目は二つあるから複数形か?ソー、ダイアモンズ!他にもいっぱい宝石が・・・、って英語でなんて言うんだろ」
和雄が英語の言い方を考えているうちに、若者は灰色がかった緑色の目を見開き、外人らしく驚く。
「ダイヤモンズ・・・?オー!」
左に置かれた大きい方は一の宮神輿で、横にある説明書きには高さ4m40㎝、重さは4・5トンで、全体に純金の装飾が施されているとある。さらに神輿の上で翼を広げる鳳凰は、胸には7カラット、一対の目には4カラットのダイヤモンドがはめ込まれ、冠はルビーが2千個あまり使用されていると書かれてある。右の小さい方の二の宮神輿は、高さ1m40㎝、重さ2トン、鳳凰の目は2・5カラットのダイヤがはめ込まれている。
 富岡八幡宮の祭りは江戸三大祭りの一つ、深川八幡祭りと言われ、本祭り、翌年御本社祭、翌々年の蔭祭りの三年ひとサイクルで行なわれる。一の宮の方はさすがに巨大で重過ぎて人によって担がれることないが、今年は御本社祭の年にあたり、夏真っ盛りの八月には黄金に輝くこの二の宮神輿が、深川の粋な衆に担がれて界隈の沿道を渡った。
 そのことをなんとか若者に説明した和雄は、さ来年!と指を二本立て声を上げた。
「ネクスト、ネクスト・サマー・フェスティバル、ユー・カモン!八幡祭り、すごいよ!町の神輿が50以上も出て続々と歩く本祭り!そこにみんなで水を掛けて・・・、ウォーター、ウォーター!こうやって、掛けてね!」
和雄はバケツで水を汲んで掛ける動きを何度もしてみせた。本祭りは〝水掛け祭り〟とも呼ばれ、深川の町内会53基の神輿が連なり界隈を渡御するところに、地元消防署のホースからあるいは町の衆が貯水槽からかき出す大量の水が浴びせかけられるという、活気と迫力の夏まつりとして有名だ。
 「オー、ワンダフル!スゴイデスネ、アリガトウゴザイマス!」
和雄の拙いが気持ちの入った英語での誘いに、外人の若者は頭を下げて礼を言い、金色の翼を広げた鳳凰にカメラを向けて小気味いいシャッター音を響かせた。

 和雄は外人の若者と別れ、まだ済んでいなかった参拝をしに御本殿の前に行った。和雄はポケットの小銭入れから五百円玉を出して賽銭箱に入れ、しっかり背を倒して二度礼をし、パンパン、と大きく二度拍手して目をつぶった。
 前立腺がんになってしまいましたが、早期発見が出来て、幸い症状も軽いものです。病院に通って、放射線治療で治していきます。その後は健康に気をつけながら、人生の後半をなんとかやっていきたいと思っていますので、見守っていただきますよう、どうか、よろしくお願い致します・・・。
 和雄は幸運への感謝と病気治癒を祈った後、最後にしっかりと本殿の奥に向かって礼をした。
 和雄が帰ろうと参道を歩いていくと、また声がかかった。
「あの、すいません」
「はい?」
「ちょっと、撮ってもらえませんか」
今度は日本人の若者だった。若者の髪は普通の横分けで顔が小さく、とても人懐こい笑顔をしていた。格好は緑色のジャンパーにジーンズで、大学生か社会人なのか分からないが二十歳前後といった年頃に見えた。外人の若者の後なので、なおさら幼くかわいい感じがした。その若者の後ろには白いニットを着た背の小さな若い女性が立っていた。彼女は申し訳なさそうな表情をして和雄の方を伺っていて、その黒めがちの目が和雄の目と合うと、あわててちょこんと頭を下げた。和雄は大丈夫、安心してという感じで返事をした。
「ああ、いいですよ」
承諾を得た彼は恐縮する素振りも見せず、赤とピンクの中間のような色をした小さなデジカメを、シャッターボタンを指し示しながら差し出してきた。当然スマホを渡されると思っていた和雄は、この意外さにほっとした。和雄はスマホで写真を撮るのは本当に苦手で嫌いだと思っていた。
「ここ・・・、これで、すいません」
デジカメの後ろを見るとファインダーがなく、さっきの外人の若者の本格派カメラと同じくモニター画面になっていた。
「ここを見て、撮るのかな」
「そうです。いいところで押してください」
「いいところ・・・、いいところね。そうしたら、えーっと、本殿を後ろに入れるんだから・・・。二人で、そこに立って。そうそう、それで、もう少し二人、寄って」
外人の若者を撮ったことで和雄は撮ることに少し慣れていて、それにこの小さなデジカメはとても簡単そうで扱いやすい感じがした。心に少し余裕のある和雄が出す指示に、彼はすぐに彼女の方に寄るが、彼女が恥ずかしそうにして動かない。
「うーん、それだと後ろがちょっと・・・。君、もう少し戻って。で、彼女が半歩、寄ってくれないと」
和雄がまた指示を出すと、彼が後ろから彼女の肩に手を回し、彼女を少し引き寄せた。その拍子に彼女がよろけた感じになり、思わず笑顔がこぼれた。その瞬間、和雄の指はシャッターを押していた。
「ああ、押しちゃった!えーっと・・・、もう一枚撮っておこう!」
次は二人とも和雄が指示した位置に真っ直ぐ立って少し笑顔になり、和雄はゆっくりと落ち着いてシャッターを押した。
「ありがとうございます!あの、こうすると、今撮ってもらったのを見ることが」
カメラを手に取った若者が今撮った写真を画面に出す。
「おお、そうか!どう、よく撮れたかな」
最初の写真には、若者に引き寄せられた彼女の、はにかんだ笑顔が自然に写っていた。
「あ、いいじゃない、最初の!」
「ばっちりです!ありがとうございます」
「よかった。大役を果たせたよ」
「ぼくたち、結婚するんです」
いきなりその言葉を口にした彼の袖を、彼女が引っ張った。
「何言ってるの!」
和雄は彼女の声を今初めて聞いた。その彼女の言葉が、知らない人に言うことじゃないということなのか、そんなつもりはないということなのかは、分からなかった。
「すみません、そんな、関係のない話してしまって・・・」
すぐに彼女のはっきりした声が耳に響いた。謝りの言葉の意味するところも分かり、礼儀をわきまえた人なのだなということも分かった。今会ったばかりの人にいきなりプライベートなことをというニュアンスが十分感じられる表情ともに、彼女は茶色い髪を前に垂らし、和雄に頭を下げた。
「いや、それはおめでとう!じゃあ、こちらカメラマンとしては絶好の場面に巡り会えたってことだね」
「すみませんでした」
彼女が、今度は、写真を撮ってもらったお礼の意味でまた頭を下げた。
「じゃ、お幸せに」
「ありがとうございました!」
彼の方は彼女に構わず、和雄に明るく礼を言った。和雄は歩きながら軽く手を上げて答えた。
 
 和雄は永代通りの信号を渡りながら思った。若者には未来がある。その未来はいろんな可能性に満ちている。自分がやりたいことや、この先に起きることに何か大きな期待が持てるのが若さの特権だ。和雄の頭の中に、さっきのカメラの画面に映った外人の若者の笑顔と、若い男女二人の屈託のない笑顔が浮かんだ。そういえば、自分の人生に残された時間というのも、未来というのだろうか、と和雄は思った。がんが治れば、未来とまでは言わないまでももう少しだけ、何かやれそうな気がするのだが。和雄はそう思いながら、雲ひとつない青空を見上げた。


 
 十一月、最終週の金曜日。佐智子は治療経過を聞くために、和雄に付き添い病院へ行った。担当医師の浅尾は和雄が治療から戻る前にお話をと、佐智子に診察室に来るように言った。
「治療を初めて一ヶ月、この治療段階のチェックでは、状態に変化が認められませんでした。誤解のないように言っておきますが、治療はすぐ目に見えて効果があらわれてくるものではありません。現段階では顕著な変化は見られないということです」
浅尾は抑揚のない声で続けて言った。
「ご主人の普段の生活に何か変化は見られますか」
佐智子は和雄のことをありのままきちんと伝えようと思って口を開いた。
「今、夫は睡眠もよく取れていますし、食欲もあります」
佐智子はその後すぐに、ただ野菜中心の献立にしているので夫が慣れていないこともあり量は十分というわけではない、と伝えようとしたが、パソコンに目を送ったままの浅尾の一言がそれを遮った。
「それで十分です。ご主人が戻られたらまた申し上げますが、引き続き治療を行なっていきます」


          3

 十二月に入った日曜日の昼過ぎ。和雄は地下鉄の階段を上がり銀座四丁目の交差点に出た。見慣れた和光の前は歩行者天国が行われていて、人が歩道も車道もなく、のんびりぞろぞろと歩いていた。和雄は至る所にクリスマスの飾り、ディスプレイが施された周辺を見渡した。三越を背にして右に山野楽器がある。隣はミキモトが緑色の高いビルに変わっていて、その隣は昔からある教文館、その向こうのビルの屋上にはリンゴのマークのついた大きな銀板がゆっくり回転しているのが見える。交差点の斜め左はRICOHのロゴが見慣れた円柱形の三愛ビルだが、その一、二階はコーヒーショップに変わっている。左に顔を向けると日産のショールームがそのままあるが、ビル全体は独特な白模様で覆われ、新しくなっていた。
 何もわざわざ日曜昼時の一番混んでいそうな時間にというところだが、和雄は今の賑わった雰囲気が見たかったのと、そしてある買い物をしたいがために、久々の銀座に来ていた。
 和雄は行き交う人の中、交差点を和光の方に渡って歩いた。日差しは強いが顔に当たる風が冷たい。目線を上げると通りの右にも左にも変わった外見のビルが目立つ。外国の一流ブランドらしいが、こうも隣接して建ち並ぶのは、銀座という日本で一番の場所で店舗を構えるプライドと、互いのライバルとの競争意識の現れだろう。自慢と突っ張りは、すぐ近くに相手がいた方がやりやすい。
 それは銀座にやって来る人々にとっても同じことだ。着飾って連れ添い歩くオバさまたちの明るい笑顔には、銀座にいることの見栄と自信が溢れている。しかし最近もっと溢れているのは、観光と買い物で大挙押し寄せて来ている海外からの元気なお客様たちで、オバさまたちは少々目立たなくなってはいるが。
 まあ、これもみんな元気だからできることだ。和雄は急に、日本人も外人も、このハレの場に来て精一杯楽しんでいる人々を認めてあげようという気持ちになった。何か不安を抱えていたら何事も楽しめるはずがない。体の具合が悪ければ、ここに来ることすらできない。もちろんみんなそれぞれで何の悩みもないという人はいないだろうが、気晴らしをするには、まずそれをする元気な体がなければできないということだ。和雄は久しぶりに銀座に来て思うことが、健康第一というのも何だかなと思った。そして自分も、最悪の状態にならなかったからこそ、ここに来られているということを、運がいい、いや、本当に有難いと思った。
 和雄は数寄屋橋交差点で周りを見た。左向かいの東芝ビルが、ガラス張りの斬新なビルになっている。正面に見上げる有楽町マリオンに向かう。このビルもひと時代が終わり、今や西武はない。しかしマリオン下の通路を向こうへ抜けると、その先には昔と同じくパチンコ店が並んでいた。店のドアが開き様々な電子音に混ざって聞こえて来るあの音は、見てくれがどんなに今風に作り替えられていても、昔と何ら変わりがない。その先の左横の電車のガード下など、もう昔の昭和そのままの雰囲気だ。
 銀座もここ有楽町界隈も新しいビルがどんどん建っているのに、どこか次の新しい時代が到来しているという感じがしないのは何故だろう。きっと、人が集う街には、変わらない、変えられない街の根のようなものがあるのではないかと和雄は思った。人がいくら新しくきれいな服で着飾っても、その性格、性根までは変えられないのと同じことだと。
 和雄は電車が通るたびにガタンガタンというものすごい音が響き渡る、低くて暗い昔のままのガード下ををくぐった。家電量販店はその先にあった。

 店に入ってすぐのところに掲げられているフロア案内図を見て、地下階に降りた和雄は目を見張った。そこにあるものはすべて、カメラ、カメラ、カメラ・・・。一瞬にして和雄は顔が熱くなった。そして和雄の額に急に汗が滲み出す。カメラのことなど何一つ知らないというのに、ここにあるカメラの中から、お気に入りの一台を選び出して買うなどということが、自分に果たして出来るのだろうか。和雄は、少し落ち着かなければという思いから、深呼吸をしようとする。しかし吸おうとした息はすぐにふうと口先から出ていった。
 和雄は目の前のテーブルに置かれた、いかにもプロ本格派の、それも特別仕様といった雰囲気の厳ついカメラを見た。ロゴはCanonで、ボディの形はこの間八幡さまで会った外人の若者のものと似ているが、このものすごく太くて長いレンズはまるで戦闘に使用するなんとか砲のようだ。これでいったい何がどう写るのだろうか。ちょっと離れたテーブルにも似た形のカメラが置いてある。そこにはNikonのロゴがあった。
 太い柱がディスプレイ棚になっているところを見て回る。ここには何か名刺入れのようなカタチをした薄くて少し丸みを帯びた、レンズが隠れて見えていないタイプが並んでいる。和雄は二本目の柱の棚を見て回った。今のとは少し違う色形をしたカード風のカメラが置かれているのを見て、この柱は薄型タイプのメーカー別になっているのだと、やっと気がついた。 
 向こうにはひな壇のようになっているディスプレイ棚があって見に行くと、そこには黒と銀の四角い形をしたカメラがずらりと並んでいた。カメラといえば、自分にとってはこれだったと、昔ながらのオーソドックスな型が残っていることに和雄は少しほっとした。和雄が手を伸ばしてカメラに触れようとした時、後ろから声が掛かり、和雄はどきりとした。
「そちら、今人気の機種です」
薄いナイロン地の赤いベストを着て前髪を立ち上げた店員が、和雄に笑顔を向けている。
「カメラ、お探しですか?」
和雄は小さな顔に大きな目を見開いている店員に、抵抗を感じながら言った。
「いや、あの、カメラのこと何も知らなくて・・・」
「そうですか、少しご覧になりました?」
「いや、まだ。本当に何がなんだか分からなくてね」
和雄はそうしか言えない自分のことを、しょうがない客だと思った。
「いえいえ、大丈夫ですよ」
満面の笑顔で優しく言う店員に、自分はしょうがない客だと思われているとも感じた。ただ分からないと言われても、聞かれた店員はどうすればいいというのか。私はカメラのことをまったく知らない初心者だが、何を買ったらいいか教えてくれと言えればいいのだが、それはそれで売る方もアドバイスに困るだろう。カメラとは何か、から講義を始めなければいけなくなる。和雄は自分の仕事の経験からもすぐにそう思えた。
 だが店員は大きな目を思い切り細め、開いていた口を一旦閉じて口角を上げて軽く頷いた。そして店員は手のひらを売り場に向けて言った。
「いかがですか。立ち寄っていただいて、何かお感じになったこととか、ありますか」
それならと、和雄は最初に見た太くて長いレンズのついたキャノンのカメラの方を指差す。
「あの黒くていかついのは・・・」
店員は大きく頷いた。
「あれはプロの方とか、写真マニアの方々も使う機能が搭載されたものです。でも使い方はとても分かりやすくなっています。お客様、一眼レフって聞いたことはありませんか?」
一眼レフは聞いたことがある。しかしそれが何のことかはまるで分からない。一眼というのだから眼、レンズが一つなのか。では二眼というのはあるのか。聞いたことがないが・・・。聞かれたことに何か答えようとする和雄を、店員は辛抱強く待った。和雄の決断は、知ったかぶりはやめよう、いやその知ったかぶりすらできないのだから、ここはただ素直に、正直になることに決めた。
「言葉は聞いたことがあるけど、まったく分からないです」
「そうですか。レンズがですね」
少しだけ頷いた店員が話し出す。和雄が瞬間的に、ああ、長くて難しい講釈は聞きたくないと思うと、店員は近くにあったカメラを手に取って、とても短い説明をした。
「レンズがとらえたものが、カメラの後ろの見るところで、ちゃんと同じに見えるんです」
何をいってるんだ、見たものがそう見えるなんてあたり前じゃないかと和雄は思ったが、店員は、カメラを横に向け、前のレンズと、後ろのファインダーの位置を指さして示した。
「見たものが、同じに見えないと困りますよね、構図とか」
そう言われてみれば、レンズよりファインダーの位置が上にある・・・。眉を寄せた和雄の表情を見て、店員は続けた。
「望遠鏡なら一直線ですけど。でも望遠鏡は、フィルムとかデジタルとか、見えたものを写す面っていうかモノっていうかそれがないですからね。一眼レフはレンズがとらえたものを映す反射鏡、レフというのが入っていて、ファインダーに見せてるんです。で、もう少し言いますと、そのレフが実際写す時にシャッター押すと一瞬跳ね上がってレンズのとらえたものをフィルムやデジタルの面に、モノに写すんですよ」
店員は手にしていたカメラを置き、伏せた手のひらをぱっと上げ、その下に指を通してみせた。そうだったのか。和雄はちょっと感心した。しかしすぐに我に返り、そのメカニズムが自分にどう関係するのかと思った。和雄の顔を読み取ったのか店員がまとめた。
「その機能がとてもすごいんで、こんなごつい感じになるんですね、この機種は」
なるほど、と和雄は納得した。
 店員が次の話に移った。
「失礼ですが、例えば旅行した先の風景とか、日常の、お孫さんの笑顔などのスナップをお撮りになりたいのでしたら・・・」
和雄は、自分の撮りたいものがスナップであることが分かって、自分に納得しながら店員に言った。
「そう、スナップ。スナップだな」
そこで店員が大きく頷いたのを見て、和雄はこの店員が客の口から出た言葉をまず受け止めるという対応をしたことにいい印象を持った。商品知識が十分なこともあり、どうやら信頼しても良さそうだと思った和雄は、この目の大きな若い店員のアドバイスを引き続き聞くことにした。

 日曜日午後三時のスーパーはそう混んでいなかった。夕食を何にするかすでに決めている佐智子に食材を買う迷いはなかった。しかし佐智子は野菜が並んだ棚の前で、何に目を止めるでもなく一、二歩歩いては立ち止まっていた。
 「この治療段階のチェックでは、状態に変化が認められませんでした。誤解のないように言っておきますが、治療はすぐ目に見えて効果があらわれてくるものではありません」 
 佐智子の頭の中では、金曜日に和雄の治療後に担当医の浅尾からあった説明が繰り返し聞こえていた。和雄の前立腺がんの放射線治療を始めて一ヶ月が経つ。それなのに何も状態に変化がないということは、まだ少しも良くなってはいないということだ。これは、これから良くなっていく前段階ということではなくて、通例は多少でも良くなっているはずなのにまだ少しも良くなっていない、ということなのだろうか。
 佐智子はあの若そうな担当医浅尾が最初に診断を下した時の言葉を思い返した。
「だからといって、油断は禁物です。この段階止まりのものなのか、これから悪くなっていくものなのかは、まだ分かりません。一気に悪化して最悪亡くなられる方もいますから」
そんな症例もある、のではなく、和雄のがんはまさにその通りで、症状は良くなっていないどころか少しづつ悪くなっているのではないか。浅尾はそのことを私たちに言わずに、事実を隠しているのではないか・・・。佐智子にあの時と同じ不安が湧いてくる。
 いけない。佐智子は首を左右に振った。そして、ふう、と息を吐き出した佐智子は、前に向かってしっかりと足を踏み出した。今私がすべきことは、少しでも和雄にいいもの、少しでも和雄の体に負担をかけない食事を作ることだ。余計なことなど、考えないで。
 気を取り直した佐智子は野菜棚のキャベツをみて、半分にカットされたものではなく一個のものをいくつも手に取り直し選んだものをカゴに入れた。次にカリフラワーの山から一つを手に取り、見た目と重さを確かめる。そしてじゃがいもが何個か入ったビニール袋を持ち上げてはよく見て選んだ。あとは冷蔵棚の方へ行き、ハンバーグのパックを手に取り賞味期限を確認してカゴに入れる。そのハンバーグは挽き肉ではなく豆腐で作られていた。また佐智子の頭の中に、診断を下した時の担当医の声が聞こえてきた。 
 「原因としてはまず日頃の食事が上げられます。肉類など高脂肪のものをよく食べたり、乳製品を取りすぎたりすることによってなりやすく、六十代、七十代と加齢と共に顕著に・・・」
 和雄は今まで家ですき焼きや生姜焼きなど肉も普通に食べてきたが、それは度を越すような食べ方では決してなかった。和雄ががんになったのは、その普通に食べてきた肉も含め、長年自分が作ってきた食事が、食生活そのものが原因だとは、佐智子にはどうしても思えなかった。高脂肪のものばかりを食べさせてきた訳では断じてない。だから、私のせいでは・・・、と思った瞬間、今度は頭の奥底に追いやっていた思いが首をもたげてあらわれた。外ではどうだったというの・・・。それは和雄の、仕事での飲食だった。和雄が外でどんなものを食べてきたのかは和雄の報告を聞くのみだったが、魚はよく食べていても肉の頻度はさほど多くなかったと思う。酒も仕事の付き合いで飲んでいたことは確かだが、そうすごい量ではないと和雄は言っていた。でもこういった出先のことは正直本当のところは分からない。昭和の時代の後半、高度経済成長の時代にバリバリ働いていた夫にとって付き合い酒は当たり前の常識であり、飲まねばならぬ必須の条件だった。それを健康のことを考えて控えさせるなどということが、妻の私に出来たというのだろうか。あの当時の男たちときたら、それはもう・・・。言葉を続けそうになりながら、佐智子がふと気づく。これも、男とともに昭和の時代を脇目も振らず懸命に生きてきたと自負している女が一様に口にしてしまう言い訳であり、開き直りなのだと。
 また余計なことを、と佐智子は首を振った。とにかく、過去のことは今さらどうにか出来るものではない。今、がんを患ってしまった和雄に必要なのは、放射線治療を続けること。そしてちゃんと節制した生活を送ること。中でも食事は野菜中心のものとして、体を内側から整えること・・・。佐智子は和雄のためにしなければならないことをあらためて自分に言い聞かせた。
 佐智子はいくつもあるレジを見渡し、今レジ台の上にカゴを置いたジャンパー姿の男性の後ろに並んだ。すると後ろかにピンクのダウンベストを着た女性が走り寄って来て、佐智子の前を伺う素振りをみせた。手には酢か何かのビンを一本持っている。急いでいるので先にレジをさせてもらいたいということなのか、何度も顔を前に出すので、佐智子が体を引いて、先に済ませたいのならどうぞ、という目配せをした。その女性は何も言わず、すみませんといった表情すら見せず、レジの店員にそのビンを渡し前の男性のカゴを指差した。ああ、この男女は夫婦で、ビンは買い足しなのかと佐智子は理解した。しかし、何か言ってくれればいいものを、この女性も前の男性も私のことなど無視していることに少し腹が立った。まったく近頃の・・・。と思い始めて、佐智子は小さく首を振った。”近頃の何々”などというのは今に始まったことではなく、いつの時代でもあるものなのだ。他人を構わない、他人が目に入らない、自分さえ良ければいいという心無い行いなどいつだって同じようにあって、人は変わらない。
 佐智子はレジ台に載せた自分のカゴを押した。こんなことでいちいち腹を立てていてもしょうがないのだが、些細なことも見逃さず咎めてしまう自分の性分も変わらないと思った。

 


 佐智子が買い物から帰ってきてキッチンで食材を整理していると、がちゃがちゃと玄関のドアが開く音がした。廊下に顔だけ出した佐智子は、和雄が手提げの黒い紙袋を床に置くのを見た。
「何、それ」
和雄が靴の踵に手を掛けながら言った。
「うん?買ってきた」
「だから何」
何、という質問に答えずに違うことを言う和雄にいつものようにいらつきながら、佐智子があらためて聞くと、和雄がぼそりと答えた。
「カメラ。デジ、カメ」
「デジカメ・・・?」
 リビングのテーブルについた和雄は、ガサゴソと紙袋から黒い箱を手に取り出した。そしてその箱のフタの開け方に苦労しながら、中から黒いカメラを取り出した。和雄は周りが銀色のレンズを自分に向けてカメラを眺める。
「うん、やっぱりこれで良かった」
佐智子は布巾を手にしながらテーブルの前に来て、和雄の手元のカメラに目をやった。
「いきなり、どうしたの」
「ああ、本当に色んなのがあって、最初はまったく見当もつかなかった。キャノンとかニコンの、太くて長いレンズのついた、カメラマンが使ってるの分かるだろ、すごくごつい形のが目立ってたんだけど、店員とちょっと話をしたらおススメがあるっていうんで見てみたら、あ、これだって、ピンと来たんだ。それがパナソニックとかソニーのやつで、最初電気の会社がカメラも作ってるんだと思ったんだけどさ。昔からのカメラの形ってあるだろ。ボディが黒くてレンズが銀で。あとシャッターとかボタンとが上に付いてて、そこも銀のやつ。パナソニックのがまさにそれだったんだよ。同じようなのでソニーのもいいんだけど、全部が黒、真っ黒なんだ」
 和雄がし出したカメラの話は止まらなかったが、佐智子は口を挟まなかった。
「それでパナソニックのがいいって思ったんだけど、値段聞くとこれが高くて・・・、8万から10万くらいするんだ、これが。俺みたいな初めて写真撮る初心者が、それはちょっとな。上手くなったら買おうと思ってさ。それで、これ。カシオの」
和雄の話がやっとひと段落した。佐智子はカメラはまったく分からないが、和雄の〝カシオ〟の一言と、手にしたカメラののロゴが電卓で見たことがあるCASIOだったので、手頃というのがなんとなく分かった。取扱説明書を開く和雄に、佐智子が聞いた。
「いくらなの」
「これ、4万。欲しいやつの半分だ。まあ、他にも安いの色々あったんだけど、レンズが隠れたりしてカードみたいなやつとか、まあ、薄くて軽い、女性がバッグに入れておくようなやつだったりで、俺はこの小さくてもカメラらしいのがいいと思ったから・・・」
和雄が値段の安さを強調した後、言い訳めいた口調で続けた。
「何か、スナップがいいかなと思ってさ。こう、毎日の色々なことに、ちょっと目をとめるっていうのも。でもスマホじゃ、何かこう、うまくできない」
「それなら写せるっていうわけ?」
佐智子がツッコミ気味に聞いた。
「今はもうファインダーっていう覗くところがないんだよ。この後ろのモニターってところに大きく写るんだ。あ、これ、フィルムじゃなくて、デジタルだぞ」
「そんなこと分かってる。カメラは撮るのが簡単でも。あなたに何かものを見て撮るなんていう感性が、あるのかしら」
佐智子のさらなるツッコミにも構わず、和雄はカメラの右上のボタンを押して電源をオンにした。
「ちょっと撮ってやったら、腕を褒められたからな」
「誰に」
「八幡さまで」
和雄は映り出したモニターを見ながら、佐智子にレンズを向けた。
「やめて」
佐智子が目の前を飛ぶハエを払うように素早く手を降ってキッチンに戻る。
 和雄はカメラのレンズを部屋の物に向けた。壁に掛けてある世界遺産のカレンダー。棚においた小さなアナログの置き時計。その横、ガラスフレームに収まっている淡い色の抽象画。その都度モニターの中のマークが動いて、すぐに写したいものにフォーカスを合わせる。
 和雄はキッチンで野菜を洗う佐智子にカメラを向ける。和雄は椅子から立ち上がり、テーブルの横に少し動いて、モニターの中に佐智子の斜め後ろからの姿を入れた。佐智子が出した水が勢いよくシンクを叩く。和雄は野菜を洗い出した佐智子がもうカメラを気にしていないことを確かめ、もう少し横から顔にズームして、シャッターボタンを押した。 

 翌日、結衣が和雄を気にして篠田宅に来た。首に巻いた紫色のマフラーを外しながら結衣が和雄に言った。
「和おじ、具合はどう?」
「もう治ったんじゃないか」
和雄はとぼけた顔で結衣に言った。
「そりゃいいんじゃない。でも早とちりしちゃいけないから、気をつけて」
「古い言葉知ってるのねえ。早とちりなんて、今の人は分からないんじゃない?」
佐智子がキッチンに立ちながら言った。
「そうでもないでしょ」
軽く答える結衣に、和雄が向こうの部屋からデジカメを手にして出て来た。
「ちょっと見てよ」
「おーっ、カメラ!?買ったの?」
「まあな」
和雄はデジカメの電源をONにして、結衣に渡した。結衣は部屋のいろんなところにレンズを向けて、モニターに映る画像を見た。
「ズームはどこ?ああ、ここか。デジカメ、やっぱりいいね。撮りやすいんじゃない?スマホだと、なんか、タッチ操作だからね」
「そう!そうなんだ。指で持って、それで人差し指で真ん中押すなんてうまくできない。その、ズームなんかどうすんだ。で、とにかく、写真撮ってる感じが全然しないしな」
「カシャッって音もフェイク、ウソだしね。いいんじゃない、これ。そうだ、和おじ。このデジカメはいいけど、陶芸は、どうだった?」
結衣の問いかけに答えないまま和雄は結衣からカメラを受け取り、手元で操作を始めた。
「嫌な人がいたんだって」
キッチンでお茶を入れている佐智子が、顔だけ後ろに向けて言った。
「そりゃあ、いるでしょう、色んな人が」
結衣が言うと、佐智子がすぐに返した。
「その色んな人の中の一人が、駄目なんだって」
首を傾げて和雄を見た結衣は、すぐに眉を上げて言った。
「嫌な奴だったんだ。まあ、仕事じゃないんだから我慢する必要もないけどね。写真教室には行くの?」
「冗談じゃない。教室なんてもういいよ。これ、ちょっと見て」
和雄は趣味についての教えを乞う教室など今後一切なしということを示すように、デジカメのモニターを結衣の顔の前に出した。
「ああ、八幡宮ね」
そこには明るい緑の屋根に赤い柱の富岡八幡宮が、正面やや斜め横から写されていた。そこを押すと次の写真に変わるからという和雄の指示に結衣がボタンを押すと、画像は境内の人に変わった。お堂の前で杖を腰に立て掛けて手を合わせる老人。階段を降りる腰の曲がった小さなおばあさんとパーマ頭が大きい横の女性は親子か。小さな兄妹の両脇にお父さんとお母さんの家族連れの後ろ姿・・・。
「ちょっと、撮りに行ってみたんだ」
和雄は結構自慢げに言い、次の画像を結衣に見せた。
「後さ、これ、どう」
そこには境内を歩く黒い猫が小さく写っていた。
「猫だ」
「黒猫が神社にお参りってところかな」
和雄が面白いことを言ったつもりで笑おうとするのを制するように、結衣が言った。
「和おじさ、写真撮り始めたばっかりで言うことじゃないかもしれないんだけど」
「うん?」
「何、撮りたいの?」
「何、撮りたいって・・・、スナップだよ。いろんな、スナップ」
「うん、スナップね。そのスナップもさ、何かの本に書いてあったんだけど、撮ろうと思うものと関わるようになってくると、面白いっていうよ」
「撮るものと、関わる・・・?」
「カメラっていうのは、ただ目で見るんじゃなくって、そのレンズで覗くんだよね。世の中の色んな・・・、色んなものを。そこで、和おじがどんなものにレンズを向けるかっていう、ものの見方っていうものが出てくるわけ」
「ものの、見方・・・?」
「そう、ものの見方。まあ簡単に言うと、感性よ、和おじの、感性。わたしも売れないイラストレーターで、人に感性がないとなんてエラそうなこと言えないけど」
キッチンの佐智子が、くるりと体を二人に向けた。
「結衣ちゃん、この人、感性には自信があるらしいわ。八幡さまの前で人に頼まれて記念写真撮ってあげたら喜ばれたらしいの。ありがとうございますって。でも、それって当たり前よね。向こうは撮ってもらったから、お礼言っただけなのに」
「違うんだよ。よく、撮っていただいて、って言われて・・・」
「よく、ね!そうだったんだあ。和おじ先生に、よく、撮っていただいた、有り難い記念写真なんだ」
結衣の茶化した言葉に和雄がまた言い返そうとした瞬間、佐智子の声が上がった。
「はい食べるわよ、それしまってしまって。結衣、これ置いてくれる」
「はあい」
佐智子が差し出したサラダボウルを結衣が受け取る。テーブルに夕食のおかずが置かれていく間、和雄は一人、デジカメの何枚もない画像を繰り返し見ていた。

 篠田宅を7時半に出た結衣が門仲の駅に向かって裏通りを歩いていると、その先の方に何やら黒いものがいるのを見つけた。店の明かりが照らし出す路上のそれを結衣が目を凝らして見ると、それは腰を落とし前足を揃えた姿勢で佇んでいる黒い猫だった。黒猫は結衣の方を見ていたが、ふと腰を上げゆっくりと歩き出した。そして猫は斜め前の建物の黒いドアの前で止まり、その長い尾をゆっくりと振った。扉が開き、中から髪をオールバックにした白シャツに黒いベストの男が顔を出した。すると猫がするりとドアの中へ入った。男が顔を上げたので、結衣はその男と目が合った。
「ああ、今の、猫ですか。うちの、いやうちに居ついちゃった猫なんです」
今顔が合っただけなのに、いきなり面白いことを言う人だな、と結衣は思った。
「ドアが閉まってても、猫が帰ってきたこと、分かるんですか」
結衣の意表をついた質問に、男は少し笑って首を振った。
「いえいえ、まだそこまでは。今、店を開けるところで・・・、ここ、バーなんです。あ、よければ、どうぞ」
その言葉に、今の黒猫の顔もちゃんと見たいし、と結衣は思った。
「じゃ、ちょっと。おじゃまします」
結衣はバーテンダーが開けているドアの中に入った。

 店内は、壁が黒く、左奥には大きめの黒のテーブルと手前に小さいのが三つ、そして右手に黒いカウンター、というこじんまりした空間だった。結衣は六脚のスツールが並ぶカウンターの一番奥に座った。向かいのひな壇のようになっている黒い棚には、様々な酒のボトルがびっしりと並べられている。結衣は、猫はどこかと店内を見渡してみた。
「この棚の裏で休んでます。一番居心地がいいようです」
「出て、くるんですか?」
「一休みしたら、出てくると思います。何にしますか」
結衣は棚のボトルを見回した。
「うーん、ちょっと甘めの・・・、あ、その赤いのはカンパリですよね。うん、カンパリがいいな。ソーダでお願いします」
「はい」
バーテンダーが棚から赤いカンパリのボトルを手に取りカウンターに置いて、ロンググラスに氷を入れる。そしてキャップを開け真っ赤なカンパリをグラスの底に入れ、そこにソーダを注ぎ入れる。その手際の良さを見ながら結衣が聞いた。
「こちらは、長いんですか?」
バーテンダーはバースプーンで氷を持ち上げステアして、カットレモンを絞って入れ、できたカンパリソーダを結衣の前に差し出す。
「いえ、まだ一年の新参者です。どうぞ」
結衣がグラスを口に運んだ。
「ああ、美味しい!」
結衣は甘苦く弾ける味に満足して頷き、またバーテンダーに聞いた。
「門仲が良くて、こちらで?」
「そうですね。街の雰囲気が。あと、お祭りがいいなと思って」
「八幡様の」
「はい。あの、地元の方ですか?」
「いえ、親戚が、叔父と叔母が住んでいるのでよく来るんです」
「そうですか。じゃ、色々教えてもらわなくちゃ」
「いえいえ、それが何も知らないんです、門仲のこと。ここの通りのお酒飲むお店に入るのも、これが初めてです」
「そうなんですか。それは光栄です」
「従業員に惹かれました」
結衣の意表をついた言葉にバーテンダーが気づき、酒棚の方に顔をちょっと向けて切り返した。
「え?ああ、すみません、勘違いをするところでした。彼女に、ですね」
「彼女なんですか」
「はい、ある日、目が合いました」
「見る目がありましたね」
「どちらにでしょう」
バーテンダーのうまい返しに結衣は笑った。すると酒棚の左の方から黒猫が顔を出した。外の様子を伺う二つの黄色い目は、結衣に向けられた。結衣はこの黒猫は本当に和おじの撮った黒猫なのかもしれないと思い、バーテンダーにその話をした。



      4

 結衣はショーケースの後ろでポテトサラダをはさんだベーグルを白い紙で包み、茶色の手提げ袋に入れて、若い女性客にありがとうございますと言いながら渡した。出て行く女性客と入れ替わり、聡が入ってきた。聡は何も言わず結衣の顔を見る。ああ、柏原さん、こんにちは!と、カウンターの中にいたアルバイトの女の子二人が聡を見て声を上げた。聡は二人にどうもと笑顔を向けて、結衣に目で合図を送った。結衣はレジ横の時計を見て、女の子の一人に店を閉めていいか店長に聞いてきてと言った。女の子は、了解ですと明るい声で答え、カウンターの後ろのドアから奥の部屋へ入っていった。

 結衣と聡は駅近くのパスタ店で食事を取った。
「昼間混んだけど、夕方はそうでもなかった」
そう、といいながら聡はフォークに巻いたペペロンチーノを口に運ぶ。
「そっちは忙しくないの?」
「そうだな、一段落しちゃって、その後がない」
「いつも大忙しの広告会社が、珍しい」
「そういう時があってもいい。たまにはね。営業は青くなってるけど」
「そっかあ。店長も毎日の売り上げで表情が違うよ。別に気にしてないなんて言うんだけど」
「日に何個売っていくらっていう、商いだからね」
「そう、商い。商いって言葉がはまるよね。あと日銭とか、帳簿とか。パン屋も大変、なんて・・・。いやあ、そんなこと言ってちゃいけないんだけど。イラストでやっていきたいのに、パン屋の経営に詳しくなってもなあ」
「いけなくはないよ」
そう言って聡は白ワインのグラスを口に運んだ。
結衣がアラビアータのパスタを巻こうとしたフォークを置いた。
「ちゅうぶらりん」
「そう思うからだよ」
結衣はグラスの炭酸水をごくりと飲んだ。
「何かにつけ、ちゅうぶらりん」
結衣はまたフォークを取りパスタを巻き始めた。
聡は残りわずかだったグラスの白ワインを飲み切って、もう一杯飲むために、すみません、とウェイトレスを呼んだ。

 聡が初めて結衣の前にあらわれたのは、結衣の働くベーグル店「リトルムーン」だった。結衣がショウケースにベーグルを入れていると、入口のドアの向こうに人の姿が見えた。顔を上げると、ドアが開き、聡が入ってきた。聡はウェーブのかかった髪を横分けにしてサイドを刈り上げ太いセルの眼鏡を掛けていて、きれいな青のダッフルコートを着ていた。聡はゆっくりと店の中を見渡した。結衣は、いらっしゃいませ、と普段よりだいぶ小さい声をかけた。聡は、あ、と店員がいることに今気づいた表情で結衣の方を見た。聡は軽く会釈をしながら、初めて寄りました、と低く艶のある声で言った。そうですか、ベーグル専門でやってます、と結衣がショウケースの方を手で指した。聡はケースに近寄って、結衣が今入れたばかりのベーグルたちに目をやった。ライトがあたって眼鏡が白く反射した顔に柔らかい笑みを浮かべた聡は、軽く頷きながら、うん、プレーンをもらおうかな、二つ、いや三つくださいと言った。最初から決めていたのだろうなと結衣は思った。まずは味見が一番肝心。色々買っていってくれるお客様もありがたいけれど、まずは好みの味かどうか、そしてこれから付き合っていけるかどうか、そんな基本を最初にちゃんと吟味してもらう方がいい。そうして認められて、そこから生まれてくる信頼は厚く、店はお客様を裏切ることが出来なくなる。まるでオーナーか店長みたいなことを、と言われるかもしれないが、これは結衣が「リトルムーン」オーナー店長の新井里美に突然手伝いを頼まれた時に、社訓としてしっかり言われたことだ。
 結衣がプレーンを三つ紙袋に入れてる間、聡は店内を見回していた。内装やライティングが気になるらしい。確かに四十年前の当時気にして建てられてこのビルは、古いがいい雰囲気を醸し出しているし、白とグレーで素っ気ない感じの店内は、それが狙いでデザインされた作りになっている。
 いきなり仕事を聞くのも失礼なので、結衣は聡にお近くですか、と聞いてみた。ああ、仕事場はガーデンの方ですが、この辺歩いたことがなかったので来てみたらちょっと気になって惹かれた、というところです、と少し笑みを浮かべながら聡は言った。

 聡がベーグルを買いに何度か店に来るようになり、結衣は軽い会話をかわすようになった。口数少なく柔らかい笑顔を返してくる聡の雰囲気の良さに、結衣は近く開く自分の個展の話をしてみた。個展といっても友人の経営しているアンティークの店の壁面スペースを借りてギャラリーとして行うものだった。
 イラストレーターなんですか。なんちゃってですけど。見てみたいな、どちらで?自由が丘です。
興味がありそうな聡と会話を交わしながら、結衣はベーグルのプレーンを3個入れた茶色の手提げ袋と一緒に、軽く頭を下げながら自作した個展のフライヤーを渡した。
 
 個展当日、聡は初めて店に来た時と同じように、ふらりと店にあらわれた。楽しい絵ですね、いろんな色がスキップしてる。壁に掲げられた作品を眺めながら聡は結衣に言った。
 ありがとうございます。どんな人に褒められても普通に感謝の言葉を返せたのに、聡に言うのに結衣は何故か少し恥ずかしい気持ちになってちょこんと頭を下げた。近くなんですよ。聡は作品と関係のない言葉を口にした。聞くと、聡の自宅は隣の駅、都立大だと言う。結衣は祐天寺に住んでいるので、同じ東横線仲間ですね、という話になった。ご家族と?と聞くと聡はちょっと間を置いて、いえ、今は一人で。と答えた。結衣は、今は、という言葉の意味を思ったが、この場で色々聞いてもと思い返し、自分のことを話した。実家は町田で、両親が住んでいて、そこを出て一人暮らしを始めるには東横線と思い、祐天寺に長いこと住んでいます。そうですか、と聡は頷いて、それ以上聞いてくることはなかった。
 結衣は聡の名刺をもらった。そこで初めて河合聡という名字名前が分かり、会社勤めであることも分かった。会社の電話番号とメールアドレスの下に、携帯の番号もあった。電話していいですか、と結衣が聡を見ると、聡は眉を上げて軽く頷いた。結衣はパンツのポケットからスマホを取り出して聡の名刺を見ながら番号を打ち込み、聡のスマホを鳴らした。それがわたしの番号です、と明るい声で言った。電話していいかというのは後日ではなく今この場でのことと分かって、聡はスマホの結衣の番号を見ながら少し笑って、名前、入れておきます、結衣さんですね、とフライヤーの結衣の名前を指しながら言った。
 
 それから結衣と聡は、お茶を飲んだり食事をしたりするようになり、付き合いが始まった。
聡は広告会社のマーケティング部に勤めていて、商品の開発や販売のための市場の調査、分析などをしていた。聡は結衣に、マーケティングというのはモノが世の中に受け入れられるかどうかということを測る仕事で、はかるという字は、測量の測の他に、図画工作の図、図るという意味合いもあるという分かりやすい説明をした。結衣は自分が何故イラストレーションを描くようになったかを話した。結衣は絵を描くのが得意で、小学校4年くらいまではマンガなどいろんなキャラクターものを本物とまったく同じく描いて自慢げだった。しかしある時、先生にどんなにうまくても、どんなに似ていても、マネはマネで本物じゃない、と言われた言葉にショックを受けて描くことをやめた。高校の学園祭で迷子になった女の子をあやしている時、泣き叫ぶ子にいろんな動物の絵を描いてあげたら泣きやんで、あれ描いてこれ描いてと頼まれたことで、マネではない自分の絵が描けたこと、それが子ども相手でも受け入れられたことに気づき、それが自分の絵を描いていこうと思ったきっかけだった、と話した。受け入れられるところに喜びあり、と聡は言った。自分の仕事もそこにつながらなくてはいけないのだけど、と付け加えた。

 結衣は聡にメールではなく電話をかけて、十五日、この週末土曜日に開かれる門仲の縁日に誘った。縁日も午後、夕方にかけてがいいだろうと思い、お昼過ぎにひと駅先の清澄白河にある清澄庭園に行ってみるのはどうかと聡に聞いた。聡から、もちろん、よろこんで、といういつもメールに書いてくる言葉が、低く艶のある声で返ってきた。
 聡と結衣が大江戸線の清澄白河駅から地上に出ると、乗る前に曇っていた空はすっかり晴れ上がっていて、日差しが顔に柔らかく当たるいい天気になっていた。二人は交差点から一本裏手の道に入って歩くと、程なく清澄庭園の入口に着いた。
 受付で聡が入場料を払い二人は中へ入った。足元の踏み石を渡っていくと視界が大きく開け、広い池、くねる松、池の中に浮かぶ中の島、そこに掛かる橋や時代がかった建物などが一望できた。
「まさに、庭園だね」
「そうだね」
聡の最初の感想に結衣は同感して頷いた。その景観はとても整って落ち着いている。ただ、何か特別な驚きや感動をもたらすものではなかった。
 二人は池の端に連ねて置かれた大きな石の上を歩き出した。石の上は真っ平らではなく一つ一つに微妙なでこぼこがあった。池には鯉が泳いでいる。そして亀もまたこの池を住処としているようで、目に付く数が多い。石を踏み外さないように足元を気にしながら歩く聡が、すぐ後ろをついて来る結衣に言った。
「お殿様が後ろ手に扇子をぽんぽんとやりながら、踏み石を歩いていくんだ」
結衣は聡の言いたいことがすぐに分かって返した。
「その時、鯉がばしゃっと跳ねて」
「うむ」
聡が殿になりきった声で言った。
「そんな風に何か大事なことを決断するって感じね。時代劇のワンシーンでしょ、分かる分かる。でも情報によると、この庭園は江戸時代に出来たものを、後で岩崎弥太郎って人が手入れしたんだって」
「勉強家だな」
「別に。まさか今日が休館日じゃないよなって、と思って昨日ホー
ムページ見ただけ」
「それも、えらい。確認を怠ると門の前で立ち尽くすこともある」
「そういう経験、あるんだ」
「あるさ、それくらいのことは各種取り揃えて。で、岩崎弥太郎っていうと明治時代か。お殿様じゃなくって、鹿鳴館的コスチュームで、イメージし直しか」
結衣は立ち止まり、聡の言葉にふと頭が巡ったことを口にした。
「ここで、どんな話してたんだろうね・・・。でもさ、江戸時代の着物からいきなり明治時代の洋服になって、その後大正でしょ。それから昭和、そして平成って。時代って、つながってるんだよね。当たり前だけど」
人の気配というよりも餌の予感がしたのか、池の中の鈍い金色をした大きな鯉が寄って来た。聡は口をぱくぱくさせる鯉を見ながら言った。
「一日、一日。途切れることなく、今日までね」
結衣がしゃがんですぐ側に迫った大きな鯉の上に手を伸ばすと、他の鯉も一斉に寄って来た。
「人も、だよ。一人、一人、生まれて、生きて、死んで。また生まれて、生きて・・・。私のお父さん、お母さん。おじいさん、おばあさん。ひいおじいさん、ひいおばあさんで明治くらいか。そのひいひいじいさんばあさんで、江戸になる?」
結衣が大きな鯉に向かって手を振ると、鯉はみなばしゃばしゃと水を跳ね上げ大きく口を開けた。みんな、口の中のその奥の奥までが全部見えるくらいに。結衣が手を引っ込めて立ち上がった。
「血がつながってるってすごいよね。私は前に生きた人達からいろんなものを受け継いで、この私になってるわけだ。けど、どうせならもっと絵のうまいDNAが欲しかったな」
餌にありつけなかった大きな鯉とその仲間達は、結衣の前からゆっくりと離れていった。
「これから自力でうまくなればいい」
聡が池へ戻る鯉を見ながら言った。
「あれ、その指摘は、私の絵がへただってことを言ってるの?」
「そうは言ってない」
「言ってる」
「言ってないよ」
聡が飛び飛びに連なる石の上を歩き出す。結衣も足元に気をつけながらその後についていく。

 二人は広い池の一番奥に建つあずまやで座って休んだ。池の中程に浮かぶ小さな島に、灰色のアオサギが羽根を畳み、細く長い足でじっと立っているのが見えた。
「私の父とは母ね、すごく仲がいいの。夫婦なら当たり前かもしれないけど。でも二人とも、ほんとに真面目で面白みがない。私はそんな二人とあまり反りが合わない。私の性格が生まれつき、もとから変なのか、ただ真面目な両親の真面目な育てられ方の反動でそうなったのか、分からないけどね」
「そう」
「母に姉がいてね。私の叔母さん。夫の叔父さんがいて、私は小さい頃からその姉夫婦の方が好きなの。何か合うんだ、叔母さんと叔父さんの方が。二人は今門仲に住んでて、だから私はよく門仲に来るようになった」
「そうなんだ」
「今度紹介するね。叔母さんと叔父さん」
「ああ」
「聡はどうなの?」
「うん?」
「ご両親」
「ああ。母親は構わないでいてくれるけどね」
「そう。いいお母さんじゃない。お父さんは?」
「お父さん・・・。父親は、いないんだ」
「え」
聡の意外な返答に、結衣は驚いた。
「物心ついた時には父はいなかった。最初から母子家庭さ」
「ごめんなさい」
結衣は何も気にせず聞いてしまった失礼を聡に謝った。
「いいよ。父親がいない子どもくらいどこにでもいる。何も特別なことじゃない」
聡はそれ以上家族のことを話さなかった。結衣も聞かなかった。
 二人は,池の島のアオサギに目をやった。アオサギはさっきから不動の姿勢で沈黙を守り続けていた。


      5

 和雄は大横川の橋の上で立ち止まり、両岸の木々を眺めた。この木々は桜で、春になればまた一斉に花が咲く。そう思った和雄の目に、桜の光景が映り出した。
 流れる川のずうっと向こうの方まで咲き誇る桜、桜、桜。辺りはすべて満開の桜一色になった。すると桜は大きな風にそよぎ、花びらがはらはらと散り始めた。満開の短いひとときを終えた花びらは一斉に散り出して風に舞い、すぐにものすごい桜吹雪となった。そして川面は舞い落ちる花びらであっという間に埋め尽くされていった・・・。和雄が瞬きをすると、目の前の桜はすべて綺麗さっぱりとなくなって、冬の陽の光を受けた静かな大横川が戻った。
 今、目に映った光景は、来年の春、いつものようにまたここで本物が見られるんだな、と和雄は思った。そして和雄は、自然は毎年毎年当たり前のように繰り返されているが、それを見たり感じたりできるのは、自分がこの世にあって、生きているからこそなのだと、あらためて思った。
 和雄は川面の揺らぎに目をやった。自分はこの深川門仲で生を受けて育ち、大した病気にもならず、いたって健康な体で生きてきた。そして干支を五回重ね還暦も過ぎても相変わらず元気だと思っていたが、ここに来て全く予期せぬところで前立腺がんを患ってしまった。内心少々慌てたが、このがんも初期の軽いもので、放射線治療で程なく治るという。人の生には必ず終わりが来る。だが、その終わりがいつ来るかは分からない。ただ、このがんが治ることで自分の終わりはもう少し先ということになった。それまで佐智子と二人で日々を暮らしていけるのは、心底有難いことだ、と和雄は思った。
 和雄は大横川の川面から顔を上げ、ふうと息を吐いた。そしていつもの行事が出ている駅の方に向かって歩き出した。

 永代通り沿いの向こうのアーケードに露店がずらりと並んで出ているのを眺めていた和雄は、信号が変わったことに遅れて気づき、交差点の横断歩道を少し早足で渡った。
 毎月一日、十五日、二十八日は門前仲町の縁日で、今日十五日も大江戸線門前仲町駅出口のある交差点から富岡八幡宮に至るアーケード下には露店が連なり、多くの人出で賑わう。和雄はいつもこの縁日を見て歩くのだが、その歩き方には自分なりの取り決めがあった。それは見て行く向きが必ず交差点側からスタートするということだった。そうしなければいけないことなど別にないのだが、反対の八幡宮側からだと、どうもしっくりこないというのが理由と言えば理由だった。和雄は今日もいつものように交差点側から行き交う人の流れの中に入って歩き始めた。
 まず最初は、辺りに甘いクリームの匂いが漂っているベビーカステラの店だ。幌の中ではこうこうと光るスポットライトに照らされて、ぽっちゃりした女性三人組が明るい笑顔で、ネタ作り、鉄板担当、詰め合わせとそれぞれ役割分担をして働いている。その隣の店は、白髪を撫で付けた初老の男性と長い茶髪を巻いてまとめた女性が鞄や財布の革製品を台に広げて売っている。次の店は太鼓腹の親父が茶碗や箸などをごちゃごちゃに並べて売っていて、その次はカラフルなトッピングがまぶされたチョコバナナが何十本も立ててある店で、店番の金髪にスタジャンを着た若い女性は手元のスマホをじっと見ている。その次は、ジャンパーを脱いでポロシャツ一枚になった若いお兄さんが、店前に乾燥昆布や海産物の袋をたくさん積み上げながら威勢のいい声を張り上げている。
 露店はずっと先まで続いている。今川焼、たこ焼きの店、チヂミ、キムチチャプチャミといった韓国の食べ物の店、ドライフルーツ、落花生、それに果物の店。花や盆栽の店。帽子、腕輪などの服飾品の店・・・。どれもいつも縁日に出る見慣れた店だが、今日は和雄の意識がちょっと違っていた。それはジャンパーのポケットに入れたデジカメのせいで、何かあれば写したいと思う気持ちが、よく目配りをさせていた。
 露店もそろそろ途切れる辺りで、白い手拭いをかぶった女性が一人で椅子に座っているのが和雄の目に止まった。女性の前と周りには、段ボールや発泡スチロールに入った野菜が置かれている。大根、ニンジン、キャベツ、ネギ、キュウリ、ほうれん草、ヤマトイモ・・・。それぞれに差してあるカードには、値段の下に千葉と書かれているものがほとんどだった。和雄は野菜を見るように屈んで、手拭いの下の顔をのぞきながら聞いてみた。
「どうも」
声と視線に気づいて和雄に向けられた目は、黒目がちで小さくてその目尻としっかり閉じた口元に深いシワがあった。肌は浅黒く張りがあるが、歳は結構取っているようで、すぐにおばあちゃんと呼んでいいだろうと思った。和雄を見た目はすぐに伏せられ、手にしているメモ帳に落とされた。和雄が野菜の値札に書かれた産地を見て聞いた。
「千葉の方から?」
「ああ、館山」
顔を上げないままの彼女から、予想外の甲高い声が返ってきた。
「そうか、館山かあ。よく行きましたよ、ゴルフで。勤め先が千葉だったから」
話の糸口がすぐに見つかって和雄が話し出そうとすると、彼女が顔を上げ、甲高い声ではっきりと言った。
「ろくでもないね」
「え?」
「山も畑も買い漁って、だだっ広い原っぱこさえちゃって。それでいてやることはいい大人が棒振って、ちいちゃい玉ころがして」
いきなり顔に似合わぬきつい言葉が返ってきて、和雄は面食らった。
「そう言われりゃあ・・・、そうだねえ」
 ゴルフ三昧だったあの頃を思い返せば、エコロジーな精神から一番遠いところにいた人間だったことは紛れもない事実だった。和雄はゴルフのネタを即刻取り下げ、話を切り替えた。
「縁日には、店、いつも出してるの?」
「もう七年になるよ。あの大震災からだから」
「そう、震災の年。大変な年だったよね」
「旦那は亡くなるわ、自分は体悪くするわでね」
「そうだったの。で、今は・・・」
「カラ元気でいっぱいさ!」
彼女の小さな目がただのシワのようになり、口元から並びのいい歯がこぼれた。いい笑顔だ、と和雄は思った。
「大事にしてよ!でも、そういう俺も、実は今体の調子がちょっとね」
「長年の働き過ぎ、不摂生だろ」
「いやあ、よく分かんない。何か悪いことしたつもりもないんだけどさ。ね、ちょっとこっち向いてもらっていい?」
和雄は話しながらデジカメをポケットから出し、電源ボタンを押した。レンズを向けるとモニター画面に、手ぬぐいを被った小さくて浅黒い顔が映った。
「何よ。何かの取材?」
訝る目つきに和雄は慌てて顔を上げた。
「違う違う!俺はこの辺に住んでるただの人だって。こうして会った記念にさ、一枚だけお願いします!」
「やめて、やめてよ。ほんと、恥ずかしい!」
一瞬にして画面は頭に被った手拭いだけになった。
「いいじゃない、ファンみたいなもんさ」
「え、こんなババアに、ファンだって?あはははは!」
小さい顔がこちらを向いて甲高い笑い声を上げた瞬間、和雄はシャッターを押した。

 

 結衣と聡は清澄庭園を出て大江戸線に乗り、次の門前仲町駅に着いた。地上に出て交差点の方を向くと、露店が出ているのが見えた。
ジャンパーとGジャンの二人は、そう寒い日ではないのにダウンやコートで着膨れした人また人がゆっくり動くアーケードの中を、何とか露店に目をやりながら歩いた。
 この門仲の月例の縁日は、お祭りではないから射的屋や金魚掬いが出ているわけではなく、生活まわりの物、食べ物や着物、小物などの店が並んでいる。二人はそれぞれ気になる店前で立ち止まった。ワイシャツにネクタイ姿の男性がすすめるコンパクトで操作が簡単だというミシン。赤いエプロンに頭を丸めた男性が何でもよく切れるよ果物を次々と二つに割って見せている万能包丁。パーマで髪がくるくるのジャンパー姿の女性が売る韓国海産物。二人は、売っている物と売っている人のキャラクターについて、合っているとか意外だとか面白いとか、互いの寸評を言い合いながら歩いた。
 露店の並びもそろそろ終わりが見えてきた時、結衣が先を見て声を上げた。
「あ」
聡が結衣と結衣が見ている先を見た。
「何・・・?」
「うん、ちょっと」
結衣が野菜売りの女性と話をしてる紺のジャンパーの後ろ姿に向かって駆け寄った。
「和おじ!」
結衣の声に、和雄が振り向いた。
「おお、結衣ちゃん!来てたのか」
和雄は結衣の顔を見て声を上げ、ちょっと待ってと頷きすぐに向き直った。
「じゃあ、おばちゃん、どうもね」
「もう、ババアでいいよ!」
「いやいや、そんな呼び方ないでしょう、おばちゃん!」
「本人がババアでいいって言ってんの!」
和雄は呼び方の応酬をしながら立ち上がり、横の結衣に言った。
「どこからどうどう見たって、ババアじゃないよな」
突然の振りを受けた結衣は、すぐに笑顔で言った。
「うちのじいやが、お世話さまです!」
「じいやか!こりゃいいや!あはは!」
和雄のおばちゃんがまた甲高い声で笑った。
「またね、ありがとう!写真出来たら持ってくるよ!」
和雄がデジカメを少し上げて見せると、おばちゃんは写真なんていらないよという感じで手を横に振りながら笑った。
 
 歩き出そうとした和雄に、結衣が、ねえと促した。和雄は結衣の後ろに立っている聡に気づき顔を向けた。
「和おじ。こちら、聡くん」
結衣が聡の横に立ち、聡を紹介した。聡は姿勢を正し頭を下げた。
「初めまして。河合です」
「あ、どうも。篠田です。結衣が、お世話になってます」
「いえ、こちらこそ」
聡の言葉が終わってすぐに、結衣が和雄が手にしているデジカメを指差して言った。
「やってますねえ!」
「うん?ああ、まあな」
「今ね、私たち清澄庭園を見て来たの」
「おお、そうか。えーっと、よかったら、甘いものでもどうかな。そっちにうまい甘味屋がある」
和雄がアーケードの中の方を指差し結衣に言うと、結衣は笑顔を聡に向けた。
「いいね。甘味屋!ちょっと歩き回ったところで。ね!」
「いいですね」
聡が頷いたのを見て、和雄は二人を促し、連なる露店の前を動く人混みの中へと歩き出した。

 富岡八幡宮のすぐ隣に、成田山新勝寺の別院、深川不動堂がある。こちらもまた八幡様と同じように多くの人々がやって来るのだが、和雄はその不動堂境内前の道沿いにある甘味屋に、結衣と聡を連れていった。
 外と同じく店もやはり混んでいて、席案内をしている若い女子店員が和雄たち三人を見るなり、只今満席ですと業務連絡のように言ったが、運のいいことに奥にいた年配女性四人連れが席を立った。
 席に着いた和雄は店員が来るとすぐにぜんざいを頼んだが、結衣はメニューを見てから決めますと店員に言った。検討の末結衣はあんみつに、聡もそうすることにした。
 「店も一通り見たから帰ろうかって言ってたところだったの」
結衣がメニューを置いて和雄に言った。和雄が組んでいた腕を下ろした。
「そうか、じゃ誘って悪かったかな」
「ううん、清澄庭園で結構歩いたし、ひと息つきたかったから。ね」
結衣が聡の顔をのぞくと、聡はこくりと頷いた。
「で、どうでした、庭園は」
和雄が聡に聞くと、結衣が答えた。
「江戸のお殿様あらため、明治鹿鳴館の伯爵っていうところね」
聡が少し笑顔で後を続けた。
「整っていますよね、とても」
和雄は頷きながら聡に聞く。
「そうですね。それで、写真に撮ろうと思ってるんですが」
間髪入れず結衣が言った。
「和おじ、面白くないよ。別に庭園が駄目だって訳じゃないけど、池とか松とかって風景をただきれいに撮ってもさ」
「そうか・・・。でも、何を撮ろうかな、と思ってさ」
和雄はジャンパーのポケットからデジカメを取り出して、聡に見せた。結衣が和雄に向けて手を振って言う。
「いいんだけど、庭園じゃなくてもいいんじゃないってこと」
 お待たせしました、といいながら来た女子店員に、和雄が手を上げて、ぜんざいこっち、と言い、二人にあんみつをと指図した。
 結衣が早速あんみつを口に入れ声を上げた。
「あんみつ、うまーっ!たまに食べるといいね!」
和雄はぜんざいの白玉を頬張りながら言った。
「さっき、露店のおばちゃんを撮った」
「うん、そういうのがいいよ、和おじ。人のスナップ!ね、いいよね」
結衣があんみつをどんどん口に運びながら聡に言った。あんみつを掬おうとした聡は、スプーンを止めて言った。
「そうですね」
「何よ、それだけ?ちゃんと言ってよ」
結衣が聡を促すと、聡はスプーンを置いて顔を上げて言った。
「うまい写真とか、きれい写真はプロが撮ればいいですから。計算のない、出会いの瞬間を撮るスナップ・ショットがいいんじゃないかと思います。あの、生意気言ってすみません」
結衣がさらに加えて言った。
「だからさ、何が起きるわけでもない、ほんとに何でもないような平凡な毎日にこそ、きらりと光る大切なものがあるの。それが写ってるのが、いいスナップってこと」
「きらりと、光る・・・」
「あ、和おじ、聡は広告会社勤務だから」
「ああ、そうなんですか。じゃあ、これからもご指南いただかないとな」
和雄がちょっと背筋を伸ばして言うと、聡が首を振った。
「あ、いえ、あの・・・、ぼくはクリエイティブじゃないので」
「いいの、部署はどこでも。聡はものを見る目があるんだから。和おじに色々アドバイスしてあげて。和おじ、この後、二人で八幡さまに行って来るから。私はそれから家に寄るね」
「あれ、聡さんは?」
和雄が結衣と和雄の顔を交互に見る。
「いえ、ぼくは帰らないと・・・」
「和おじ、また今度ね」
「そう。じゃあまた門仲に来たら、一杯やりましょう」
結衣が笑顔の和雄を諌める。
「何言ってるの、和おじ!飲めるわけないじゃない!聡、和おじは体の状態がよろしくないんじゃないかって、こないだ診断を受けてね」
「え?」
「いや、だから、俺が酒を飲むとは言ってないだろ。ウーロン茶でお付き合いしますってことだ」
「ちゃんと治してよ。さっちゃん、大変だよ」
「はいはい、分かってます。
和雄が声を少し小さくして聡に聞いた。
「まったく結衣は厳しいんです。本当の娘以上ですよ。聡さん、大変じゃないですか?」
「和おじ!」
結衣が眉間にしわを寄せて和雄にきつく言った。和雄は両手を膝の上に置き、背筋を伸ばして答える。
「はいはい、すんません!」
聡は親子のような二人のやりとりを、ただ見ているしかなかった。
 


 「いい人そうじゃないか」
和雄はテーブルの上に夕刊を広げながら、キッチンで佐智子の手伝いをしている結衣に言った。
「え、そう」
結衣はブロッコリーの盛りつけを終えたところで、気のない返事をした。
「結婚するのか」
いきなり一足飛びに聞いてくる和雄に、結衣はすこし笑いながら言った。
「そんなこと、考えてない」
「何か、二人、いい感じだけどな。いやほんと。俺には分かる」
「まだ全然分かんないって。ね、これ分けないでいい?」
和雄の話を終わらせようと、結衣はかぼちゃを入れたボウルを持って、盛りつけ方を佐智子に聞いた。
「うん、みんなで取ればいいから、そのまま出して。ねえ、あなた、あんまり変な口出ししないでよ。結衣ちゃんが自分で決めることなんだから」
結衣に頷いた佐智子が、キッチンから和雄に顔を向けて強い口調で言った。和雄はページの少ない夕刊をバサバサとめくり、すぐに畳んだ。
「分かってるよ。俺の勘と言うか、そう、主観を、述べたまでだ」
和雄は、主観を、というところをわざと強調して言うと、湯呑みの
熱いお茶を音を立てて啜った。


      6 

 「川路」のカウンターで、永島が焼酎の水割りをごくりと飲んで言った。
「篠田と電話で話したよ。通院治療でもうほとんど良くなってるんじゃないかって言ってた」
薄い桜色の着物に白い割烹着を着た女将がカウンターの中で振り返り、高く澄んだ声を店に響かせた。
「自分で言ってるだけ?まあでも本当にそう思えるくらいなら、きっといいのね!」
「それで、デジカメを買ったんだってさ」
「デジカメ?」
「写真撮るデジカメだよ。デジタル、カメラ。何でまたって聞いてら、あいつ言わなかったけど」
「いいじゃない、理由はなんでも。新しいこと何か始めるって!」
女将が手元で小皿に和え物を盛りながら言った。
「そうですよ。新しいこと始めると、とにかく夢中になりますからね!まずカメラの操作を覚えて、それから何撮ろうかってレンズ向けて・・・。そうだ、カメラっていえば、だいぶ前に、写真週刊誌ってはやりましたよね」
来たばかりで長島の横に座った鎌田が、おしぼりで手を拭きながら言った。
「ああ、その写真を撮るのを海の向こうじゃパパラッチっていうんだ。特ダネを追ってどこまでもってやつだな。全く、ロクなもんじゃない」
永島が腕組みをして首を振っている間に、蒲田が中ジョッキの生ビールをあっという間に飲み干した。
「ぷはーっ、ふう。それ、芸能人、有名人の不倫とかですね」
「あと事故の現場とかだ。ダイアナ妃もパパラッチに追っかけられた末に、あんなことになったんだ」
「ああ、ダイアナ妃、そうだったわね」
思い出した女将が深く頷いた。カウンターの端で徳利を手にした林先生が続けた。
「写真を撮られるどころか、結局命取りにまでなってしまいましたね。まるで映画のような事故でした」
「ほんと!彼女の人生がそんな風に終わるなんて、誰も思わなかった」
きれいなカーブを描いた眉をしかめて女将が首を振った。
「パパラッチもそこまで行くと、犯罪だよな。業務上過失致死だ」
永島の一言に林先生がまとめた。
「殺してはいませんが。まあ過ぎたるは、及ばざるが如しです」
永島がごくりと焼酎の水割りを飲んで言った。
「そうそう、ま、パパラッチみたいに特ダネの追っかけを仕事にするなんて気力も体力もないですけどね。この歳になって最近じゃあ、孫だって追っかけられない」
「そうですか。いくつでしたっけ」
蒲田の問いに、永島のため息が出る。
「もう、5歳だ。もうそこらじゅう走り回って・・・、ものすごい運動量だぞ。面倒みててって言われたってな」
「可愛い孫でしょ、嬉しいことじゃないですか」
「何いってんだ。一度やってみろって。あ、そうか、篠田に言ってやろう。公園で孫を遊ばせるから、写真撮ってよって!昔いましたよね、先生、土門拳でしたっけ。子どもの写真でいいやつ撮ってるのは」
「ええ、モノクロでね、まさに戦後の昭和そのものです」
「俺たちもあの時代に生きてたガキだ。ほんと俺たちはめちゃくちゃ元気だったな。篠田にもあのときの元気を出してもらって、治ってもらわないとな」
「そうですね、戦後の昭和のパワーを!」
「みんながこれだけ思ってるんだから、和雄さんもすぐに良くなると思うわ」
「そうだよ、女将。和雄さんには初期のがんなんて早く治してもらって、早くみんなと酒飲めるようになってもらわらないと!」
「なんだやっぱり酒か」
永島のつっこみで笑いが起きたところで、林先生が静かに言った。
「永島さんのお孫さんならいいけれど、子ども撮るのも注意しないといけませんね」
「え?」
「公園なんかだと、親がうるさいですから、個人情報。それに肖像権。うちの子を勝手に撮って何よ!と言われます。それで警察に通報されるんです」
「ああ、そうですよね、林先生。まあ撮る方にも、相当変な趣味の奴いますからね。それでネットに流出ってケース」
鎌田が大きく頷きながら言った。
「詳しいの?」
「詳しいっていうか。ネットはもう、誹謗中傷、ヘイトスピーチから、エログロ、児童ポルノまでなんでもあり」
鎌田の言葉に永島が腕を組んで体を後ろに反らせた。
「インターネット。酷い世の中になったもんだ。しょうがない奴の戯言とか妄想も、みんなお披露目されるんだから」
「いやね、まったく。で、和さん、何を撮るのかしらね」
女将が話を和雄のことに戻した。永島はカウンターに両肘をついて、和雄が何を撮るかを自分のことのように考え始め、首を傾げた。
「うーん、何だろうな。あいつ、何か趣味あったかな」
永島の答えを待っていた鎌田が言った。
「そんな、趣味なんかなかったから、カメラ始めたんじゃないですか?」
女将があごに手をやり、少し上を向いて言った。
「なんか、顔が、いいわ」
みんなが女将の顔を見て一瞬出来た間に、女将が頷いて続けた。
「うん、人の顔がいいわ。みんなが飲んで楽しい話しているときのいい顔とか撮りたいって、わたしだったら思うな」
女将の言葉に林先生が納得の表情で言った。
「友人とか、家族とか、さりげない日常の中に、身近な人が輝いている、といったところですか」
「さすが、先生!うまいこと言いいますね。女将、いいじゃない!じゃ、和雄さんに言って、俺たちを撮ってもらうってことで」
「俺たちじゃだめだ。輝いてない」
間髪入れずの永島の言葉に、みんなの笑いが起きた。
「じゃわたしはこの辺で」
林先生が、お勘定をと女将に言った。
「あら先生、もうお帰り?」
林は財布から札を出して席を立った。伝票を手に取り急いで会計をしたおかみが、ありがとうございました、とお釣りを渡す。受け取った林は誰にということなくちょっと手を上げ店を出ていった。
 おかみが林の席の徳利や皿を片付けながら言った。
「思い出しちゃったんじゃないかな」
「え、何を?」
鎌田が顔を上げた。
「奥さんのこと」
「どういう、こと・・・?」
永島が聞いた。
「先生が店に来てくれるようになったのが三年前だけど、その頃、先生、奥さんを亡くしちゃったの。先生、そのことみんなに言わないから、わたしが言っちゃいけないなって思って、黙ってた・・・。こないだ三回忌終えたんだけど、先生、いまだに何も手に着かない感じですって言ってた。今、奥さんの顔、浮かんじゃったかな」
「知らなかった。学校の先生の悠々自適、定年老後ライフかと思ってた」
ふう、と息をついて鎌田が言うと、永島がグラスを置いて聞いた。
「何で亡くなったの」
「がんだって。その頃奥さん、六十歳よ」
「早いよね」
「ごめんなさい。ちょっと話せないじゃない、お客様の・・・」
一瞬、女将が口をつぐんだところで、永島が言った。
「謝ることはない。個人情報なんだから」
永島が言うと、気を取り直すように女将が明るい声を店に響かせた。
「まあ、人生いつどうなるか分からないっていうのはほんとうね。わたしだって、明日ここで死んでるかも」
「それはないでしょ。まず女将は死なないよ」
「死なないって、何よ。わたしは化け物か」
鎌田が笑いを止め、あらたまって永島に言った。
「永島さん、和雄さんに言っておいてくださいよ」
「何だよ」
「俺を撮りたいなら相談に乗りますって。実は俺、モデルとしてのギャラは高いんですけど」
「鎌田さん、モデルだったの!」
「早く言ってよ!」
女将と永島が吹き出して笑った。

 和雄は棚の下の方にあったキッチンラップを手に取った。これでなくちゃだめだという佐智子指定のもので、巻きが長くて貼りつき具合が他のものと違うという。よく分からないが、とにかくものを間違えてはいけないと、和雄はラップの箱の表示を何度も確認した。
 ちょっと外へ出てくるといったら、佐智子に呼び止められ言いつけられた買い物だった。普段からよくちょっとした買い物を頼まれるが、ちゃんと買えないことがよくある。色が違う、サイズが違う、メーカーが違うというのはよくあることで、買うこと自体を忘れることもあった。どういう頭をしているんだかとか、ちゃんとしたことがなぜできないとか、まるで幼稚園児並みだと言われるが、できないものはしょうがない。自分でも驚くぐらい駄目なところがあって、それは年を取ったせいではなく、もともと言われたことを確かにこなすことが出来ない人間なのだと、和雄は思っていた。それを佐智子に言うと、ただ気がないだけよ、といつも一蹴されているのだが。
 ふと辺りに顔を向けると、一人の後ろ姿に目が留まった。長身で白髪の、グリーンのフード付きのコートを着たその人が、総菜の陳列棚に向けていた体をこちらに向けた。林先生だった。和雄は先生に近づき声を掛けた。
「こんにちは、先生!」
振り向いた林先生は、白い眉をちょっと上げ、落ち着いた口調で言った。
「ああ、篠田さん、どうも。お体、とても良くなられていると伺いました」
「そうなんです。通院治療で、あとは普通に出歩いています。これは、頼まれたお使いです」
和雄は手にしていたキッチンラップを上げてみせた。
 
 スーパーで淹れた先生おススメのコーヒーを持って、二人はすぐ裏にある小さな公園に行った。冬の午後の柔からな日差しの中、二人はベンチに座った。
 林先生は自分のレジ袋の中身を整えながら、和雄のデジカメについて話し出した。
「伺いましたよ。カメラのこと」
蓋の小さな穴からコーヒーを一口啜った和雄は、熱さですぐに口を外してあわてて答えた。
「あ、もうですか?早いな・・・」
永島だなと思いながら、和雄はダウンのポケットからデジカメを出してみせた。
「これなんですけど、いや、これが、なかなか」
林からすぐ質問が出た。
「技術が、難しいですか?」
「いえ、デジタルなんでお任せオートにしておけば難しいことはないんです。それよりも、写そうかなって思っていろんなものにカメラを向けてみるんですけど、それでこのモニター画面に出るんですが、これがどうも、大したもんに見えなくて」
「見た目と、写ったものが、違う、ということですか」
「何か、違うんですねえ」
「人は、写しますか」
「あ、そうなんです。人が、一番写したいです。でも、いきなりその人に近づいていって、カメラを向けて撮るわけにいかないですから。それで、すみません、撮らせてくださいって、言わなきゃいけないんですけど、これが言えないんです。この間、家の近くなんですが、朝子どもたちが学校に行く途中の横断歩道に黄色い旗持って立ってるおばさんがいたんです」
「みどりのおばさん、ですね」
「そうです、みどりのおばさん。いや、もう、ちょっとおばあさんかな。でもこのおばあさんが、いい笑顔してるんですね。子ども一人一人に、いってらっしゃい、いってらっしゃいって。ちょっと見てたんですけど、ああ、子どもが好きなんだなあ、義務でやってるんじゃないんだなって分かるんですよ。でも、撮れませんでした。カメラ向けて、何ですかって言われたら、趣味なんですけどなんて、言えないですから」
「そうですか」
「それでうちのにカメラ向けたりして練習してるんです。それも気がつかれないように。撮ってることが分かると思いっ切り言われちゃいますから。やめて!って」
「そういえば、私のところは大丈夫だったなあ」
林先生がちょっと顔を上げて言った。
「人といっしょに写ることが前提でしたけどね」
和雄は、失礼を承知で林先生に聞いた。
「それは、奥さん、ですか」
「はい、ひとりで写るのがいやだったみたいです」
「先生となら」
「いえ、私とだけじゃないですから。友だちと一緒が多かったです。それで葬式の写真も一人のがなくて。結局私と写ったものを切り離して加工してもらいました」
和雄は言葉を失った。葬式・・・?
 林先生はカップの蓋を外して脇に置き、ゆっくりとコーヒーを啜った。和雄は林に体を向けた。
「あの、奥さんは・・・」
和雄が言いかけると、林先生はカップを両手で持って頷いた。
「がんでした。腸の方でしたが・・・。あ、すいません、気を悪くしないでください」
「とんでもない」
林先生の細やかな気遣いに、和雄は首を横に振った。
「三回忌というのは、実のところ二年なんですね。こないだ済ませました」
「そうでしたか」
「急なことだったんで、何か、まだ生きていて、一緒にいるような気がするんですよ。ふと、部屋で振り向いちゃったりするんです」
林はコーヒーを一口飲んで、ふうと息をついた。
「長くて辛い闘病生活を送るよりは、良かったと思ってます。それに・・・」
そう言った後、林はカップの中に目を落として言った。
「これが逆だと、悲しくて辛い思いを、させちゃいますからね」
和雄は何と言っていいのか言葉が浮かばず、ただあいまいに頷くしかなかった。すると林先生が和雄の方に体を向け、しっかりと張った声で言った。
「でも良かったですねえ、お体の方!」
先生は奥さんの話をしたかっただけじゃなかったと和雄は気づいた。
「ありがとうございます」
「早く治して、あまり奥さんに心配かけないようにしてくださいね」
先生はそう言って公園の木々に目をやった。
 奥さんに、心配をかけないように——。実際に辛い経験をされた先生の言葉には重みがあった。夫が定年退職で仕事をやめて、家で家事をする妻と面と向かう時間が多くなると、お互いのストレスが一気に増加するという夫婦の話を聞くが、病気は、そのストレスのレベルを越えた最も重い問題だ。どんな病気でも患った方が大変なのは当然なのだが、その一番側で面倒を見なければいけない方の心身両面の疲れは、見せられない、表に出せないものだ。佐智子もがんになったこの自分にほとんど何も言わずにいるが、心の内ではいろんな思いがあるはずだ。今まで体のことなど顧みずやってきた夫の仕事人生について、文句がないはずがない。それに、夫をがんにしてしまったという、少なからずの責任も感じているかもしれない。いずれにしても、佐智子は今がんを患っているこの自分に、なんだかんだと言葉や思いをぶつける訳にはいかないとして、日々頑張ってくれていることは確かだ。
 和雄はさらに思った。もし、この病気が、とても重いものだったとしたら・・・。長年連れ添った伴侶ががんになり、先行きがそうないと分かった時、人は何を思い、どうするのだろうか。先生は、まさにその局面に遭ってしまった。そして不運にも先生の最愛の妻は亡くなった。自分だって、一つ違っていれば、佐智子にそんな辛い体験をさせてしまうところだった・・・。
 幸いがんはまだ初期のもので大事には至らなかった。本当に、良かった。まだ運がある、という言葉が思わず口をついて出そうになったが、これは本音だと、和雄は思った。
 「相手と話したいときは、目線の高さを合わせるといい」
「え?」
先生が言われたことが何についてのことか、和雄には分からなかった。
「相手としっかり話がしたい、意志を伝えたいという時は、一対一で対面して目線の高さを同じにして、相手の目を見て話す。そうして初めて相手は自分に対して何かを伝えたいのだと確かに感じて話を聞く気になると、教員時代の現場の教えにありました。生意気な生徒を前にすると、なかなかちゃんとは出来ませんでしたが」
先生はコーヒーをごくりと飲んだ。和雄はこれは先生のアドバイスだと分かった。
「写真も一緒じゃないかと思うんです。何も知らない、何も訳の分かっていないところでいきなりレンズが自分に向けられるのは、何なんだ、人は怪訝になるし不快にもなると思います。だからまず名を名乗り、撮らせてほしいと正面から、相手の目線と同じになって、きちんと伝えるといいと思うのですが。そこから先は、どうしてもという、撮りたい側の本気の熱意が伝わるかどうか、ですね」
「本気の、熱意・・・。そうですね」
〝本気〟という言葉を久しぶりに聞いたと和雄は思った。和雄は先生に頭を下げた。
「ありがとうございます。ほんとうに、そうだと思います」
「カメラのことなど何も知らない者が、失礼を承知で」
少し微笑んだ先生はコーヒーを飲みきって立ち上がり、レジ袋を持ち上げた。
「撮れたもの、楽しみにしてます。「川路」で、見せてください」
「これはプレッシャーですね」
「もちろん、体が良くなってからで結構ですよ」
「はい、頑張ります!」
先生のエールに、和雄は手で膝を押して相撲の力士の立ち会いのように腰を上げた。
 和雄が林先生と公園を出て行こうとすると、小さな子どもが三人、ぱたぱたと走って来た。歓声をあげる子どもたちに和雄は慌ててデジカメをポケットから取り出した。



      7

 一筆でさっと書いたような白い雲が高い空にある。自転車で家を出た和雄は、冷たく澄んだ朝の空気を顔に受けながら、木場公園の方へ行ってみようと思いつきペダルを漕いだ。週末土日は病院へ治療に行かなくてもいいという気持ちのゆとりが、和雄の体を動かした。
 永代通りを走り、地下鉄東西線木場駅の先を左に曲がると、「三つ目通り」に入る。その通りを少し行ったところに木場公園の入り口がある。木場公園はものすごく広い公園で、材木関連の倉庫が埋め立て地の新木場に移ったのを機に都市計画で出来たもので、植物園や野外ステージもある。
 和雄は何か撮るものはないかと、公園の周りをゆっくり走る。
 公園内は若い親子連れが多く、赤ん坊を乗せたバギーをゆっくりと押していくママや、走ることが楽しい子どもを見守るパパがいたるところにいる。その親たちはみんな一様にスマホを子どもに向けてその可愛い仕草を撮っていた。子どもを撮ろうかと一瞬和雄は思ったが、親が知らない人にどうぞ撮ってくださいと許可を出すわけがないと思い直しやめた。
 公園を横切っている葛西橋通りを渡ると、向こうに白っぽい大きな建物、東京都現代美術館が見える。日本で一番大きな美術館建築らしく、アメリカのMOMAを意識したのかMOTという略称がついている。和雄は何度が入ったことがあって、何か興味あるものが展示されていればと思い、前まで行ってみたが、今は長期改修工事に入っていて休館中という知らせが掲げられていた。
 和雄が公園に戻ろうと思って三つ目通りをゆっくり走っていると、ひたひたと走る足音が後ろから聞こえて来た。その足音の主が和雄を追い抜く。見えた後ろ姿は白いキャップに白いTシャツ、紺の短パンの男性だった。ジョギングの男性はすぐ先の信号が赤になった横断歩道で止まり、足踏みをしながら小さなタオルを出して顔を拭いた。そしてタオルをポケットに押し込んだが、タオルはしっかり入らずはらりと地面に墜ちた。男性はそれに気づかないで、青になった横断歩道を走って渡った。始終を見ていた和雄は思わず自転車を走らせ、あの、落としましたよと、声を上げた。横断歩道を渡りきまた走り出していた男性が、和雄の声に振り向いた。タオルを拾い上げ、これ、これ!と言った和雄の二度目の声に、男性は短パンのポケットに手を入れ、ことに気づいた様子で手を上げた。そしてすぐに走って戻ってきた男性は、和雄に頭を下げた。
「どうもすみません!」
和雄は、礼を言うそのランナーの顔を見て少し驚いた。日に焼けた顔の目元口元そして首には、深い皺が刻み込まれていた。素軽いフォームでスピードに乗ってジョギングしていたのは、結構な年のご年配だったのだ。その人は和雄からタオルを受け取り白い歯を見せ笑顔で言った。
「いやあ、よく落とすんですよ。これももう何枚目か」
「そうですか」
「でも、こうやって呼び止めていただいたのは初めてです」
「いつも走ってらっしゃるんですね」
「ええ、この辺で、もう馬鹿の一つ覚えです。でも馬鹿にも馬鹿なりに目標がありまして」
「何ですか?」
「来年の東京マラソン、完走を目指してます」
「それはすごい!」
「今時はリベンジっていうんですか。二度失敗しまして、今度こそというところです」
笑顔で話す目に、すごく力がある。この人を撮りたい、和雄はそう思った。
「あの、写真一枚、いいですか」
「え、私を・・・?そうだ、いいですよ、お願いが一つあります」
ダウンのポケットからデジカメを取り出した和雄に、ちょっと思案した老ランナーが言った。
「その写真、あとで私にもいただけませんか」
「もちろんです」
「ひとり者なので、普段の写真がないんです。いつ死んでもいいように、一枚あればと思っていたところです」
いつ死んでも・・・?和雄は驚いた。
「そんな、まだ・・・」
「歳は七十七です。喜寿、というやつです」
「ええ!?」
六十代と思っていたのが、七十代、それも七十七とは・・・。和雄はショックを受けた。今見た軽快な走りは老人のものじゃない。顔に皺こそあれ、日焼けした肌ツヤは良く、何と言っても笑顔の目に強い輝きがある。
「人の葬式で、若い時の写真が掲げられているのがあって、とても変な感じがしたものですから。自分の時は気をつけようって思いまして」
和雄の顔に戸惑いが出ていたのか、老ランナーが言った。
「いや、意識しないでください。あなたの撮りたいように撮っていただいて結構ですから」
和雄は老ランナーの白いTシャツ姿がフレームに入るようにデジカメを向けながら聞いた。
「すみません。二度失敗されたというのは」
「ああ、4時間30分を切る、というのが私の目標なんですが、まだ出来ていないんです」
今オリンピックを始めとするマラソンでは、たしか2時間10分を切るのが世界記録で、4時間30分というとその倍くらいか、と和雄は思った。しかし、八十を前にした老人が、42kmを走り切ること自体とんでもないことなのに、と和雄は思った。
「目標を達成したら?」
「そりゃあもう思い残すことはない。死んでもいいですよ!」
老ランナーが腰に手をやり笑顔になった時、和雄はシャッターを押した。
「あのう、写真は・・・」
和雄が聞こうとすると、老ランナーは白いキャップを深く被り笑顔で走り出していった。
「いつもこの辺りを走っていますから、またお会いした時にでも!」
出会った時と同じ素軽い走りで、老ランナーの白い背中はどんどん小さくなっていった。

 

 西の空がきれいな紅色に染まっている。日曜の夕方、和雄は八幡さまから不動堂の前へ続く路地を出て右に行き、深川公園へと歩いた。深川公園の広場なら、ビルに遮られずにこの美しい夕焼けが撮れると和雄は思った。公園に着いた和雄は、冷たい風が吹く広場の真ん中に立ち、デジカメを夕焼けに向けてみた。確かに遮るものはない。モニター画面は全面紅色一色の空になった。ただ、これでは色がきれいなだけで、夕焼けの空ということが分からない。また、空に雲がないと夕焼けの表情が出ない。画にならない、絵になっていないというやつだ。そういうことかと和雄はカメラを下ろした。
 ふと、公園の入り口の方を見ると、白いダウンベストにロングスカートの女性と、犬が一匹立ち止まっていた。犬は丸い体から短い足が出た濃いグレーのフレンチブルで、女性はしきりに話しかけているようだが、フレンチブルは一向に動く気配がない。
「ねえ、もう行こう。」
「ほら。あっちに行くと楽しいよ」
「いい加減にして」
「ねえ、どうしたいの。ここにずっと立っていたいの?」
「お願い、ビリー」
フレンチブルの名前はビリーというらしい。犬の名前が聞こえたところで、和雄はそのビリーに声を掛けながら女性を伺った。
「はい、ビリー!ご機嫌、斜めかな?」
「いつもなのよねー」
目の化粧が濃い、多分結構年がいっていそうな女性は、ビリーに話しかけた言葉を和雄への答えとした。
「ガンコ一徹、というところかな!」
「わがままに付き合うしかなくて。ね、ビリー」
女性がハスキーな声で苦笑いしたところで、和雄はしゃがんで皺が垂れ下がっているビリーの黒い顔をのぞいた。長い舌をだらりと出してはあはあ息をしているビリーは、和雄に目もくれようとしなかった。
「自分のタイミング、なんだよな」
和雄がビリーに向かって言うと、女性が和雄に聞いた。
「タイミング?」
「止まるにも歩くにも、自分のタイミングがあるんですよ、この犬を飼っていた友達が言っていました。彼も自分の・・・、あれ、彼で、いいんですよね?」
「ええ、私の彼!」
黒く濡れた大きなビー玉のような目は和雄に向けられていないが、和雄にはビリーが目の前の見知らぬ男の存在を感じていることが何となく分かった。
「あの、ちょっと、撮らせてもらっていいですか」
和雄はデジカメをダウンのポケットから出してみせて、女性に聞いた。女性はいきなりビリーの横にしゃがみ込んで、ビリーの顔に腕を巻き付けで言った。
「いいですよ。ビリー、このおじさんが、写真撮ってくれるって。よかったね」
和雄はビリーの顔を撮りたかったのだが、まずはしょうがないか、とビリーに頬を寄せた女性とのツーショットを撮った。そして、ビリーの顔だけのも撮らせて欲しいと頼むと、私のビリーよ、と言ってまた彼女がビリーに顔を寄せた。これが彼女の唯一の許可条件だった。

 「うーん・・・」
結衣がデジカメから目線を外し、首を傾げながら声を出した。
「なんかさ、撮りますって感じが出ちゃってるかな」
「撮りますって・・・。そりゃ、撮らせてくださいって言ってるんだから」
「いや、それはいいの。そうじゃなくって、なんていうか・・・。カメラが構えちゃってる感じがするの」
「構えちゃってる・・・?」
「そう。いい写真てさ、見た瞬間、あ、って飛び込んで来るのね」
「飛び込んで、来る・・・?」
「そう。自分の目に、写真が、飛び込んで来るの」
「そんなの、撮れるか。プロじゃないんだから」
「そんなことないよ。プロとかアマとかじゃなくて、いい写真って、そうなんだって。和おじが写したものだってさ。いいものはいいと思うよ。ちょっと貸して」
結衣は和雄のデジカメを手にして、撮った写真をスクロールするやり方を聞いてモニターを見出した。
「何、このおばさんと犬!撮ってくださいお願いしますって、頼まれたの?」
「しょうがなかったんだ 可愛い犬だと思ったんだけどさ・・・。」
「この、おじいさんは?ああ、ジョギングする人?じゃ、キャップ被ってた方がよかったんじゃない?」
「いや、そうなんだけど、事情があってキャップは・・・」
「公園の子どもたち、ブランコに乗るところ撮りたかったの?何でこんなに遠くから?随分小さく写ってるけど」
「それ、ちょっとカメラが間に合わなくて・・・」
結衣の率直で手厳しい感想が続き、和雄に弁解の時間は与えられなかった。
「この前にもたくさん撮ってるの?」
「ああ、いや、そんなに撮ってない」
「なんだ、じゃ見よう」
和雄は八幡さまで最初に撮った写真をモニターに出して結衣に渡した。これは見た、これも見たと言いながら画像を送る結衣の目がとまった。
「あ、これは・・・?」
結衣が見せたモニター画面には、縁日で撮った露店のおばちゃんの顔があった。
「ああ、それは縁日で撮った、おばあちゃん・・・」
「あの時、これ撮ってたの?いいじゃない、和おじ!この写真、すっごくいい、このおばあちゃんの笑顔!」
「そうか?」
「これは、いいよ!あ、ちょっとさ、これプリントアウトしてみようよ。コンビニで出来るから」
「今?」
「そう今!こういうのは感じた時が大事なの!和おじ、やり方教えるから行こう!この小さな画面の中じゃなくて、写真になって大きくなるとまた全然違うから!さっちゃん、ちょっと行って来るけど、何か買ってくるものある?」
結衣が和雄にダウンを着るように押しつけながら佐智子に言った。
「何もないけど、結衣ちゃん、何も今行かなくたって・・・」
結衣が玄関でズックを履きながら声を上げた。
「あ!」
「どうしたの?」
佐智子が何事かと聞いた。
「いいこと思いついちゃった!」
「何だ?」
腰を降ろして靴に片足を入れたままの和雄が顔を上げた。
「これさ、新聞の写真コンテストに出してみない?」
「新聞の?」
「コンテスト?」
佐智子と和雄が何のことかと声を上げた。
「いけると思うなあ。このおばあちゃんの笑顔!いけるよ、和おじ!」
結衣が和雄の肩を力強く叩いた。

 写真は近くのコンビニ店でキャビネ判にプリントアウトされた。和雄の家で取っている新聞の写真コンテストは、結衣がスマホで調べると明後日が年内最後の締め切り日だった。タイトルは和雄が考える間もなく結衣の一言で「深川縁日」と名付けられた。入選作品の発表は年明け一月の第三日曜日で、入選五作品が新聞に掲載され、ささやかながら賞金も出るという。写真は明日和雄が郵送することになった。
 
 翌日、和雄は郵便局に行った後、近くにある古石場図書館に寄った。大きなマンションの四階にあるこの図書館は、有名な日本映画監督の小津安二郎が近くの生まれと言うこともあって、映画関連の本が多く映画特集もよく組まれたりしていて和雄も時々見に来ていた。今日は、応募した新聞の写真コンテストにどんな写真が入賞しているのかを見てみようと思って新聞コーナーに寄った。
 和雄は毎朝新聞の先月分のバックナンバーの置いてあるところをを見つけ、日付を確認して一部を抜き出し、テーブルでぱさぱさとページをめくった。十一月十八日、日曜の新聞の中程に、写真が何枚かカラーで大きく載っているページがあった。コンテストの入賞作品だ。タイの祭り、沈む大きな夕陽、飛行機から撮った稲光、仲のいい猫と鳩、鉄棒で逆さまになった子供の笑顔・・・。和雄はため息をついた。どの写真も決定的な瞬間があって、とてもいい。やっぱり入賞作はレベルが高いと和雄は思った。そして和雄はすぐに、初めてカメラを手にしたも同然の、それも初めてシャッターを押したような自分の写真がここに載るわけがないと思った。そして和雄は、淡い期待が消えてがっかりしたのではなく、ざわついた気持ちが落ち着いて安堵したような気持ちになった。
 新聞を閉じようとした時に、ふとある記事の小さな見出しが目に入った。「福島の子どもの未来」。記事は原発事故がら七年、福島県内で小児甲状腺がんの疑いのある子どもは198人に増えたという内容だった。福島の地に放たれてしまった放射能は、除染作業にも消えることなく土地に残り、人々の体内にも侵入、原発に従事している人々の体を犯し、子どもの未来にまで居残りを続けている。
 和雄は思った。今、自分は放射線を浴びてがんを治療している。放射線は痛くも痒くもなく、患部にだけ効いて自分のがん細胞を殺している。もしこれが制御された元で行わなければ、あまりの飛躍だが、あの広島、長崎のように被曝する。そしてこの福島の現状と同じく、体に影響が及ぶということだ。科学はすごいが、科学は酷い。自分は科学の恩恵を受けながら、こうして悪い面が及ぼす現実の問題を知っても何も出来ず、ただそのページを閉じるだけだ、と思った。
 クリスマスの翌日二十六日、和雄は年内最後の治療を行った。治療経過報告は年明けにします、では良いお年を、と担当医の浅尾が拍子抜けがするくらい手短に言った。和雄も良いお年をと返したが、後になって、少なくとも体の状態が良くはない患者が良いお年をなどと言うのも何だか変だろうかと思った。
 和雄がロビーへ行くと、ベンチシートに佐智子が座っていてケータイを見ていた。昨日、佐智子が銀座へ行くというので、治療が終わってから一緒に行こうかと和雄が言ったが、即座に断られていた。その銀座の用事が早く済んで来ているのだなと和雄は思った。和雄は脇に抱えたダウンジャケットのポケットからデジカメを取り出し、気づかれないように佐智子の横顔にレンズを向けた。

 和雄は年末の納不動の縁日に出向き、露店のおばちゃんに写真を渡しながら、新聞の写真コンテスト投稿の件を話した。こんな顔が世間にさらされたらどうするの、と大笑いされながら、和雄は本人の了解を得ることができた。

 門前仲町の年の瀬は、事件の喧騒で荒れた去年と打って変わり、静かに暮れた。


        8

 昼前のテレビは年明け三日の日本各地の天気予報が映っていた。和雄は画面にリモコンを向けて消し、デジカメを手に玄関でダウンを着て外へ出た。
 佐智子は和雄に、風邪を引かないでよと声を掛けるしかなかった。こうしてよく外出することがいいことなのか悪いことなのか分からず、今まさにがんの治療をしている夫に風邪の注意など、何か変なことを言っているようにも思えた。
 佐智子には去年の十一月に受けた検診の結果が届いていた。数値異常が認められるので、再検査をという知らせだった。「異常」という普段見慣れない漢字に佐智子は一瞬怯んだが、何の異常なんだか知らないけど、今は夫のことで手一杯なんだからと思い直し頭の片隅に追いやっていた。

 和雄は人の顔、それも表情をよく見るようになった。スーパーで手に取った商品の裏の成分表示をじっと見続けるお婆さん。地下鉄のホームで、携帯で話しながら何度も頭を下げている細身のスーツの若い男。信号待ちで、手をつないだお母さんに一生懸命話しかける小さな子ども・・・。そんな人たちに目が行くと和雄はすぐにカメラを向けたくなる。だが実際はそうもいかない。撮らせてもらってもいいですか、と声を掛けお願いしなければいけないのだが、それを言っているとシャッターチャンスは逃げたり、終わったりしてしまう。縁日のおばちゃんのように撮ってから言えばいいとも思うが、そうもいかないのは、その人たちと何ら関係がないからだ。あらためて、人の写真を撮るのは難しいと和雄は思った。ただこうして写真を撮ろうと出歩いている間、和雄の頭にがんのことが浮かぶことはなかった。

 一月最初の治療の前に、和雄と佐智子は診察室に入った。机にはすでに担当医の浅尾が座っていてパソコンを見ていた。和雄がス
ツールに座ると浅尾医師は顔だけを和雄に向けた。
「PSA値が4・0を切って、基準値に戻りつつあります」
和雄の後ろに立った佐智子が唐突に言われたその数字の意味するところをあらためて聞いた。
「4・0を切って・・・。それは、良くなっている、ということですか?」
「はい、治療効果があらわれて、基準値に戻りつつある良い数値、と言っていいでしょう」
和雄が一番単純な言葉で聞き直した。
「治ったんじゃないんですか?」
「そうですね、完治したとはこの段階では言えません。最終判断は後一ヶ月の治療を行ってからにしましょう」
和雄は腿に手のひらを乗せ背筋を伸ばして後ろの佐智子に言った。
「八幡さまに、頼んだおかげかな」
「そちらの方は医者としては何とも言えませんが、篠田さんの普段の節制がきちんとなされているのこともあると思います」
浅尾が佐智子に顔を向けて、口元を少し緩めて言った。
「ただ今後も油断せず診ていかなければいけないのは、変わりません」
「よろしくお願いします」
佐智子が深くお辞儀をするのを見て、和雄も頭を少しだけ下げた。

 佐智子はロビーのベンチシートに座り、和雄の治療を待ちながら考えていた。良い結果が出たというのに、自分はどうしても素直に喜べない・・・。これは何かの間違いだという可能性はないのか。良い結果などと鵜呑みにしては行けないんじゃないか。これは悪いことが起きる予兆ななんじゃないか・・・。疑り深い自分が、慎重すぎる自分が、安心しようとする自分を戒める。油断大敵。良い話が聞こえて来た時こそ、調子に乗ってはいけないでしょ・・・。
 佐智子は、和雄が歩いてくるのに気づいた。和雄は手にしたケータイに何度も目をやっていた。
「どうしたの」
「新聞社から留守電が入ってて、今掛けてみたんだ」
「何だって」
「コンテストに入賞したって」
「え?」
「縁日のおばあちゃんの写真が、入賞したって」
「ええっ!?」
和雄が佐智子の横に座って唸った。
「うーん、いったいどういうことだ?こいつは春から縁起がいいってことか・・・?」
「本当に新聞社なの?何かの、間違いじゃないの?」
「とにかく、結衣に連絡しなきゃ」
「ちょっと、電話はここでしないでよ」
ケータイを使おうとする和雄に、佐智子が強く首を振った。


 
 冷たい風が吹く一月最後の週末、小料理屋「川路」では、和雄の写真コンテスト入選を祝おうと、いつもの飲み仲間が集まっていた。どうしてもこの集まりに出たいと言っていた和雄に、佐智子はお酒を一滴も飲まないこと、挨拶をしたらすぐに帰ってくること、そしてそこには結衣が一緒に着いて行くことという条件を出して、顔を出すことを許していた。結衣は和雄の気持ちがよく分かると言って、佐智子に付き添い兼見張りをするから行かせてあげてとこの役を買って出ていた。
 結衣はみんなとの初対面の挨拶からすぐに和雄の仲間、永島、鎌田、林、そして女将と話を交わしていた。
 白髪を短く刈った永島が猪口の酒をくいとあおって言った。
「しかし、撮った篠田もすごいけど、その写真を新聞のコンテストに出そうって言った結衣ちゃんもすごい。見る目があったっていうことだな」
L字カウンターの角の席で、あごに沿って毛先がきれいに揃った黒髪を揺らして結衣が言った。
「あの、ほんとうに笑顔がいいスナップだなって思ったんです。それでこれは、他の人にも見てもらいたいなあって思った時、そういえば新聞!って浮かんじゃったんですよね」
鎌田が顔を突き出し、結衣に大きなギョロ目を向けて言った。
「そこ、そこですね。だから目利きなんですよ、結衣さんは」
「そんなことないです」
蒲田は結衣が自分に顔を向けたことに気を良くして、いっそう顔を崩して焼酎のロックを口に運んだ。
「姪っ子さまさまですね、和雄さん」
永島と鎌田の間で言葉少なく静かに飲んでいた林先生が、背筋を伸ばして和雄に言った。L字カウンター横奥の和雄が、少し頭を結衣に向けた。
「カメラ始めるきっかけも、そうなんですよ。何か始めないと病気に気がいっちゃうっていって」
そこで鎌田が大きく頷いた。
「すべては結衣ちゃんのおかげってわけですね!」
「だめよ、鎌ちゃん。結衣ちゃんが可愛いからって」
薄い藤色の着物に真っ白な割烹着をした女将が、唇の端を上げ首を振って鎌田を制すように言った。鎌田がギョロ目を上げてばれたかという表情をしてグラスの焼酎を煽った。
 林先生が結衣に顔を向けて言った。
「あの写真は、篠田さんのコミュニケーション力のあらわれですね。こちらを向いたあのおばあさんの笑顔は、目の前の篠田さんへのものなんです。おばあさんは篠田さんとの話の中で、とても楽しくて自然にあの笑顔になった。そこなんです。そこが大事なんですよ。もちろんそのタイミングでカメラを向けてシャッターを押したこともお見事なんですが、評価された一番のポイントはやはり被写体と直に向き合って関わっているコミニュケーションの力だと思います。笑顔の写真はいっぱいあるけれど、そこが違うんですね」
永島が腕組みをして大きく頷いた。
「そうか、そうなんですね、林先生。写真って、そんな風に見るのかあ」
「いやいや、エラそうに言ってしまいました」
女将がカウンターに身を乗り出すようにして林先生に言った。
「先生、そんなことないわ。私もね、和雄さんが写真撮るって聞いた時、人の、いい顔撮ってほしいって思ったんです。それが、本当になって、もうびっくり!」
女将は和雄に向かい、顔の前で白く美しい手を合わせ小さな拍手をした。
「おめでとう、和雄さん!」
「いや、そんな風に言われても、オレは頭を掻くだけだよ」
女将は結衣にも言った。
「結衣さんも、応募のアドバイスができるなんて、すごいわ」
結衣が白いタートルのセーターの袖をちょっと引き上げ手を横に振った。
「いえいえ、みんなに見せたいなって思ったら、マニアが見るカメラ雑誌より、一般の新聞かなって。コンテストのページ、見たことがあったんです。でもこうやって本当に選ばれるなんて・・・」
そうだ、と言って鎌田が声を上げた。
「ね、結衣さん、俺にも何かアドバイスください。オレはこれから先々、どうしていったらいいかっていうところを、じっくり見てもらってですね・・・」
間髪入れず女将が差し込む。
「アドバイスなら私がしてあげる。鎌ちゃん、あなたはね、飲み食いの量をちょっと減らして、その出っ張ったお腹を引っ込める、というのはどう?」
「それはちょっと・・・」
顔を歪め首を傾げた鎌田に、みんなの笑いが起きた。
「みなさん、ここに寄らせてもらって分かりました。みなさんがこうして見守ってくれてるおかげで、和おじも元気でいられるんだなって思います。治療はまだあと少し残っていますが、これからも、和おじをよろしくお願いします」
「うーん、何か、選挙に受かったみたいだよ」
結衣の感謝の言葉に和雄が一言加えると、またどっとみんなの笑いが起きた。
「じゃ、みなさんこの辺で失礼します」
「え、もう帰っちゃうの」
鎌田がギョロ目を結衣に向けて言った。
「すみませんが・・・」
頭を下げようとする結衣を、永島が手を上げて止めた。
「いいよ、いいよ、結衣さん。なあ篠田、飲む楽しみはまたこの次だ」
「すまんな。もう少し」
「我慢の時に、こうやってわざわざ顔を出してくれるなんて、なかなかできないことです。治療を終えてから、またゆっくりやりましょう」
林先生が口の両端を上げて和雄に言った。
「そ、あなたはほんとーに、エラい!あとはオレたちがちゃんと飲んでおきますから」
「だから、あなたはいいって!」
すぐに女将が鎌田にツッコんで、店中にみんなの笑い声が満ちた。
「みなさん、ほんとうにありがとうございました!」
結衣は立ち上がって深く頭を下げ、みんなにお礼の挨拶をした。和雄も連れて立ち上がり、じゃあ、と言ってみんなに向かって手を上げた。永島も手を上げて応え、林先生は手を膝に置き背筋を伸ばして体を向け、鎌田は席から立ち上がり礼をした。和雄は女将に手招きをし、これ、みんなで、と小声で言いながら封筒を渡した。女将が両手で受け取り頭を下げた。中には和雄がもらった入賞金から一万円がご祝儀として入っていた。

 「川路」を後にした二人は、明かりの灯った飲屋が並ぶ路地を並んで歩いた。結衣がダッフルコートのボタンをかけながら言った。
「みんないい人」
「まあな」
「まだ治療が終わってないのにみんなに挨拶しておきたいなんて、何言うのって思ったけど、よく分かったわ。みんな、和おじのことほんとに心配してくれてる」
和雄は少し間を置いて言った。
「みんなこの界隈に住んでる連中だ」
「深川の、人情ってやつね」
「江戸時代って、何だか遠い昔みたいにいうけど、たかが三百年前だ。人の気持ちなんて、その頃も今もそう変わるもんじゃないだろう」
「そうだね。あの月も、今と変わらず出ていたわけだ」
 冷たい冬の夜空に白く光る半月を見上げながら、和雄と結衣は大横川にかかる橋をゆっくりと渡った。

 佐智子は、茅場町の病院での採血、採尿の再検査を終え、駅に向かった。昼から所により雨という予報に傘を持って来たが、まだ雨は降ってこない。見上げると空は一面明るい雲に覆われていて、買い物を終えて家に着くまでこのまま天気が持ってくれればいいがと佐智子は思った。いつもの野菜に加え今日は牛乳や何やと買わなければいけないので荷物が重くなる。それで傘を差すとなると大変だから、ところによる雨は、私の上で降らないで欲しい・・・。そう願ったところで、自然のなすことがしょうがないのは分かっているのだけれど、と佐智子は胸の内で呟いた。
 二日後には和雄の最後の放射線治療がある。これで病気が完治する。三ヶ月続いた病院通いの方はやっと終わりだ。和雄の写真コンテストの入賞も、まぐれだと思うが驚きの朗報だ。自分の検査結果を待たなければならないが、今のところ悪い話はない。空模様を気にしながらも、そう思えた佐智子の気分と足取りは軽かった。

 二日後の一月三十一日、和雄は予定通り最後の放射線治療を終えた。
 和雄が会計の終わった佐智子に銀座にでも寄っていくかと聞いたが、佐智子はすぐに首を横に振り、帰ると言った。電車に乗り門仲の駅に着いて、和雄が八幡さまに寄っていくと言うと、佐智子はちょっと考えてから、一緒に行くと言った。
 外は、朝薄曇りだったのが陽が差していて、少し寒さが和らいでいた。二人が鳥居の前に着き真っ直ぐ続く参道を見ると、人は疎らだった。
 和雄はそこで急に、佐智子のスナップを撮ることを思いついた。撮ると分かると絶対に嫌がるので、和雄は手水場へ行く前にデジカメをポケットから取り出して、ちょっと手前の倉庫にある神輿を撮るからと佐智子に声を掛けた。佐智子は頷き手水場へ歩き出した。和雄は気づかれないように佐智子にレンズを向けた。モニター画面の中に佐智子の後ろ姿が映る。手水場に入った佐智子が柄杓を取って体を横に向けたので、和雄はその顔にズームした。佐智子も確かに歳は取っているのだが、老けたという印象はない。よく見れば白髪とか、顔のしみやシワというような老化が目につくところはいくらでもあるだろう。でもこの雰囲気はまだまだおばあさんというより、おばさんと呼んでもおかしくはないと和雄は思った。
 しかし、家の中ではもちろん外出してもごく近い距離にいるのが当たり前で、こうして距離を置いた目線で佐智子を見ることはなかった。そして、カメラを通して被写体としてとらえると、あらためて、この女性が篠田佐智子という名の、長年一緒に生きて来た自分の妻なのか、と思えてきて、少し不思議な気持ちになった。
 佐智子が少し俯き加減で柄杓の水を手に濯ぐ。表情は柔らかく落ち着いている。和雄はゆっくりシャッターを押した。
 和雄が手水場へ行って柄杓を持つと、佐智子が横に立ち手を拭いたハンカチを差し出して、これで拭いてと言った。
 
 御本殿へと歩く二人の前に、車椅子を押す男性の姿があった。その横を通り過ぎながら和雄がちらりと目をやると、座っていたのは小さな女の子で、首を横に傾げ、目線は定まっていなくて口からよだれが垂れていた。
 和雄と佐智子は御本殿の前に立ち、賽銭箱に賽銭を投げ入れ参拝をした。和雄は病の完治を感謝し、佐智子もこの先もよろしくお願いしますと祈った。
 二人が参拝を終え振り向くと、左の方の二段に折れたスロープを車椅子が押されて上がって来ていた。ジロジロ見てもいけないと思った二人は階段を降りた。少し歩くと二拍手の音がした。和雄が振り向くと、車椅子を横に少女の父親と思われる男性が、御本殿に向かって深く礼をしていた。

 鳥居の前で、和雄がちょっとお茶でも飲んで行こうと言うと、佐智子が珍しく、まあいいけど、と言った。

 昼下がりの甘味屋はテーブル二席に客がいるだけで、珍しく空いていた。
 和雄は白玉をスプーンで掬って言った。
「たまに、と言うか、病気も治ったんだから、甘いもの少しぐらい食べても悪いことにはならないだろう」
「そう言う気のゆるみがいけないんだって」
佐智子が寒天を掬って口に入れる。
「たまにって言ってるだろ。ゆるみ続けるわけじゃない」
「どうだか」
 和雄が声の調子を抑えた。
「大変そう、だったな」
「そうね」
話は車椅子のことになった。声を落として佐智子が続けた。
「友達の知り合いに脳性まひの子がいて、前に聞いたことがあるんだけど、その子はいきなりひきつけを起こす症状があって、いつでも目が離せないって言ってた」
「いつ起きるか、分からないんじゃな」
「生活のこと、全部してあげなくちゃいけないって。ご飯、トイレ、お風呂、着替え・・・」
「重い障害を持てば、どうしたって一人では生きられない」
佐智子がスプーンの手を止めて言った。
「人間は、障害の有る無しだけじゃなくて、どうあっても、一人で生きられない存在よ」
「人間は、一人で生きられない人間を、助けるんだ」
「人間は・・・。でも、どうして助けるんだろう?動物でも、そういうことってある?」
「いや、人間だけだろう。心の発達がそうしてるんだ」
「人間には技術の発達もあるわね。あなたも、医療技術の発達のおかげで助かったの」
「それも人間が発見、発明したスペシャル技術、放射能を使ってだ。これは最強で最悪の、神をも恐れぬ禁断の技術だ」
「神をも恐れぬ・・・。人間にはキリストやらアラーやらいろんな神様がいるけど。八幡さまっていうのも」
「神様っていうのは、先の見えない不安な人々の心を、何か見えない存在に反射、増幅させて、人を動かすっていう、見えない技術なんだって、何かの本に書いてあった」
「そう?神様っていうのは、人間が作った技術なの?神様は、人間がいる前からいるんじゃない?」
「まあ・・・、そうかもしれない。八幡さまにはお礼を申し上げたけど」
和雄はあんみつを掬うスプーンを止めて、佐智子に言った。
「苦労、かけてる」
「うん?」
「かけついでに、まだもう少し、生きるぞ」
「何言ってんの?」
佐智子は口の中の白玉を飲み込み、続けた。
「私の方が、分からないかも」
「え?」
「健康診断の、再検査受けたから。結果次第でどうなるか分からないってこと」
佐智子が和雄を見て首を傾げた。
「そりゃ、困る」
和雄があんを掬い、口に入れた。



        9 

 午前十時過ぎに家の固定電話が鳴った。洗濯をしていた佐智子が出ると、東日新聞の者ですが、と名乗る太く響く声が聞こえた。写真コンテストではお世話になりましたと言葉が続いたので、ちょっとお待ちくださいと言って佐智子はすぐに奥の部屋にいた和雄を呼び、受話器を渡した。
 和雄が電話に出ると、お忙しいところ突然すみませんと、非礼を謝る言葉に続き名前が名乗られた。
「社会部の竹内と申します。弊社のコンテストで入賞された篠田さんの作品を拝見して、お電話しました。実は弊社内の企画で、一つ、篠田さんに撮影を依頼したいものがあるのですが」
和雄は一瞬耳を疑った。撮影、依頼?竹内は話を続けた。
「企画というのは、今年の夏の富岡八幡宮、八幡様のお祭りで、その祭りに関わっている地元の人々の様子を、四月から月一のペースで特集記事にするものなんですが、その写真を、ぜひ篠田さんに撮ってもらいたいと思いまして」
「はい?」
「撮る人も地元の人であることが大事で、門前仲町にお住いの篠田さんの、写真のテイストがこの企画に合っていると判断してのお願いです。今もう二月に入り、そう時間がありませんので、是非お願いしたいと思っています」
「はあ・・・」
 和雄は今いきなり降って湧いた話に気が動転し、言葉をうまく返すことが出来ずにいた。
「まずは今度伺って詳しいお話をと思いますので、篠田さんのご都合の良い日を伺いたいのですが」
「え?えーと、あの、今日は、二月三日、節分ですから・・・」
和雄は日取りを決めるのも覚束なかったが、週末金曜日の午後三時、場所は、思いつくところがなかったので、門仲駅近くの、自分が知ってる甘味屋でと、なんとか決めることができた。
 受話器を置いた和雄は腕組みをして首を傾げた。佐智子が、どうしたのと聞いたが、和雄は答えず、そのままソフアに座り固まってしまった。
「俺に撮れなんて、どういうことだ」
「何言ってるの」
「鬼は外、福は内か・・・」
和雄がブツブツ言いだしたことが分からず、佐智子は首を傾げた。


 大柄な体格でツイードのジャケットがちょっと窮屈そうな竹内はあんみつをスプーンで掬い口に入れ、大きく頷いた。
「うん!甘いもの、久々です」
和雄はそうですか、といいながら、自分のあんみつには手もつけず竹内の次のひと言を待った。
「入賞作品の中でも、とてもいい写真だと思ってたんです。あ、いいっていうか、好きですね、あの笑顔!これは撮られた方に是非お話をと思ってました」
竹内は横の椅子に置いたショルダーバッグからファイルを取り出し、そこから書類数枚を出して
和雄の前に置いた。
「うちの新聞では毎年恒例で特集している富岡八幡宮の大社祭、八幡様のお祭りを今年も記事にするんですが、今年はこの祭りに関わる地元の様々な人々を、普段の日常にスポットを当てて取材したいと思いまして。五十いくつある町会それぞれ、サラリーマンから自営業、現役組から引退組、あと特殊な仕事の消防士から寺の坊さんまで、いろんな人が会員になっていますよね。みんないつもはこの地元でご自分の仕事と生活を送っていらっしゃる。そこで、その普段の様子を取材して、みなさんの、この地元へ寄せる気持ちとか、地元の未来をどう考えていらっしゃるかとか、そんな思いを記事にしていきたいんです。一昨年の暮には嫌な事件もありましたが、それを払拭して次の新しい時代に向けて、この地元が踏み出して行くためにも、意義あるものになると思っています。今年は蔭祭りで子どもの祭ですが、来年の本祭りに向けても、とてもいいタイミングじゃないかと」
「ああ、なるほど」
「それでこの記事の写真も、プロに任せてしまうより、地元の方に撮影してもらうことが肝心じゃないかって考えまして。それでこうして、篠田さんに」
「いやあ、そうですか・・・」
和雄は自分で何と言えばいいのか分からないまま、声だけが先に出てしまった。こんな大役、とても自分じゃ勤まらない。こんなずぶの素人でいい訳がありません。期待に添う写真が撮れないと思います。たしかにあの露店のおばあちゃんは自分が撮ったんですが、賞をいただけたのは、あのおばあちゃんの笑顔そのものが良かった訳で、この自分の写真がうまかったのでもなんでもないんです。撮った自覚がないので、そんな私に言われましても・・・。落ち着いていれば色々言える。だが今、何一つうまく言えない和雄の前には、和雄に主旨をしっかり伝え、仕事をしてもらおうとしている竹内が、どんどん話を進めていた。
「そこで篠田さん。おおまかなスケジュールですが、記事を載せるのは四月から七月までの四ヶ月です。それでこの二月三月は人選で老若男女20人くらい候補を挙げて、三月中に決定します。それでまず四月頭に一人目を取材、そして篠田さんに撮影していただく。記事を書く方はまた人にお願いしようと思ってますのでご安心を。それですぐにまとめて四月中旬の日曜版に載せていこうと思っています。あとは追って次の方々の取材と篠田さんの撮りをやって言ってもらう、という感じでいきましょう」
「いや、あの・・・」
竹内は和雄の返答を待たずに、独特の押しの強さで、全体のスケジュールを一気に話し切った。

 「で、何だって?」
キッチンに立った佐智子が問い詰めるような声で、和雄に聞いた。
「うん・・・?ふう」
和雄はダイニングテーブルの椅子を引いて腰掛け、間を置いてから何ともあいまいな声を出して息をついた。佐智子は和雄の生返事に察しが着いて火にかけようとしたポットの手を下ろして言った。
「そんな、たまたま一枚くらい賞に入ったからって」
和雄はテーブルの上にあったリモコンをつかみテレビに向けてボタンを押した。画面には若い女性タレントがどこか海外の街を歩いている映像が映った。
「まあ、おもしろいじゃないか。祭りまで、春から夏までの間だ。あの事件の悪いイメージからの新たな一歩っていう・・・」
佐智子は和雄の言葉を遮った。
「何言ってるの?仕事なんだから、人に迷惑かけられないってこと分かってる?まだ完全に治ったわけじゃないのに」
佐智子はこの話に考える猶予も持たず、いきなり承諾してきてしまった和雄を強く咎めた。
「素人のあなたがいいんだって、言われたんだよ」
テレビから目を離さずに和雄が言った。説教は聞きたくないという態度に、佐智子は声を上げた。
「ねえ、聞いてる?人の迷惑・・・」
「この女の子、知らないなあ」
テレビから顔を外さない和雄に、佐智子は呆れて首を振った。

 翌日の昼、時計が正午を回ったのを見て、佐智子は結衣に
電話を掛けた。結衣が出なかったので留守電に電話をもらいたいとメッセージを残した。ゆいから電話がかかってきたのは、三時を回った頃だった。
「さっちゃん、ごめんなさい。電話出れなくて」
「こっちこそ、忙しいところ、ごめんね。あの、ちょっと相談があるんだけど」
「何?」
「毎朝新聞から電話があって、写真を撮って欲しいって言って来たの」
「ええ!?まさか、和おじに?何の写真?」
「夏のお祭り、八幡さまの。あ、でもね、お祭りそのものを撮るんじゃなくて、祭りと関わっている地元の人たちの日頃っていうテーマらしいの。それでお祭りまでの特集記事にするんだって」
「何それ、すごいじゃない!」
「とにかく、ちょっと本人と話してくれない?どうしたらいいかって頭抱えてるから。俺みたいな素人が、仕事になるのかって」
「うーん、私も分かんないなあ。写真の応募に関わったことは間違いないんで・・・、行きますよ。行って話は聞くけど・・・」
「悪いわね。ほんと、あの人も自信がないんだったら・・・」
「やめときなさいって?」
「わたしが言っても聞かないから」
「和おじも仕事になった時の責任の重さは分かってると思うから、受けるか受けないかは、自分で決められると思う。ちょっと、行ける日はっきりさせるから、また電話するね」
「すみません、よろしくね」
電話を切った佐智子は、ふうと息をつきながら、相談できる結衣がいてくれて、どれだけ助かっていることかと思った。

 電話を切りケータイをジーンズの尻ポケットに押し込んだ結衣も、ふうと息をついた。まさにこの和雄の件が舞い込む少し前に、結衣自身の人生について、先を問われる話があったからだった。
 
 「結衣、ちょっと話があるんだけど、いい?」階段を上がろうとした店長が言った。店長は続けて店の片付けをバイトの子二人に任せる指示を出した。「リトルムーン」の今夜の客足は落ち着いていて、閉店三十分前になった今も客は誰もいなかった。
 二階の狭い事務室に入ると、店長がすらりとした体を伸ばしてサーバーの水をコップでごくごくと飲んでいた。店長はふうと一息つき、自分の椅子に座って口を開いた。
「ねえ、結衣。うちの社員にならない?」
「え?」 「結衣がイラストをやって行きたいことは分かってる。でもここでさ、思い切って重心をシフトして、こっちの仕事を本気でやってもらえればって思ったの」
「いや、今でも・・・」
結衣が言いかけると、店長は広げた手を前に出して言った。
「分かってる。結衣はほんとうによくやってくれてる。でもさ、本気でやってほしいっていう意味は、この店を結衣に、任せたいってことなの」
「え・・・?」
「私に、ちょっとやりたいことがあって。っていうか、次の店を出したいんだ。新しい形のね」
結衣は驚いた。毎日誰よりも忙しく働いて、時間がない時間がないと言っていた店長は、次の店のことを考えていた。それも、この店とは違う・・・。
「新しい、形の?」
「うん。ベーグルを売るだけじゃなくて、ベーグルを食べてもらいながら、いい時間を過ごせる空間を作りたいって思ってるんだ。で、その空間はここじゃできない。ハコ自体の問題もあるし。だから他で構えようと思ってる」
結衣は周りを見るまでもなかった。確かにこの事務所スペースを解放したとしても、新しい空間とするには狭いというか無理だ。
「それでさ。それで結衣には、ここの、「リトルムーン」の店長になってほしい。で、それにあたってお願いがもう一つあって、結衣には、ニューヨークに一ヶ月、行って来てほしいんだ。」
「ニューヨーク!?」
結衣は店長話に加えて、そんな地名が出てくるとは思いもよらず驚いた。
「私が修行したニューヨークの店に店員の研修を頼めるかって聞いたら、一人ならっていう返事がもらえたの。それで結衣には本場の店に行って、ベーグル作りを見て来てもらいたいんだ。本場の仕事を一度でも体験するのは、すごく貴重で大事なことだと思うから。このタイミングを逃すと、後、なかなかないと思うし」
 結衣は店長の話を聞きながら、ある考えが頭に浮かんで一杯になった。ニューヨークで、イラストの勉強ができる・・・。
 結衣は自分を疑った。店を任されるための海外研修の提案を聞いた瞬間に、自分はこの話を自分のために利用しようとしている。結衣は自分に呆れた。真剣に夢を追っている先輩が、この自分のことも考えて言ってくれているのに、自分と来たら、これだ。
「ね、結衣。じっくり考えてほしい。この仕事を、結衣のメインにしていくっていうこと。ニューヨーク行きの方も決定は三月末にって向こうに言ってあるから。それまでに、ね」
 ついに来るべき時が来た、と結衣は思った。食べていくことの出来ないイラスト業に見切りをつけるのか。日々を地道に着実にやっていくための仕事をしていくのか。人生の選択をしなければいけない時が。
 結衣が和雄の問題とこの自分の問題を前にして思いついたことは、まずはどちらも聡に相談してみる、ということだった。

  
 結衣は店長との話を終えて店を出た後、お願い事はメールではいけないと思い、聡に電話を掛けた。聡は打ち合わせが終わったところで、話をしても大丈夫だと言った。結衣は和雄の話をした。
「写真が賞に入ったのがキッカケで、和おじにことが起きたの」
「何?」
「新聞の、特集記事の写真撮影を頼まれたんだって」
「それはすごい。何の写真?」
「八幡さまの夏のお祭り」
「へえ、あの、神輿を撮るの?」
「いや、祭りに関わっている人の、普段の生活だって」
「ああ、そうか。叔父さんの写真を見てのオファーだね」
「そういうことだね。和おじ、すっごく不安みたい。俺みたいな素人が、仕事になるのかって」
「そう思うよ、青天の霹靂」
「それでさ」
「うん?」
「ちょっと一緒に行って、励ましてくれない?」
「励ます・・・?」
「そ。私が言うよりも、もう一人の客観目線で。素人のあなたの撮るものが、求められているんですよ、っていう感じで」
「それ、そのままでいいじゃない」
「だから、私が言うよりも、あなたのような業界のプロの一言が効くと思うの」
「業界のって、こっちはクリエイティブじゃない。アートディレクターじゃないんだから」
「業界の、マーケティングのプロとしての目線を持ってるでしょ。それと、もう一つ問題があって・・・」
「篠田さんの?」
「いや、私の。土曜日、空いてる?」
結衣は聡に会えることで、難しい問題の半分は解決したような気分になっていた。

 和雄と結衣と聡の三人は、また不動堂前の甘味屋に寄った。和雄はもう店員に顔を知られ、自分で空いている席を指差すと、どうぞお好きな席にと言われた。
 オーダーを頼んだ後、和雄は聡に相談に乗ってもらうことに恐縮し頭を下げた。
 「すいません、ご足労いただいて」
結衣がスプーンで白玉を掬いながら聡に言った。
「和おじ、考えちゃってるのよ」
和雄が結衣に顔を向けて言った。
「そりゃ考えるさ。俺みたいな素人がだよ・・・。いや、素人だっていっぱい撮ってきたんならまだいいけど、そんなのも、まったくないのに」
聡がゆっくり頷いた。
「経験ですよね」
「そう、経験です。聡さんもそう思いますよね」
和雄に同意を求められ、聡は一呼吸置いて和雄に聞いた。
「篠田さんは門仲に住まれて何年ですか」
「もともと住んでたんですけど、まあなんだかんだでまたあらためて住むようになって十年になります」
「その経験ですよ」
「え?」
「門仲に住んでらっしゃる経験が買われたんだと思います。地元の人と話題を記事にするのに、撮る人も地元でと考えたんです」
「はあ」
「だから、経験十分です。写真は撮られたことがあって、コンテストに入選もしています。篠田さんの人を見るあたたかい目と地元愛が感じられます。写真の経験として年月をかけて枚数を撮っているものがなくても、今回の企画においては、もう十分でしょう」
「うん、やっぱり広告のプロだね。言うことが違うわ。ね、和おじ、やっぱりさ」
口の中の白玉を飲み込んだ結衣が、大きく頷いて言った。和雄は腕組みをして唸った。
「うーん・・・」
聡が続けた。
「あと、これはプロへの指名ではありません。いいかげんでは困りますが、あまり仕事仕事と考えなくてもいいと思います。そこに篠田さんの気構えさえあれば」
和雄がゆっくり息を吐き、呟いた。
「気構え・・・。そうか・・・」
「よし、やろう、和おじ!やってみようよ!」
「うん・・・」
結衣の声かけに、和雄の返事はまだ曖昧だった。
「なに、まだ何かあるの?」
「いや、うちのがさ・・・」
「さっちゃん?それは大丈夫だって。さっちゃんには私からちゃんと言うから」
和雄が結衣に言った。
「この後、夕ご飯食べに、寄ってもらうようにって」
「そっかあ!さっちゃんも気を使って・・・、あ、聡も、一緒に行こう!」
「え?」
突然の思いがけない結衣の誘いに、聡の表情が固まった。
「ああ、ぜひ!こんな相談でわざわざ来てもらって、迷惑続きになっちゃいますが」
「いえ、そんな・・・」
「よし、聡もOK!じゃ、和おじ、さっちゃんに電話するね!」
強引に聡の承諾を取った結衣は、ケータイを手にして席を立った。


 篠田宅に結衣と聡が寄った。
 出迎えた佐智子に、結衣が聡を紹介した。佐智子は聡に、結衣がいつもお世話になってと言い、今日は夫のことでもと言って頭を下げた。聡が突然お邪魔してと言いかけたところを、結衣がはいはいと言い、和雄が上がって上がってと聡の背中を押したところで玄関前のやり取りは早々に終わった。

 「私の考えだけじゃ、ダメなのね。聡に来てもらったのはこの人の社会的な目線が必要だと思ったの。この人のやってるマーケティングっていうのは、世の中の人が、何を思って、何を求めているかっていうのを探る仕事だから」
結衣がクリームシチューのニンジンをスプーンに乗せながら、和雄に言った。
「まあ俺も、家の窓枠、サッシを売る営業で、お客のニーズをつかむことを長年やって来たんだけど、写真撮って人様に見てもらうなんてことは皆目見当もつかないからな」
和雄がそう言ってカボチャのサラダを口に運んだ。
「和おじ、あんまり難しく考えないで。ね、聡」
スプーンを止めて聡が顔を上げた。
「今回は、八幡さまの祭りに深く思いを持つ地元の人、というのが企画のポイントで、その人選も新聞社がやってくれるのですから」
「そうよ、選んでくれた人の自然な素顔を、和おじは撮ればいいってこと」
「大丈夫かな」
「大丈夫だって!」
「ほんとうに?」
佐智子が結衣の顔を覗くようにして聞いた。
「大丈夫だって、さっちゃん!あのおばあちゃんを撮ったのが、和おじじゃなくて、本当はさっちゃんだったっていうなら問題だけどね!」
結衣の言葉に、みんなの笑いが起きた。和雄が聡に言った。
「本当にすみませんね、河合さん。こんな話につき合わせちゃって」
「いえ、とても興味深いです。入賞した写真から、こうした新たな展開が生まれるというのは。それに何と言っても篠田さんの隠れていた才能が」
「そうだね!和おじの自分でも知らなかった才能が、ここで開花した!」
「何言ってるんだ。たまたまだ!偶然だって!」
和雄が手を大きく横に振った。
「偶然に出会うっていうのも、すごいことなんだよ」
「あまり持ち上げないで。降りてこれなくなるから」
今度は佐智子の言葉にみんなが笑った。
 和雄が少し上を見るように言った。
「また、連中に言っておかないと・・・」
「こないだ入賞の知らせに行ったばっかりじゃない」
和雄の言葉を途中で佐智子が遮った。
「まあ、そうだな」
結衣が和雄の前に顔を突き出した。
「じゃ、記事が新聞に載るちょっと前でいいんじゃない?和おじ、掲載は、いつ頃?」
「最初のが、四月の末、ゴールデンウィークの頭って言ってた」
「ああ、じゃあその前にしようよ。実は、って感じで」
「そうだな。そうしよう」
 結衣と和雄のやり取りをただ聞いていた聡に、佐智子が聞いた。
「河合さんのお宅はどちらなんですか?」
「ああ、世田谷です」
「ご実家ですか?」
「いえ、実家は、北海道です」
「北海道!」
「札幌だって」
間髪入れず結衣が付け足して言った。
「そうですか、札幌ですか。私も長いサラリーマン人生の最初の頃、新潟にいたことがあるんですが、雪が大変ですよね」
和雄が聡に言った。
「そうですね」
和雄が自分の話をし出さないように、佐智子がさらに聡に聞いた。
「お正月はお帰りにならないんですか」
「あ、ええ」
「子どもが幾つになっても、親は親だっていいますから」
一瞬、聡の言葉を待つ間ができた。
「ま、この家は、私が帰ってくるってことで」
結衣の一言で、話の矛先変わった。
「もう私はここの子ども同然だからさ!親同然の二人が気になるわ。ねえ、和おじ!」
結衣は聡に言った後、和雄に顔を向けて言った。
「ご迷惑、ご心配をおかけして、本当に・・・」
和雄の平謝りにみんなが笑った。

 篠田宅を出て、結衣はダッフルから出た首元に巻きつけたマフラーから顎を上げた。
「いやー、また「川路」に行かなきゃいけないかー」
「川路って?」
聡が聞いた。
「あ、ごめん、そのこと話してなかったね。和おじがよく行ってた小料理屋なんだけど、和おじの体を心配してくれてた常連の人たちが、賞を取った時お祝いの会を開きたいって言ってくれたの。それで和おじのご報告と禁酒の見張りを兼ねて付き添いで一緒に行ったってわけ。それで、また今度のことはっていう話」
「そうだったの」
結衣は聡に礼を言った。
「今日はありがと。家まで付き合ってくれて」
「いや、こちらこそごちそうさまでした。叔母さんのクリームシチュー、美味しかった」
聡がPコートの襟を立てながら続けた。
「でも、分かるよ、篠田さんの気持ち。誰だってやったことがない初めての事は、どうしたって不安だからね」
「そうだね。それはいくつになっても、変わらない」
「ああ。それにしても、君は仲がいいんだね、篠田さんご夫婦と」
「うん。本当の親よりも」
「ご両親じゃなくて、親戚のご夫婦に会うケースなんて、なかなかないと思うよ」
「そうか、あはは」
「何か、あるの?」
聡が結衣に顔を向けて聞いた。
「ううん、何にも。ただ本当に気が合うっていうだけ」
「そう」
「ねえ、ちょっと寄っていってもいい?」
「いいよ。どこに」
「駅の裏手にあるバー。この前、店の前で面白い客引きに会ったんだ」
「客引き?なんか物騒じゃ・・・」
「ちがうちがう、その客引きはね、客に興味がないの!」
結衣の言葉に聡が首を傾げた。

 結衣が黒いドアを静かに開けて中を覗くと、カウンターの中で氷を割っていたマスターが顔を上げた。マスターは結衣を見て、口角を上げた。
「この寒空の中を、ようこそ」

 二人はカンパリソーダとジンリッキーのグラスをそれぞれ掲げ、口にした。
「うん、美味しい」
「ああ」
結衣が聡に聞いた。
「ね、お酒を始めて飲んだの、いつ?」
「高校三年の夏かな。友だちの家で」
「わたしは大学に入ってから。マスターは?」
結衣はナッツを皿に盛っているマスターに聞いた。
「お酒は、二十歳を過ぎてから、です」
結衣と聡がマスターを見て、ぷっと笑った。
「いやこれがこれがほんとで」
 マスターの一言でバーの空気がほぐれた。結衣が聡に顔を向けて言った。
「あのさ、わたしも初めてのことで、相談があって」
「ああ、もう一つ、問題があるんだよね。さて、何だろう?」
聡が背筋を伸ばして、聞く態勢を取った。
「行くべきか、行かざるべきか」
「どこへ?」
「ニューヨークへ」
いきなりの、あまりに有名な地名を口にした結衣に、聡はゆっくり顔を向けた。
「あのアメリカ東海岸の、ニューヨーク?」
「そう、あのニューヨーク」
頷いた結衣は、カウンターの端から黒猫が顔を出したのに気がついた。
「あ、客引きさん!」
結衣の目線の先を見た聡が、頷いた。


     10

 人を撮りたいと思っても、ただ闇雲に街を歩いていて出会うのは難しいと、和雄は結衣に言われた。そこで聡から、縁日で出会いがあったように、何か目的があって人が集まる場所に行ってみるのがいいのではとアドバイスがあったので、和雄は、結衣に行ってみたらと言われた清澄公園に出向いた。
 晴れてはいるが冷たい風が吹いている中、和雄はまさに風光明媚を求めて作られた庭園を、地方から来た団体客の間を縫って一巡りした。人との出会いもなく池の鯉と亀を目に留めたぐらいで、和雄は清澄庭園を出た。
 そして和雄は、これも結衣に聞いていた庭園からほど近くにあるというカフェに行ってみた。
 カフェは大きなガラス張りになっていて、中を見上げると天井が高くて広く感じられたが、テーブルの方は客で全部埋まっていた。すると入り口近くの席を立つ二人客がいて、和雄は運良くその席に座ることができた。
 和雄は、一杯ずつドリップで淹れているというコーヒーをカウンターで頼み、席で飲んだ。周りの客を見るとそのほとんどが女性同士かカップルで、一人客は自分だけでそれも老年の男であることに和雄は少々気恥ずかしさを覚えた。
 自動ドアが開き、赤いダウンベストを着た小さな子どもが入ってきた。5歳くらいだろうか、小さな子どもは店内を見渡した。席を探しているようで、子どもは少し歩いて周りを見たが、空いている席がないことが分かりまたドアのところに戻った。その時、和雄の横の席の若い男女が立ち上がり、二人は子どもの脇を通ってドアの外へ出ていった。その空いた席を見た子どもが、和雄を見た。和雄は席が空いたよ、という顔を子どもに向けた。すると子どもはうなずいて、自動ドアの外へ出ていった。どうするのかと和雄が思う間もなく、子どもはすぐにまた自動ドアを開け中に入ってきた。そのすぐ後ろに続いて車椅子に乗った男性が入ってきた。黒いキャップを被り赤いダウンを着た車椅子の男性は、キャッシャーまで車を動かし、店員に車椅子いいですか、と聞いた。どうぞと言われた男性は、カウンターまで行ってオーダーを頼み、席にやってきた。和雄はすぐに男性と目が合い、男性は、横、失礼しますとキャップを取り会釈した。和雄も軽く、どうぞと返し、子どもに、良かったねと言った。子どもは紙パックのジュースにストローを差し口にして、和雄の顔を見ながらジュースを吸った。
「こら、あいさつは。失礼だろ」
眉が太くキリッとした顔つきをした男性は父親だろう、子どもに強い口調で言った。和雄は目元が父親に似ている子どもに目配せしながら、父親に言った。
「あ、いや、ちゃんとあいさつしてくれましたよ。ここいいですかって」
「そうですか。すみません、なんだか、ものものしいのが横に来ちゃって」
「いいえ」
和雄が車椅子を気にしていないことをどう言おうかと一瞬思ったが、父親がすぐに言葉を続けた。
「乗りこなせていればいいんですが、まだ慣れなくて」
本人の方から話を切り出してくれたものと思い、和雄は理由を聞いた。
「どう、されたんですか?」
「交通事故です。仕事で車に乗っていたんですけど、横の方から突っ込まれちゃって。特に右足の方が。でもまあ、一生歩けなくなったわけじゃないんで、良かったです。」
「じゃあ・・・」
「立てるようになるのに一ヶ月、それからリハビリやって普通に歩けるようになるには頑張って二ヶ月くらい。まあ三ヶ月はかかるらしいです」
「大変ですね」
「今二月で、五月には治って・・・。まあ夏には問題ないので良かったです」
父親が子どもに目をやった。子どもは口からストローを離さないでいた。和雄は父親と子どもを交互に見て言った。
「夏に、何か?」
「今年の八幡さまは、蔭祭りなんです」
ああ、と和雄は大きく頷いて言った。
「今年は、子ども神輿の番でしたね」
「よくご存知で。地元の方ですか」
父親が太い眉を上げて和雄に聞いた。
「はい、古石場です」
「そうですか!うちは富岡です。八幡さまの裏の方です。ガキの頃から境内で遊んで、夏は祭りです。神輿は子どもの時から今までずっと担いで来ました。こいつも春に小学校なんですよ。それで今年の夏はちょうど子ども神輿なんで、担がせようと」
父親は息子の頭に手をやった。
「担ぐよな、歩」
「うん!」
あゆむ、と呼ばれた子は大きな声で返事をした。
「いやあ、もし今年が本祭だったら、この足じゃ無理だったかもしれません。神輿が担げないのは、自分の人生においてありえないでことなんですけど」
父親は車椅子に乗せた足の太ももを軽く叩き、少し笑いながら言った。
 和雄は父親の話に頷き、歩に言った。
「歩くん、今年は初めての神輿なんだね」
歩が口からストローを外して言った。
「今まで見てたから。おじいちゃんは担ぐの?」
和雄はいきなりおじいちゃんと言われて一瞬戸惑ったが、もうおじさんではないようだと思い直し、ポケットからデジカメを取り出した。
「いや、担がないけど、写真撮るよ。歩くんの担いでるところ、撮ってもいいかな」
「いいよ。ねえ、パパ」
「いいよ、じゃない。撮ってもらうんだから、お願いしますだろ」
「わかった。お願いします」
父親に言われてちゃんと言い直した歩に、和雄は笑って頷いた。その時和雄に、祭りの特集記事にこの親子はどうだろう、という考えが浮かんだ。今年の八幡さまは蔭祭りなのでこうした子どもを取り上げて、祭りのこれから、深川の将来といったことを考えるのも良いのではないか。和雄は何の躊躇もなく思いついたそのままを、目の前にいる父親に切り出した。
「実は私、八幡さまの夏祭りの特集記事の写真を頼まれているんです・・・」

 歩は一人で行けると言って、トイレに行った。トイレのドアを開ける歩を見届けて、父親が和雄に顔を向けた。
「祭りの記事ですか。いいですよ。松尾と申します。でも、こんな親子じゃ写真にも、いや、だいたいが特集記事になるような話がないと思いますけど」
松尾と名乗った父親が、和雄にはっきりと言った。
「すみません、私は写真を撮るだけの役目で、人を選ぶことについての意見進言など新聞社に聞いてもらえるかどうかも分かりませんが、でも土地の昔からの習わしが親から子へ伝わる、いや、伝えていくっていうのは、こんな時代になっちゃってほんとに大事だなって、今お二人にお会いして、思いまして」
「それはそうですね。人生の先輩を前にして、こんな若造が生意気言えませんが、まったくそう思います。あんな事もありましたし」
松尾は首をゆっくり横に振った。あんな事、で分かった和雄はすぐに聞いた。
「本当に。歩くんには?」
「事件があったことは言いました。神社で一番えらくなりたい奴同士がけんかしたって」
「そうですか」
「もう、きれいさっぱり、新しくなっていかないと」
「そう、思います」
「しょうがない奴らはいなくなりました。後、大事なのは、俺たちのここだと思うんで」
松尾は拳で左胸を軽く叩いた。松尾の思いは八幡さまと共にある地元の人たちの思いだと感じて、和雄は深く頷いた。

 和雄は葛西橋通りの方に向かって歩きながら、父親の松尾の腕に顔をつけてはにかむ歩の笑顔を思い浮かべた。和雄はふと思った。自分に子どもがいたら、一体どんな人生を送っていただろうか。
 自分もきっと今会った父親、松尾と同じだ。礼儀に厳しく、出来ない時はきつく叱る。そうやってちゃんとした躾をしながら、親として出来る限りのことをしてやりたいと思い、いつ何時でも、子どもの体と心の健やかな成長を願う。自分のことなど顧みず、すべては、我が子のためにと・・・。
 だが、和雄の人生では、そうすることはなかった。和雄と佐智子の間に子どもはできなかった。二人は我が子のいない、夫婦二人だけの人生をおくってきた。ただ和雄もそして佐智子も、どうしても子どもが欲しいと思っていた訳ではなかったので、これも自然の成すことだと割り切ってきた。自分たちは子どものいない、夫婦二人だけで生きる人生を与えられたのだと。
 二人は、佐智子の妹加奈子の子ども、結衣をかわいがった。妹夫婦は結衣が生まれてから姉夫婦の家によく連れて来ていて、佐智子と和雄にとって結衣は、ごくたまに会う姪っ子ということではなかった。結衣は小学校から中学校に行くようになっても、佐智子と和雄の家によく寄り、二人にとて結衣はそばにいるのがごく当たり前の、ほんとうに我が子のような存在になっていた。
 結衣は小さい頃から、佐智子をサッチャンと呼び、和雄を和オジチャンと呼んでいた。子どもにとって父親の存在は母親より遠いものでそれが叔父ともなればというところなのに、結衣は高校へ通うようになっても和雄のことを和おじと呼んで、なんだかんだと付き合ってくれていた。
 和雄は、ダウンのポケットからデジカメを取り出した。こうして写真を撮るようになったのも、結衣のおかげだ。そして、結衣のおかげで、いろんな出会いが生まれているのだと思った。
 やっぱり、歩くんを撮ろう。場所は、どこがいいだろうか。いや、肝心なのは、何をしているところを撮ろうか・・・。和雄の頭はさっき出会った子ども、歩のことでいっぱいになり、もし子どもがいたらというもう一つの人生のことは、頭の中から消えていた。

「清澄公園はなんだか団体客が来てて」
和雄は水の出る音が響く中、キッチンの佐智子の背中に向かって言ったが佐智子の返事はなかった。
「ちょっと寄ったコーヒー屋で、子どもに会った。歩くん、ていうんだけど。この春小学校に上がる」
野菜を洗っていた水を止め、振り返った佐智子に和雄は言った。
「今度、写真を撮らせてもらう約束をした」
黙っている佐智子に和雄は続けた。
「今回の企画に、合ってると思って」
「そんなの、親の承諾がなくちゃ」
佐智子が咎めるような顔つきで口を開いた。
「もちろん。一緒にいた父親に頼んだ。そのお父さん、車椅子で」
「どうしたの」
「交通事故で足をやられたんだってさ。怪我は一、二ヶ月くらいで治るらしい。歩くん、お父さんのこと思って座る席を探しに入って来たんだ。そこで」
「迷惑なんじゃないの。親がそんな状態で写真だなんて」
佐智子の顔つきは変わらなかった。
「八幡さまの祭りに関わる企画だって言ったら、喜んでって言ってくれた。生まれが富岡で、ずっと神社のすぐ裏に住んでて境内が遊び場だったんだってさ。子ども、歩くんにも神輿を担がせるって。今年が影祭り、子ども神輿でデビューなんだって」
「そう。とにかく、人のプライバシーに関わることだから、本当に気をつけてよ」
「分かってる。俺がいい子だって言ったって、新聞社のOKが出なきゃしょうがない。写真撮ったら、新聞社に相談する」
 結衣にも言っておこうと和雄が言うと、写真の度に結衣を呼び出さないでと言って佐智子が背を向けた。

 二月十一日建国記念の祝日、高く澄んだ青空に、刷毛で描いたような白い雲の筋が何本か伸びている。冷たい風もなく、柔らかい日差しが顔に当たって気持ちよい。冬晴れとはまさにこのことだと和雄は空を見上げながら感じた。
 和雄は深川公園にいた。辺りに目をやると、親に見守られながら遊ぶ小さい子どもと、元気いっぱいに声を上げながら走り回っている小学生の大きい子たちが、入り乱れて遊んでいた。
 和雄が入り口の方を見た。そこには車椅子の両輪を腕で回す松尾と、その横についてやって来る小さな歩の姿が見えた。和雄が一礼すると、松尾が気づいて手を上げた。
「こんにちは。歩くん、元気?」
「こんにちは。ほら歩、篠田さんに!」
挨拶を促す松尾に、歩は少しはにかみながら首を傾げた。和雄はしゃがんで、あらためて歩にお願いをした。
「今日は、よろしく」
松尾が和雄に聞く。
「どれくらいかかります?」
「いや、もう二十分もいただければ」
「じゃあ、よろしくお願いします」
「あ、あの」
そのまま行こうとする松尾に、和雄が聞こうとすると、松尾は入り口の方を指差して言った。
「ちょっと友だちがやってる店に寄って来ます。じゃ歩、パパ後で来るから。がんばれよ」
「何を?」
歩の問いに答えず手を上げた松尾は、車椅子をくるりとターンさせ、勢いよく両輪を漕いでいった。
 松尾の背中を見送った和雄は、横の歩にデジカメを差し出しながら声をかけた。
 「じゃあ、パパ帰ってくるまで、これで撮らせて。えーっと、何をしようか・・・」
「あれ、乗っていい?」
周りを見ようとした和雄に、歩はすかさず指を指した。その先には大きな筒のカバーで覆われた滑り台があった。
「いいよ、行こう」
和雄の言葉が終わらないうちに歩は駆け出し、滑り台に走り寄って階段を駆け上がった。和雄はすぐに後を追って、台に上がった歩の顔にカメラを向けた。モニターには歩の勇ましい顔があった。
「行くよ!」
歩は勢い良く筒の中に飛び込んだ。和雄はあわてて筒の出口に向かって走り、そこで膝をついた。サーッという中を滑る音とともに、筒の先から歩が出てきて地面に転げ出た。手をついた歩が顔を上げた。
「あはは!」
明るい笑い声が響き、満面の笑顔があった。
「すごいね、歩くん!」
そう言いながら和雄の指はシャッターを押していた。歩の遊びは止まらなかった。 どう、ぼくすごいでしょ、ものすごく楽しいよ!動き回る笑顔にレンズを向けモニターの中に入れ続けるのは、和雄にとってものすごく大変だった。

「ふう、休憩!歩くん、休憩だ!」
和雄はベンチに腰を下ろし、息を吐いた。そしてダウンのポケットに入れていたお茶のペットボトルを取り出し、歩に向けて掲げた。
「ほら、これ飲んで。しかしほんと元気だな、歩くんは」
歩が走って来てペットボトルを手に取り、ごくごくと飲んだ。
「これならお父さんが言っていたお神輿、ちゃんと担げるよ。そうだ、歩くんはお父さんが御神輿担いでるところは見たことある?」
「あるよ。水ばしゃばしゃ!」
「そうか、水、すごかっただろ」
「うーん、写真で」
「ああ、そうか、去年の夏は二の宮祭りで、水かけ祭り、本祭はおととしか。歩くんまだ四歳だったんだ。お母さんと一緒に見たのかな、覚えてる?あ、そういえば、お母さんは?お母さんのこと聞いてなかったよ。お母さん、家にいるの?」
歩は首を傾げた。
「働いてるの?」
歩むは首を横に振った。
「そうか、じゃ家にいるんだね。お母さん優しい?」
歩はこくりと頷いた。
「そうか。今度会って、挨拶しないとな」
「ねえ」
歩が和雄を見て言った。
「うん?」
「来る?」
一瞬、和雄は歩が何を言っているのか分からなかった。歩がもう一度言った。
「家、来る?」
「え?今、歩くんの家に?えーっと・・・」
唐突に、何だろうと思いながら和雄が口ごもっていると、歩が顔を公園の入口の方に向けた。
「パパ、来た」

 八幡宮神社のすぐ裏には創立百年を越す歴史ある小学校があり、松尾親子の住むマンションはその小学校の向こうにあった。
 歩がドアを開けると、玄関には車椅子が上がれるようにスロープの板が敷かれあった。
「そのまま上がってください。靴は中で」
「はい、お邪魔します」
和雄は廊下で靴を脱ぎ、ダイニングキッチンへ入る。
 その人の写真はテレビ台の横に置かれた腰高のチェストの上にあった。
歩が銀のフレームの写真立てに手を掛けて、和雄に言った。
「ママ」
「仏壇はないです。好きじゃないんで」
和雄の後ろから松尾が言った。
「麻美と言います。」
そこに写っている人は、ショートカットで笑顔の白い歯がきれいな若い女性だった。
 
 公園からマンションへの道すがら、和雄は松尾から二年前に亡くなった奥さんのことを聞いていた。乳がんで、患っていることが判ってから一年余りのことだったという。
 なぜ・・・。どうして・・・。松尾の思いは途切れる時がなかった。なぜ自分の妻が、死ななければならなかったのか。親としての思いも途切れることはなかった。自分たちの子ども歩の母が、なぜ永遠に、いなくならなければならなかったのか。何か自分たちが、悪いことでもしたというのだろうか。これはその罰なのだろうか。言われのない罰を、どうして背負わなければいけないのだろうか・・・。自問はいつまでも続いたという。
 和雄は言葉がなかった。自分もがんで、早期発見だったがつい最近まで治療をしていたということは、言えなかった。それも今は治ったことが、なおさら和雄の口を開かせなかった。

 「人生、色んなことが、起こりますよね。」
そう呟いた松尾に、和雄が振り向く。
 松尾が続けた。
「病気だけじゃない。事故もある。俺もあの交通事故で、死んでいたかもしれなかった。天災もある。あの千年に一度の大地震や大津波で死んだ人も、たくさんいた」
松尾が車椅子を歩のところまで動かす。
「すべては、偶然と、奇跡だって思います」
松尾が歩の頭を撫でた。
「ここに、歩が、います。妻と、出会ったからです。妻はいなくなりましたが、歩がここにいるんです」
「そうですね」
和雄が深く頷いた。
 歩が写真立てを棚から手に取って、和雄に言った。
「ね、撮って」
「うん?撮って?」
和雄が歩に聞いた。
「いっしょに、撮って」
歩は、ママの写真を胸の前に持って、一緒に写真を撮ってほしいと言った。和雄はデジカメを取り出して頷き、松尾を促した。
「いいよ、歩くん!じゃ、パパもね。パパ、いいですか」
「そうだな、歩!三人で、ママとパパと歩と、三人で写ろう!」
ママの写真を胸の前に抱いた歩の横に松尾が車椅子を寄せて、小さな肩に手を掛けた。
「はいはい、もうちょっと」
モニターを見ながら和雄が動かした手の指示に、父と息子は母の写真に顔を寄せた。モニターの中で、三人の笑顔が揃った。
「いいねー!いくよ!」
和雄は掛け声と同時にシャッターを押した。

 「公園で遊んでるところ、ちょっと撮ったんだけど、その後歩くんが家に来てって言うんだよ」
椅子に座りながら和雄が言った。佐智子はキッチンで買い物してきたものを整理していた。
「家が近いからって。八幡さまの裏の小学校の向こうで・・・」
和雄が続けると、佐智子がかぼちゃを持った手を止めて言った。
「まさか、行ったんじゃないでしょうね」
「行った」
「ねえ、何、考えてるの?」
「いや、お父さん、松尾さんも、ぜひ寄ってくださいって言うから」
「ぜひ、なんて言ったの?取材させてもらってるだけでも迷惑なのに、その上お宅にまで上り込むなんて。奥さん、歩くんのお母さんもいらっしゃるんでしょ?あなた、一体何なの?マスコミの人?」
「いや、松尾さん、話したいことがあるって言ってさ」
和雄がデジカメのモニター画面を佐智子に見せた。いやいや見た佐智子の目が留まった。モニターには、歩が女性の顔が写っている写真立てを胸に持って、横の松尾が顔を寄せている写真が映っていた。
「どういうこと?」
「家族写真を、撮った」
「この人・・・」
「歩くんのお母さんだ。三年前に亡くなった」
佐智子がもう一度写真の女性を見た。和雄が続けた。
「乳がんだったそうだ。宣告されて一年のことだったらしい」
佐智子は写真立ての中の若い女性の顔をしばらく見ていた。
「かわいそうに・・・」
「でも松尾さんは、息子は元気で頑張ってるって、妻に見てもらいたいって言ってた。記事になるのをOKしてくれたのも、そういう意味合いがあるんだってことが分かった」
「こんなに若くて」
「人生、いろんなことが起こるって。病気だけじゃない。自分も事故に遭ってしまったって言ってたよ。世間だって東北には地震があって、八幡さまには殺人事件だ」
和雄は佐智子からデジカメを受け取りながら言った。
「本当に、いやね」
佐智子が息を吐き出して言った。
「でも悪いことだけじゃない。ここに、歩くんが、いるからな」
和雄がモニターの写真を見て言った。
「まずは、竹内さんに相談だ」

 和雄は日比谷にある東日新聞社の側のカフェで竹内を待っていた。三時の待ち合わせだったが、竹内は二十分遅れて先日会った時と同じツイードのジャケットで現れた。竹内は遅れたことを詫びながらタンブラーの水をごくりと飲み、和雄が経緯を説明しながら差し出した写真を手に取った。写真をじっとみた竹内が顔を上げて言った。
「出会いは、偶然なんですね」
「はい、まったくの」
「何か、篠田さんは、縁日のおばあちゃんといい、そういう引きを持っていらっしゃるのかな」
竹内は写真をテーブルに置き、腕組みをしながら言った。
「いや、私は何も・・・」
「自分では分からないものです。私の同僚にもいますよ。事故や事件の現場に居合すことが多い奴が。本当に偶然なんですけどね。そいつも、仕事ではいいのかもしれないけど、悪いことに出くわすのはいやだって言ってました」
そう言って竹内はコーヒーを啜った。和雄は、そうですか、と曖昧な返事しか返せなかった。
「この子ども、いいですね。お父さんも。あと、お母さんも」
お母さんも、と言った竹内の言葉に和雄は少し引っ掛かった。察したのか竹内が言葉を続けた。
「いや、すみません。亡くなったお母さんの写真がいい、と言っているわけではありません。おじいさんの代から地元の、それも八幡さまのすぐ側でこの子は生まれ育って、お父さんのもとで今年初めて神輿を担ぐ。いいじゃないですか。亡くなったお母さんも空の上から見てくれるでしょう」
和雄は竹内が自分と同じ思いを持っていることに安心した。竹内はジャケットの内ポケットからスマホを取り出して言った。
「今、子どもの候補も何人か上がっているので、お願いするかどうか社で検討させてください。それで正式に決まったら、取材の際にはライターをつけます。篠田さんには写真を撮っていただいて、話はご本人らにライターが伺って記事を書くということで現場に同行することになります。伺った話をまとめてもらいます」
和雄はそういえばそうだと思った。新聞は写真だけではなく記事の文があってのものだ。今まで考えも及ばずにいた自分はやはり素人だと思った。
「この写真、お借りしてもいいですか」
竹内の太い指がテーブルの上の写真を取り上げて言った。


      11

 佐智子は病院のロビーのベンチシートに座っていた。佐智子の頭の中では三十分前に医師に言われた言葉が何度も繰り返されていた。それはまるで何か手続きの説明のようにも聞こえたが、実は再検査の、それも厳しい結果についての報告だった。

「がんの疑いがあります」
佐智子は自分の耳を疑った。そして佐智子はすぐに、この痩せて頭がだいぶ禿げ上がっている医師は一体誰のことを言っているのだろうと思った。それは夫、和雄のことか。和雄の前立腺がんなら、治療を受けて治ったばかりなのに・・・。
 佐智子が言われたことを飲み込めずにいることなど全く構わず医師は続けて言った。
「血糖値の異常が見られたことから再検査を行いましたが、アミラーゼの数値にも異常が見られました。これは膵臓がんの疑いを示すものです。篠田さんには早急に精密検査を受けていただく必要があります」
膵臓がん?私が・・・?私が、一体どうしてがんなの。ついこの間まで夫のがんを心配していた、私が・・・。
「病院は、こちらから紹介させていただきますので、そちらでの受診治療をおすすめします」
頭が混乱している佐智子に聞こえてきたのは、和雄が通っていた病院の名だった。

 佐智子はしばらく座り込んでいたシートから、ようやく腰を上げようとした。その時ふと、頭の中の混乱を一気に振りはらうような考えが浮かんだ。ちょっと待って。あの医師は確かに、私にがんの疑いがあると言った。でもこれはまだ、疑いがあるということでしかない。だからこれから精密検査を受ければ、そうではないということが判る可能性もあるはず・・・。和雄の時もそうだった。和雄も検査の結果、がんではあったがこれが初期段階での早期発見で、その後三ヶ月の通院治療で完治している。私も万が一がんであったとしても、発見が早ければ大事にはならない。適切な治療を速やかに行えばいいことだ。とにかく、すべてはまだ疑いのレベルで、本当のところはまだ分からない。また結果が悪い方に出たとしても、それはそれで、なるようにしかならない。その可能性もないとは言えないが、今からそんなことで気を揉み続けるのも馬鹿らしいので、とにかく、あれこれと良くないことだけを考えるのはやめよう。
 佐智子は自分の考えに納得がいった。そして佐智子は、ふう、と大きく息をついてベンチシートを離れた。
 佐智子は病院の玄関を出た。二月の寒風の中を駅に向かって歩く佐智子の頭の中は自分でも驚くほどすっぱりと切り替わっていて、夕飯は何を食べようかと帰りの買い物を考えることでいっぱいになった。

 「がん?」
湯呑みを手にした和雄の手が止まった。
「まだ疑いだけど」
和雄は食事が終わってつけたばかりのテレビをリモコンで消した。首を傾げた和雄は、腕を組み佐智子に言った
「どこだ」
「膵臓だって」
「膵臓・・・。それで、どうする」
「それでって、あなたと同じだって」
「検査か」
「そう。紹介された病院は同じ」
和雄は腕を組んだまま、天井のどこを見るともなく目線を上げた。
「しかしなあ・・・」
佐智子はテーブルの上を片付け終えて、座って自分のお茶を入れた。
「あなたがなったから、私がならないっていうことはないの」
「そうだけどさ。まるで俺が・・・」
和雄が言いそうになった言葉を、佐智子が言った。
「あなたのがんが感染った?そんなの有り得ないから。とにかく、まず検査入院をしてからの話。指定日は二十六日の火曜」
和雄は腕組みを解いて湯呑みを手にしながら言った。
「まあ、まだ疑いだからな」
お茶を音を立てて啜った和雄は、ふうと息を吐いた。
「まあ、何でもないか、俺と同じで早期発見だろう」
「だといいけど」
和雄の楽観を装っているのか、本当にそう思っているのか分からない言葉に、佐智子は皮肉の意味も込めて返した。
 しかし、また何で・・・、と言いかけた和雄は言葉を飲み込んだ。そして食事前にほとんど読み終えて畳んであった夕刊をバサバサと広げた。
 佐智子は検査入院することを、結衣には人間ドックに入ると言って知らせておこうと決めて、キッチンで洗い物を始めた。

 代官山のカフェは八幡通りに面したビルの地下にあって、柔らかい照明の中、静かにジャズが流れる落ち着いた店で、結衣と聡は時々寄っていた。今夜も客は他に二組のカップルしかいなくてとても静かだった。二人はエル字になっているカウンターの奥に座った。
 「行けばいいと思う?」
口にしたココアのカップを置いて、結衣が聡に聞いた。黙っている聡に、結衣がまた聞いた。
「行かない方がいいと思う?」
「いいと、思う・・・」
そう短く言った後に、聡は腕を組んだ。
「行けば何が良くて、行かないと何がいいんだろう」
結衣がふう、と息をはいて言った。
「そうね、そこが分かってないってことが、分かるわ」
聡は少し首を振った。
「いじめてるつもりはないよ。これは仕事を決めるっていうことなのかな」
「うん?」
「イラストレーターをやめて、パン職人になるっていうこと」
「うーん・・・」
「それとも、パン職人にならずに、イラストレーターを続けるってこと」
「店長は、店を任せるからって」
「イラストレーターをやめろって?」
「そうは言っていないけど、専念してほしいって」
聡は濃いコーヒーの入ったカップをゆっくり持ち上げた。
「ニューヨーク行きは踏み絵なんだね」
「その例え、隠れキリシタンだった人たちには申し訳ないと思うけど」
結衣の気を使った言葉に、コーヒーを一口飲んだ聡が言った。
「そうだね、気をつけよう」
頷いた聡は、結衣に顔を向けて言った。
「生涯、一本の映画しか撮らなかった映画監督は、映画を撮っていない間は何をしていたか」
「何?」
突然の話に結衣は首を傾げた。
「映画を撮っていない間は、映画監督は映画監督じゃなかったかと言ってもいいかな」
「作った映画はあるんだから、監督はずっと監督でしょ」
「映画監督というのは映画を監督している状態であって、職業じゃない」
「何の話?」
「そう言った映画監督がいたなって思い出した。映画って、毎日会社員が会社にいってする仕事のように、作り続けられるようなものじゃないからね」
「私のイラストもそうだってこと?」
「いや、そこには仕事か作品かっていう問題がある。広告は結局何かを売りたい発注者がいないと始まらないし、それは対価がある仕事だ。仕事として必要とされるイラストとかの表現は、売りたい物を売るための手段方法の一つだからね。映画は、作った作品自体を見てもらって、鑑賞代金、お金をいただくというものだから」
「それは分かるけど、それがわたしの場合どうだっていうの」
結衣の眉間にしわが寄った。聡が体を結衣に向けた。
「イラストレーターをやめるって、どういうこと?依頼があっても、やめたのでもう描きませんって断ること?」
「それは・・・、とにかく、もう描かないってこと」
「そこが、分からないところだ」
「何が分からないの。もう描かないんだって」
結衣がきつい口調になった。聡がゆっくり頷いて、言った。
「やめたい?」
「やめたくない。そりゃあ、やめたくないよ」
「イラストレーターを?描くことを?」
結衣は頭に手をやった。
「ああ、そうか。プロか、趣味かってこと?」
「僕もイラストレーターならいいんだけど、そうじゃない。でも、大事なのは、描くことだと思う」
「描くこと?」
「そう。絵を、描くこと」
「絵を、描くこと・・・」
結衣がテーブルのココアのカップに目を落として考え込んだ。
 聡が座りなおして言った。
「店の提案に対して結論を出すのに、そんなに時間がないことは分かっているよ。でも今すぐ、ここで出さなくてもいいよね」
「まあ・・・」
「だからその前に、チーズケーキ、食べようか」
聡が、一人カウンターに入っているマスターに手をあげた。その聡の横顔を見て、結衣はふうとため息をついた。

 土曜日、和雄はまた松尾宅に伺った。
「新聞社と話しました。正式に、取材させてください。歩くんの陰祭りまでです」
「わかりました。これも何かの縁ですね」
松尾は即答した。
「ありがとうございます。それで、歩くんの四月の入学式ですが、いいですか」
「ああ、そうですね。歩、いいよな、写真撮ってもらえるぞ。それで、新聞に載るんだ」
「新聞の、車に乗るの?」
「違うなー、乗るんじゃない」
松尾が笑った。
「歩くん、今度小学校でランドセル背負ったところ、撮らせてください」
和雄がカメラを構える真似をして言った。
「いいけど」
「何?」
「うまくしょえないから、練習しようっと」
そう言った歩が、奥の部屋から黒のぴかぴかのランドセルを持って来た。右腕をベルトに入れて肩にかけ、左腕も入れようとするが、ベルトが後ろにいってしまいなかなかうまく入らない。
「歩、ちゃんと背負えないと、篠田さんに撮ってもらえないぞ」
「えー」
「大丈夫、歩くん、まだ時間はあるよ」
父に言われてしょげる歩に、和雄は、少し前かがみになって左のベルトが前に来るようにアドバイスした。

 結衣はデジカメのモニターに映っている車椅子の松尾父と息子歩、そして歩が手にした写真を見ていた。
「この家族写真は深いね。お母さんが写真だなんて。こんなスナップ撮れるのは、和おじ、やっぱり、持ってるんだよ」
結衣は顔を上げ大きな声で和雄に言った。
「何を持ってるって?」
「何をって、運を引き寄せる力ですよ!こんな親子に出会えるなんて!」
「そうか?清澄公園行ってみたらって結衣が言うから行ってみたら、この二人に会えたんだ。だから運を引き寄せる力は、結衣の方が持ってるんじゃないか」
「いやいや、そうじゃないって。で、新聞社の担当の人はなんて?」
「進めてくださいって。オーケーが出た」
「すごいねえ!」
「でも気になってる」
「何が」
「亡くなった奥さんを、利用しているように思われる」
「違うよ。名前何だっけ、松尾さんか。松尾さんがオーケーしてくれたんだから!この歩くんが八幡さまの祭りで神輿を担ぐって楽しみにしてるのは、天国のお母さんだって喜んでることでしょう」
「それはいいんだけど。何か、人の不幸に・・・」
「考えすぎ。大丈夫!考えなきゃいけないのは私の方!」
キッチンで紅茶を入れていた佐智子が振り返って聞いた。
「私の方って、何?」
「ニューヨーク行き」
「ニューヨーク?」
佐智子が声を張り上げた。結衣は、持ってきたベーグルの袋を指して言った。
「そう。アメリカ東海岸のニューヨーク。このベーグルの本場なんだけど、向こうでベーグル作りの修行を一、二ヶ月間して戻ったら、今の店を任せたいって、店長から言われたの」
「すごいじゃない。店長ってオーナーなんでしょ。それで決めたの?」
「いや、まだ。それで、さっちゃんに相談、て思って」
「私に?聡さんには?」
佐智子が紅茶を置いて座った。
「した」
「なんて?」
「すごいこと言われた」
「何だって?」
今度は和雄が聞いた。結衣が組んだ腕をテーブルに乗せた。
「ニューヨークへ行く選択をすると、それは、私がベーグル屋のプロになるってこと。それはすなわち、私はイラストレーターをやめなけりゃいけないってことなの。ね、さっちゃん。和おじ。これは私にとって究極の選択で、人生の大きな岐路なんだ」
「そうか」
和雄が結衣の顔を見て相槌を打った。結衣は反応が今一つの和雄を諦め佐智子に顔を向けた。
「でも聡が言ったのは、君は、絵を描きたいのかどうかって」
「うん、そうね」
佐智子がすぐに頷いた。
「え!さっちゃんまでそう言うの?ベーグル屋としてプロになるってことは、イラストレーターを本業とすることを、やめるってことなんだよ!」
「そう」
「そんな大問題をスルーして、君は絵を描きたいのかって・・・」
「目の前の現実的な問題をどうするかじゃなくて、自分は、自分の心の奥は、どうなのかって考えること。聡さんはそこを言ってるんだと思う」
「えー、心の奥って。だって、絵は、描きたいに決まってるじゃない!」
「結衣ちゃん。一番大事なのはその思い。その思いから、考えればいいのよ」
「ねえ、私は、イラストレーターとして食べていけないって言う現実があるから、困ってるんだよ。もう、まいったなー」
結衣は椅子の背もたれに背中を預けて唸った。
 和雄は、佐智子はしなくていいと言っていたが、佐智子が検査入院をすることを結衣に伝えておこうと思っていた。だが結衣の話の様子からやめておくことにした。

 

 次の日の昼前に、佐智子は妹の加奈子に電話した。
「結衣ちゃんが寄ってくれて」
「ああ、そう。またお邪魔しちゃって。ねえ、和雄さんその後どう?大丈夫?」
加奈子はすぐに和雄のことを聞き、結衣については何も言わなかった。まだニューヨーク行きの相談はしていないようだと思い、佐智子は何も言わずにおいた。
「さっちゃんの方は、大丈夫?」
加奈子の突然の言葉に、不意を突かれたように佐智子は動揺した。
「え、何?」
「いや、気疲れとか体に出てるんじゃないかと思って。私も最近、関節が痛くて。膝なんかもう大変・・・」
加奈子の話は、がんのことではなかった。まだ誰も知らないことだと佐智子は胸をなでおろし、すぐに言い返した。
「年を取れば、誰だってどこかおかしくなってくるのよ」
「いやあ、だってひどい時なんて、ビリビリって電気が走ったみたいになって立てなくなっちゃうんだから。ねえ、これ、病院に行った方がいいかしら」
「そうねえ」
「でも、コンドロイチンって知ってる?通販で、膝にいいって言ってるやつ。ちょっとそれ取って飲んでみてね、様子見てからでもって」
「まあね」
女性特有のもう答えを用意してある相談に、佐智子は適当な相槌を打った。
「そっちは、どこも悪くないの?」
加奈子の言葉に、佐智子はまたどきりとした。検査入院のことを言っておこうか・・・。しかしすぐに、結衣の顔が浮かんだ。今あの子が大変な時に、私のことで心配はかけられない。それに、言うとしても加奈子より先に、あの子に直接言わなければ。佐智子はそう思い直し、加奈子に言うのをやめた。

 三月に入った三日、ひな祭りの日に、佐智子は和雄が通った千駄ヶ谷の病院に検査入院した。


      12

 検査入院から十日後、佐智子は再び病院に来て診察室に入った。パソコンに目をやっていた医師が立ち上がり、平井と名乗った。平井は白髪混じりの短髪で、太い眉に大きな目をしていて縁なしの眼鏡を掛けている。40代後半から50歳くらいだろうか。佐智子はこの体つきもがっしりしているこの医師に、和雄の時の若い担当医よりもずっと信頼のおけそうな感じを受けた。その平井医師から検査入院の結果が告げられた。それはやはり、膵臓がんだった。
「CT、MRI、がん細胞の腫瘍マーカーの濃度チェックから、状態はステージⅢの判定が出ています。すぐに入院治療の体制を取らなければなりません」
表情を変えず低く太い声で淡々と説明をした平井が、手にしていた書類をデスクに置いて佐智子に向いた。
「篠田さん、私ができる限りのことをしていきます。篠田さんにしていただきたいことは、気持ちをしっかり持つこと。治すんだという意思を強く持っていただくことです」
その時佐智子は、平井に感じた信頼感とともに、自分の体の中で起きている病状の厳しさをあらためて感じ取った。
 
 家について、佐智子はすぐに今買って来た物の整理をし、和雄はテーブルについた。がんを患っていることが明らかになった当の本人より、その事実を聞かされた方が、はるかに大きなショックを受けていた。
 自分もがんで妻もがん、そんな夫婦は世の中に一体どれくらいの数いるというのか。その中で片方は早期発見で完治、片方はステージⅢという夫婦は何組いるのか。それでその片方が・・・。和雄は次に病院に行った時、聞いてもしょうがないことを次々と繰り出して医師に食ってかかり、ついには怒りを爆発させてしまう自分を想像した。
 それにしても、夫婦で、がんになるなんて。一体どうして、こんなことが・・・。頭の中で繰り返される自問に、和雄は何度も首を横に振った。
 佐智子は、テーブルに肘を乗せ考え込む和雄を横目にキッチンに立ち、食事作りの準備を始めた。


 翌週、三月も半ば過ぎだというのに微かに雪がちらつく寒さの中、佐智子は入院して、昼前にはもう病院のベッドについていた。
 「うまくいかないわね」
佐智子はベッド横のスツールに座る和雄の顔を見た。
「あなたが良くなったと思ったら」
和雄は少し長くなった自分の指の爪を見て少し黙った後、顔を上げおもむろに口を開いた。そこで出る言葉より先に佐智子が言葉を続けた。
「今度は私が悪くなった」
和雄が腕を組んで、体を前後に揺らしながら言った。
「治すしかないだろ」
「どうやって?お酒をやめるとか。食事に気をつけるとか?」
「それはできないな。酒も飲んでないし、食事もとっくに気をつけてる」
「しょうがないのよ、がんになることぐらい。世の中二人に一人ぐらいの割合でなってるっていうんだから。実際、あなたもなった。それで私も。まあ、あなたのは軽くて済んで、こっちのは、ちょっと進んでるってこと」
「だから治すしかないだろうって」
「そうね。担当の平井先生も、とてもいい先生だし」
「そうか。よかったな。信頼できるのが何よりだ」
「うん、でも・・・」
佐智子が言葉を止めた。和雄が聞いた。
「でも、何だ」
「良くならなくても、しょうがないことだからね」
和雄が背筋を伸ばして言った。
「まだ何も始めていないのに、何言ってる」
「あなたが良くなっただけ、いいのよ」
「何言ってんだ。男女平等だ、がんばれ」
「男女平等?よく分かんないけど・・・」
和雄のそぐわない言葉に佐智子は少しだけ笑った。

 翌日は細かな検査が行われ、その次の日には担当医平井から症状とその対策の詳しい説明があった。
「病期はステージⅢ、膵臓の中の膵管細胞に腫瘍、がんがあり、膵臓の尾部、後ろ半分を切除する必要があります。その際に隣接する脾臓も摘出します。ただ幸いにも膵臓頭部ではないので、十二指腸や胆のうの切除はありません。問題は、がんは現状他の臓器へ転移は見られませんが、近くの腹腔動脈など主要な血管へ広がっている可能性があります。治療はこの手術による尾部切除のみで終わらせず、術後に放射線療法、化学療法も行っていく方針です」
「膵臓を半分切って、放射線、抗がん剤ということですか」
和雄が説明から懸命に聞き取ったことを、思い切り短くして言った。
「そうですね。理解はそれで結構です。切除手術をして、放射線治療、それから抗がん剤で治療していきます」
「しかし、どうして今まで痛みも何もなくって・・・」
和雄が首をひねった。
「膵臓のがんは症状が出にくいんです。全く出ないケースもあるくらいです。それに他の臓器との関わりもあって、難しいがんではありますね」
 その後、切除可能境界という用語が平井から示された。がんを切って治るか治らないかの境にあるという病状がこの難しい字面から感じ取れた。
 説明を終えた平井が佐智子を見て言った。
「篠田さん、私と私のスタッフが出来る限りの、最善を尽くします。篠田さんも、あらためて、このがんを治すという意志、気力をしっかり持ってください」
「分かりました。よろしくお願いします」
佐智子は信頼を寄せる平井の力強い言葉に、静かに返答し、頭を下げた。和雄は腕組みを解いて手を膝にやり、平井に向かって佐智子よりも深く頭を下げた。

 ドアを開けた結衣が、半分開かれたカーテンの奥にスツールに座っている和雄を見つけ、入って来た。そしてベッドの佐智子を見るなり、結衣は小さくしたつもりの大きな声で呼んだ。
「さっちゃん!」
結衣を見た佐智子が首を横に振って言った。
「ああ、結衣ちゃん、わざわざ、ごめんね」
「何言ってんの、もう!和おじからの電話で写真の仕事のことかと思ったら、何よ、いきなり、さっちゃんが入院って。もう、何でもっと前に言ってくれないの?検査するって時に言ってよ」
佐智子が結衣に声に気をつけるように手で合図を送ると、結衣は肩をすくめた。
「いや、悪かった」
和雄がスツールから立ち上がり言った。
「もうさ、和おじが良くなって、どうして次にさっちゃんが悪くなるの?」
「それは偶然よ」
「偶然?」
「だって、ポリープなんて移るものでもないから」
「それはそうだけど、何も夫婦で続けて・・・」
「言ってくれるわね」
「悪いものじゃものじゃないらしいし、大丈夫だって」
和雄が、結衣に座るように、スツールを向けながら言った。
「大丈夫ってさ・・・」
結衣の表情が強張った。
「心配かけて、ごめんね」
佐智子は結衣に謝った。
「そんな・・・」
結衣の声が震えた。
「何かさ」
「うん?」
「いや、私、またさっちゃんに相談しようと思っていて・・・。何か私ってさ、自分のことばっかりで・・・。でもさっちゃんに何かあったら、私・・・」
結衣の目の端に涙が浮かんだ。
「何言ってんの。今は自分のこと、考える時でしょ」
佐智子がたしなめるように言った。結衣は少し鼻をすすった。
「ごめんなさい。これじゃ逆だよね、心配されちゃって」
「結衣ちゃん」
「うん?」
「最後は自分だから。私は今、自分のことを何とかする。結衣ちゃんも、自分のことは結衣ちゃんが、何とかするの」
「分かった」
佐智子の言葉に、結衣は息を吐いて頷いた。

 部屋を出た結衣の後に和雄が続く。
「加奈ちゃん、お母さんからも淳さんと来るって連絡があった。面倒かけてすまない」
「いいの。妹なんだから当然。それより」
結衣が振り向き、うんと小さな声で和雄に聞いた。
「膵臓の腫瘍って、どうなの?」
「いや、良性だっていうから手術で取り除けば」
「取り除けば、大丈夫なの?」
和雄が結衣の顔を見て、ゆっくり頷き言った。
「大丈夫だ」
「ならいいけど」
結衣がエレベーターの前に立ってボタンを押す。和雄が階の表示を見ながら言った。
「聞いたよ。ニューヨークの話」
「ああ、それは・・・、考える。自分で考えるから、大丈夫。ごめんね、逆に心配してもらって。じゃ、また来るね。さっちゃん、くれぐれも大事に」
「すまんな」
エレベータに乗った結衣が手を上げた。和雄が小さく頷くと、左右のドアが和雄の顔の前で閉じた。

 
 外は三、四日前まで続いていた厳しい寒さから打って変わって気温が上がり、桜の開花も始まった。
 和雄は家の近くの古石場図書館に寄り、医学のコーナーでがん関連の本を探し膵臓がんについて調べた。
〝膵臓は消化を助ける膵液という酵素を作っていて、血糖値のホルモン濃度の調節を行う臓器だが、胃の後ろ側という体の奥にあるため診察が難しい。〟
〝膵臓がんは症状が出ないことでも知られており、症状が出た時には、相当の進行状態ということが多く、リンパへの浸潤もあって転移も多く見受けられる。〟
〝膵臓がんは女性が患うがんの死亡者数第3位であり、五年後の生存率が7・5%と一番低いがんである。〟
 統計は2015年調べとあった。和雄は、この数字から何をどう考えればいいのか分からなくなった。

 和雄は図書館を出て近くの公園に寄った。ベンチに腰掛けると、和雄の周りに鳩が二羽、三羽と近寄って来た。餌はないぞと思いながら見ると、和雄はその中の一羽の歩き方が変なことに気づいた。その鳩の脚の片方がただの棒のようになっていて、その先の足、指や爪の部分がなかった。その鳩は歩くたびに体を傾かせながら、近寄って来た。何かの事故で失ったのだろうか。他の鳩は辺りを歩き回っていたが、その鳩は立ち止まって、首を前に突き出し、左右に傾げ、和雄の手からなにか食べるものが落ちるのを待っていた。
 和雄はポケットからデジカメを出してその鳩に向けた。片足のない鳩は和雄の手のアクションにいよいよ餌だと期待して一歩一歩体を傾かせながら近づいて来た。他の鳩も気づき、一斉に何羽も寄って来た。和雄は体を低くしてその鳩をモニター画面に入れ、すばやくシャッターを押した。
 その鳩は目の前の人が手にしたものが餌ではないことが分かったのか、くるりと向こうを向いた。やって来た他の鳩たちもすぐに背を向け歩いていった。片足の鳩も一歩一歩、体をいちいち傾けながら歩いていった。
 和雄はモニター画面の写した鳩を見て思った。この鳩は自分の足のことを分かっているだろうか。それが不便だと感じているだろうか。他の鳩のようにうまく生きていけないと、辛く感じているだろうか・・・。
 和雄はデジカメの電源を切って立ち上がると、向こうで鳩の群れが一斉に飛び立っていった。


 結衣は聡にいつもはメセージを送るところ、滅多に掛けない電話を掛け、佐智子の話をした。
「さっちゃんが入院した」
「え?」
「膵臓にポリープだって」
「膵臓・・・」
「こんなことってある?こないだまで和おじががんで、今度はさっちゃんだなんて」
「ああ・・・。で、病状は?」
「大丈夫だって。良性だっていうの。和おじが」
「そう。それはよかった。がんじゃないんだね?」
「うん・・・」
「こういうと何だけど、がんになるのは二人に一人って言われているくらい、思っている以上に確率は高いんだ。だから夫婦同士でも、有り得ることだと思う。でも、がんじゃないんだから・・・、どうした?」
「いや・・・」
「何」
「なんか、ほんとに、がんじゃないのかなって」
「疑ってるの?」
「疑ってるっていうか、勘。私の。聞いた瞬間に、がんだって思った。でもそれを、すぐに自分でそうじゃないんだって。ただのポリープで、良性だって、言われた通りを信じようとしてる」
聡は言葉を返さず黙っていた。
「悪いことを思っちゃって、頭がいっぱいになるのいやだから、そうしてる」
結衣が続けた。
「不摂生してる人がなるのは分かるけど、さっちゃんは・・・」
「人間の体は、自分の意思の及ばないところで生かされていて、いろんな不具合、エラーが起きることがあるんだ」
聡が言った。
「エラーが、起きる?エラーって・・・」
「手術は、いつ?」
言葉尻を捕まえて何か言いだそうとする結衣を制するように、聡が聞いた。結衣はうなだれ、ため息をついた。


 天井のパネルの数は、縦四枚、横四枚の十六枚。蛍光灯は、二本一組で縦に二組、横に二組。数を数えた佐智子は電動ベッドの背を起こす。いい角度になるのを待ってスイッチを止め、部屋を見回す。
 患者はドア側のベッドにいる自分を入れて全部で四人。入り口側の向かいのベッドに目をやる。鼻に管を入れている白髪頭の痩せた男性は、自前の水色のパジャマを着てベッドの上で胡座をかき、前に新聞を広げて読んでいる。窓側の斜め前の頭の禿げた男性は寝ていて、隣の建物の壁と窓しか見えない窓外に顔を向けているが、目を開けていいるかどうかは佐智子からは見えない。横隣は高齢の女性であることは分かっているが、いつもカーテンで遮られていて開くことがあまりない。時折、堪えようとしながら少し長く続く咳が聞こえてくるぐらいだ。みんな顔を合わせることがあっても黙礼程度で話は交わさない。でもそれぞれ何らかの病気でここにいて、お互い様という意識があることは感じられる。
 一通り周りを見終わると、佐智子は自分の棚の上にある文庫本に目をやる。読む気にはなれないので横に置いた旅行用の小さな時計を見るが、長針短針が示す時間より盤の数字を見ているうちに自分のことに頭が行く。
 今、このお腹の中の膵臓という臓器が、がんに侵されている。今まで生きてきて、この膵臓のことを意識したことなどないし、どうしてこうなったのかも分からない。がんの要因だと言われていることを考えても、親とその親にも、親戚にも患った人はいないので遺伝ではないだろう。酒や喫煙の習慣ももちろんないし、肉の食べ過ぎとか偏食をし続けて来たということも絶対にない。このがんは多分膵臓が偶然に何らかの変調を起こして発生してしまったもので、予見も出来ず、運が悪い結果としか言いようがないもの、のはずだ。自分に落ち度はなかった。だから自分に責任はない・・・。頭の中の考えは、最後は責任がないという堂々巡りになってしまい、佐智子は、自分の体が悪い状態になっていることより、この頭の中の方がよっぽど悪いんじゃないかと思った。
 とにかく、がんの原因は何かと探ろうとして考えたって、それについてどんなに自分を問い詰めてみたって、体の中にあらわれたもの、事実がこうなのだから、もうどうしようもない。佐智子はそう吹っ切ることにして、これから先を考えることにした。
 私のがんは手術で切り取られ、それで無くなるのか。それとも、切り取られてもなんらかの形で残ってしまうものなのか。あるいはもうどこか他に転移していて、今は静かに潜んでいて、時間が経ったところでまた現れるのか。医学はこのがんを治せるのか。それとも治療しきれずにがんははびこるのか。私は、これから、どうなるのか・・・。
 佐智子は自分の手を見た。指は節くれ立って爪は黒ずみ、手の甲にはしわとしみがあって、手のひらも潤いがなくかさかさしている。たしかに、これだけ生きて来れば体も衰えガタもくるのは当然だ。そうして人は死に向かって生きている。どんな人でも最後は死ぬことになっていて、そのお呼びがかかるのが人によって早いか遅いかだ。 
 自分も気づけば六十五歳、これまで随分生きて来た。何があったかは思い出そうとすればできるが、あれは本当に良かったとか、これは心底悔やんだとか、ことさら感慨深げに思い出すことはない。つまらない人生だったというわけじゃない。つつがなく平凡な人生を送ってこれた、ということだ。
 親は父母共にすでに他界している。父は六十過ぎに心筋梗塞で、母はその一年後、父の後を追うようにくも膜下で亡くなった。二人とも突然のことで、入院して闘病ということもなかったし、生きながらえて要介護の生活ということもなく、そういうことでは良かったと思う。
 和雄の親も他界していて家族の老後の問題は一切なく、あるのは自分たち夫婦のことだけで、それがまず和雄にがんとなって起きたが、早期発見の治療で事なきを得ることができた。そして今度は、自分だ。
 佐智子は自分の生死について考える。自分が何かやりたいことがあるなら、この先もまだ生きて、やった方がいい。やりたいことがなくても、いろんなものをもっと見たり聞いたり感じたりしたいというなら、それもいい。でもそういうことがないのなら、何もせずにただ生きながらえてもしょうがない。そこには意味のない時間がただあるだけだろう。佐智子は、自分は一体どうなんだろうかと思った。
 このがんでもうすぐ死ぬとなると、和雄のそばから早々といなくなるのはどうか、と佐智子は思った。和雄とは三十五年になろうとする年月をともに生きて来た。和雄は結局がんにはならなかったが、これからどうなるかは分からない。だからもう少し一緒にいてあげなくてはという気持ちにもなる。私がこうなってしまって、あの人は今夜一人で何を食べるのか。私がいなくなったら、あの人はこれから何を食べて生きていくのか。食べ物に気をつけなければ、今度こそ、がんになってしまうんじゃないか・・・。
 結衣がいる、と佐智子は思った。あの子のことだから、きっと私が死んだ後も和雄の世話を焼いてくれるに違いない。でも結衣の人生はまだこれからだ。叔父の面倒などで、自分のことをおろそかにして欲しくない。あの子には可能性がある。人生を楽しむセンスがある。だから結衣には、自由に、思うままに、やっていって欲しい。
 和雄には何を食べるように言おうか。そうだ、明日ブロッコリーの茹で方を教えよう。ああ、その前にいいブロッコリーの選び方を教えなくちゃいけない、それから切り方も教えなくちゃ。他には・・・。
 そんなことを思いながら、佐智子は眠りに落ちていった。



     13

 「ああ、永島さん!和雄さんから連絡があってね」
永島が店に入ってくるなり、女将が高い声を上げた。六時を回ったばかりの「川路」に客はまだいなかった。
「篠田?どうした?」
「奥さんが入院したって」
「ええ?今度は奥さんか!で、どこが悪いって?」
「腸にポリープがあって、それを取るんですって。手術するけど大したことはないから心配しないように、みんなに伝えておいてくれって」
女将がチューハイを作りながら言った。
「それは幸いだけど、がんじゃないだろうな」
「違うから、心配するなって」
「そうか。しかし篠田の奥さん、あいつの病気で気を使い過ぎちゃったんじゃないか」
「きちんとした奥さんらしいわよ」
「そりゃ、なおさらだ」
置かれたチューハイをごくりと飲んだ永島が、ふうと息を吐いて言った。
「またちょっと顔出せないけど、よろしくって言ってた」
「今度は篠田が付き添いか。この話、林先生には?」
「ううん、まだ。永島さんが最初」
「先生、この話を聞くと、気にするぞ。奥さん、大腸がんで亡くなってるんだから」
女将が顔を永島の方に突き出して聞いた。
「うん、言わないほうがいい?」
「いや、それも何だかな。「川路」には知らせてあったって、後から知ったら」
「うーん」
女将が眉をしかめ首を捻った。
「鎌田は?」
「そうそう、鎌ちゃん、この間も随分飲んじゃって大変だったんだから。仕事がうまくいってないらしいのよ。ちょっと永島さん、話を聞いてあげて」
「聞いてあげてって・・・。俺だって、今娘が離婚したいなんて言い出して、大変なんだ」
「ええ?離婚!?可愛いお孫さん、どうするの?」
「そうなんだ。もうさ、娘になんて言ってやればいいんだ?それで女将に相談に・・・」
その時、ガラリと戸が開き、暖簾をくぐって禿げた頭を光らせた赤ら顔の鎌田が入って来た。
「ああ、永島さん!どうもっす!」

 

 「家の裏の公園に寄ったら、桜、ちらほら咲いてた」
 和雄がデジカメのモニター画面を佐智子に見せた。そこには 膨れた桜の芽がアップで写っていた。
「何だか、毎年早くなってない?開花宣言」
モニターに目をやった佐智子が言った。
「そうだな、二十日過ぎるとって感じだな」
「そんなに好きじゃないけど」
佐智子がモニターから目を外して言った。
「何が」
「桜が。何だか、ただ派手で」
「ああ、でも咲かないと春って感じ、しないだろ」
「そう?」
佐智子が和雄の顔を見て、聞いた。
「昨日の夜、何食べた?」
「え、昨日は、ラーメン。駅前の並びの」
「食べるならうどんかそばにして」
「そんな、いいだろ、ラーメンくらい」
「気をつけてって言ってるの」
和雄がはいはいと頷きながら座り直した。そして両手を膝に置き、少し間を置いてから、おもむろに口を開いた。
「断ろうかと思って」
「何を」
「うん?写真の仕事。新聞の」
「どうして」
「うーん。何か、考えたら、そんなことしてていいのかって・・・」
「何それ。私が、病気になったから?」
「いや」
佐智子が少し首を振り、和雄を見据えた。
「ねえ。あなたががんだってわかった時、私は、どうした?やらなきゃいけないこと、やめた?掃除したり洗濯したり、ご飯作ったりするの、やめた?私は、いろんなこと、やる気が失せた?」
和雄は返答をしなかった。佐智子が続けた。
「引き受ける前にずいぶん考えたじゃない。結衣ちゃんに相談して、それで、やるって決めて。その時、引き受けたからには責任があるって言ってたでしょ。あの言葉は何だったの?あなたの写真がいいって仕事を頼んできた新聞社の人とか、撮ってもいいですよって、協力してくれるって言ってくれた子ども、歩くんとお父さんとか、みんなに、気が変わったんで、はい、やめますって言うの?ちょっとやる気が出なくなっちゃったんですって言うの?それこそカメラのプロとか、素人とか言う前に、人として礼に欠ける、人としてどうかしてるっていうことじゃない」
「・・・」
「あなたが病気でも、私が病気でも、一緒なんだから。お互い一緒に生きてる責任、あるんだから」
「ああ」
和雄がやっと声を出した。
「ちゃんとやってよ」
佐智子は強い口調で和雄に念を押した。
 和雄は顔を上げ、息を吐き出してから言った。
「分かった」

 佐智子の手術は、週明けに行われた。


 手術の翌日、病室に妹の加奈子夫婦が見舞いに来た。加奈子はベッドの佐智子を見るなり、悪いところがあるなんて言っていなかった、どうしてこんなことにと非難めいた物言いをした。そうかと思うと次には、手術はどうだったの大丈夫なのと泣きそうな顔で矢継ぎ早に佐智子に質問を浴びせた。和雄は実の姉妹のやり取りに入ることができず、ただそこに立っているしかなかった。
 やっとできた間で、和雄が手術は順調に運びポリープは取り除かれうまくいったことを伝えると、加奈子は、もう、と言いながら手にしたハンカチで鼻を押さえた。加奈子の夫の淳はほとんど言葉を出せず仕舞いで、帰り際に大事にしてくださいと言っただけだった。
 とにかく大丈夫だから心配しないで、という言葉だけで妹夫婦を帰した佐智子と和雄は、今後の治療について一切伝えないよう神経を使ったことで結構疲れ、しばらく言葉が出なかった。
 和雄がトイレに行くと言って腰をあげると、佐智子は、まったく嫌になっちゃう、と小声で言った。 


 和雄は橋の上で足を止めた。目には大横川沿いの満開の桜が広がっていた。毎年のこととはいえ、川の両側に立ち上がった護岸コンクリートの上が、ずうっと薄桃色一色で埋め尽くされているのを目の当たりにすると、これはやはりなかなかの景色だと思った。
 しかし和雄の脳裡に、今同時に起きている現実が暗い影を落とした。自分はがんが治って、こうしてここに来て見ることが出来たが、今度は佐智子ががんになって、この桜を目にすることができなくなってしまった・・・。桜はすぐにも散り、それから緑の葉となるが、佐智子は、佐智子のがんは一体どうなるのか・・・。いや。とにかく、手術は無事終えた。次は化学療法を始める。それでがんは治って、佐智子は家に帰れるようになるはずだ。和雄は、そう信じようと強く思い直した。
 後ろの方からエンジン音が聞こえてきて、和雄が振り向くと、桜の花道のようになった川の向こうから一艘の小さな船がやって来た。船は和雄が立っている橋の下をくぐり、ハの字の波を立てながら、川の向こうへと進んでいった。
 和雄が気づいてデジカメを取り出し、船にレンズを向けた時には、もう船は小さくなっていた。和雄はシャッターを押さなかった。そこで桜だけでもと思い、和雄はあらためてデジカメのモニター画面を見たが、そこに映った桜はよくある風景写真のようにしか見えなかった。この目で直に見るといいのに、画面に入ると、どうしてだろう。なぜだか分からないが、最初に撮ろうとした船がもう遠くへ行ってしまったのではしょうがないと思い直し、和雄は桜に向けたデジカメを下ろし、電源を切った。
 そして穏やかな春の日差しに顔を上げた和雄は、息をゆっくり吐き出し家へと歩き出した。


 明るい青空の下、桜の花びらが時折強く吹く風に舞い上がった。八幡宮裏の小学校の入学式を終え、新入学の一年生が親とともに校舎から出てきた。どの子が歩か、和雄はすぐに分かった。一緒に出てきたお父さん、松尾が松葉杖をついていたからだった。松尾はリハビリが進んで車椅子が松葉杖に変わっていた。
 和雄は横にいる宮田に、行きましょうかと声を掛けた。宮田は新聞社の竹内から紹介されたベテランのフリーライターだった。
 和雄と宮田は校庭の端を歩き二人のところへ行った。
「どうも。こちら、ライターの宮田さんです。どうでした、式は」
「式の途中でトイレに行ってましたよ。なあ歩」
宮田に礼をした松尾が、早速情報を漏らしてくれた。
「言わないで」
「歩くん、今、聞いちゃった!」
宮田が歩に、大げさに言った。
「えー、こまるー」
「大丈夫だよ、宮田さんは記事を書く人だけど、いい人だから、このことは書かないって」
和雄の言葉に宮田は大きく頷き笑った。
「さて、どこで撮ろうかな」
和雄は校門の方を見た。まだぞろぞろと新入生の親子が出てきていた。和雄は校舎の方を見渡した。
「うーん、校庭にしましょうか」
 歩と松葉杖の松尾が緑色に白い線が引かれたトラックを横切って立った。和雄が校舎がバックになるよう二人に立ち位置と向きを指示した。歩が背中のランドセルを気にして何度も背負い直す。
「歩くん、どう、ランドセル」
「背負う練習したんだけど」
「そうか、とっても似合ってるよ!ねえ、お父さん!」
「ありがとうございます!じゃ歩、撮ってもらおう!」
お父さんの声に安心して、歩が気をつけをした。
「歩くん、入学おめでとう!」
そう声を掛けて、和雄がデジカメのシャッターを押した。

 学校から通りに出たところにあるバーガーショップで、宮田が二十分程度のインタビューを行った。
 事前に和雄は二人の話をほとんど宮田に話していたが、宮田は松尾に八幡様と関わりをあらためて聞き出し、地元の今後について意見を聞いた。亡くなった奥様のことについてはほとんど聞かず、質問が初めての祭りを迎える歩のことに終始した。宮田は最後に歩に神輿を担ぐ気持ちを聞いた。 
 
 インタビューを終えた後、和雄は松尾に誘われて御宅に寄った。歩は、帰るなりランドセルを下ろして外へ遊びに出ていた。
「妻に報告です」
松尾はそう言って、和雄に頼んで自分のスマホに撮ってもらった歩との写真を、妻の写真の前に持っていった。
「おい、入学式、やってきたぞ。ランドセルちゃんと背負ってるだろ。練習の甲斐があったよ」
振り向いた松尾はギブスをした足を床にコツコツいわせながらキッチンの方へ歩いた。
「今、お茶入れますから」
「お構いなく。腰の方はいいんですか」
「これがリハビリの効果で、いいんですよ。こうも早く治るとは、自分でも思ってなかったです」
「若さの力ですね」
「そうか、それですかね。ただ、それは妻の場合は裏目に出ました」
「え?それはどうして・・・」
松尾の言葉の意味が和雄には分からなかった。
「がんも、若いと進行が早いと、医者に言われました」
「そうだったんですか。すみません・・・」
察することができなかった和雄が頭を下げた。
「ああ、気にしないでください。事実、そうでしたから」
松尾が和雄の前にお茶を置くと、向かいにまわりテーブルの横にギブスの足を出して座った。
「すみません。松尾さん・・・、実は」
和雄が顔を上げて言った。
「はい?」
「私もがんだったんです」
「え・・・?」
松尾の驚きの声が漏れた。
「前立腺がんでした。去年の秋でしたが早期発見だったんで、放射線治療で治りました。それもこの一月で、お会いするちょっと前に」
「そうだったんですか・・・。でも、よかったですね。完治されて」
「ええ。それで、今度は、妻ががんになってしまいました」
「ええ?」
「膵臓がんです」」
「それは・・・」
松尾は言葉を失った。
「松尾さんの奥さんことを伺ったので、言い出せませんでした」
松尾は首を横に振った。
「病状はどうなんですか」
「ステージⅢです。 先日手術をしました。まだ治るとも、危ないとも、言われていません」
「そうでしたか・・・」
「松尾さん、私が歩くんの写真を撮らせてほしいとお願いしたところから、私は松尾さんのご家族のプライバシーに踏み込むことになってしまいました」
「そんな」
「私の方も、自分のこと、家族のことをちゃんと言わなければと思いました。こうしてこっちの勝手をお願いするばかりでは、申し訳が立たない。ですから・・・。申し上げるのが遅くなり、本当にすみませんでした」
頭を下げる和雄に、松尾が言った。
「いえ、篠田さん、大丈夫です。お気持ちは、十分分かります。俺も最初お話いただいて、ためらいはありました。でも、こう言っては何ですが、篠田さんは写真のプロではないとおっしゃいました。それは利害、打算がないということです。それに何と言っても、八幡様の側に住む者同士ですから。あんな事件がありましたけど、しでかしたのは人間です」
松尾が膝元に手を下ろして続けた。
「取材をお受けしたのは、考えた末です。妻はこの世からいなくなりましたが、地元の人、それから、がんで大切な人をなくした人に、俺たち、ここで頑張って生きてるぞっていうのを知ってもらうのも、いいだろうって、思ったんです」
和雄は深く頷いた。
「俺は信じていました。最後まで」
「最後まで」
和雄は松尾の表情が柔らかくなったのを感じながら、松尾の言葉を繰り返した。
「はい。亡くなる、最後まで、信じていました。良くなるぞ。これから麻美のがんは消えて行くんだ、治っていくんだって。何でしょうね、信じるって。麻美のためにも、歩のためにも、俺にできることは信じることだったんです。必ず治る、絶対治る、奇跡は起きるって。本当に、最後の最後まで」
「松尾さん」
「篠田さん、悪い方に考えないでください。そんな考えは、本当に何にもなりません。奥さんは必ず治りますよ」
「ありがとうございます。そう言っていただいて・・・」
和雄は深々と頭を下げた。
松尾が笑顔で言った。
「大丈夫ですよ、篠田さん」



      14

 結衣がダイニングのテーブルに置いた紙袋の中からベーグルサンドを二つ出し、持った両手を上げた。
「和おじ、ツナとタマゴ、どっち食べたい?」
「じゃあ、ツナ」
和雄はラップに包まれた左右のベーグルを見て、ツナの方を選んだ。
「オーケー、野菜たっぷり挟んであるから。今お茶入れる。紅茶でいいですか」
「ああ。何だか、お店にいるみたいだな」
「当店は扱う食材もこだわっていますから、ヘルシーですよ。ああ、和おじ!あとで、ブロッコリー茹でる練習ね」
「それはいいよ」
「いいよじゃないの。和おじのこと頼むわって、さっちゃんに言われてるんだから。こうしてたまに家に寄って、色々チェックしないと」
「まったく、心配するのはどっちなんだって・・・」
和雄が言いかけた時、和雄のケータイが鳴った。掛けてきたのは松尾だった。
「篠田さん、松尾です」
「ああ、松尾さん、先日はありがとうございました」
「こちらこそ。篠田さん、あれから考えたんですが」
「取材の、ことですか」
「いえ。あの、今度奥様のところへ、お見舞いに伺ってもいいですか」
「はい?」
「妻をがんで亡くした者が伺うのはどうかって、最初は思ったんですが」
「いえいえ、そんなことは・・・」
「篠田さんと出会って、歩を撮ってもらいました。それで八幡さまの取材を受けることになって、その八幡さまは今年、子ども祭りで、歩が初めて担ぐところを撮ってもらうことになりました。考えてみたら、ああ、これは縁なんだって思いました」
「はい、そうですね!」
「人は今結構な確率でがんになります。うちの妻もなりました。篠田さんもなりました。これから俺もなるかもしれません。それで死ぬとか死なないとかは結果であって、がんになっても人は生きてることをいきなりやめることはできません。先日は生意気にも言わせていただきましたが、妻は、がんになっても、俺と一緒に、歩のために生きられるだけ精一杯生きようって思っていました。だからと言っては何ですが、奥さんにも、信じていてほしいんです。今、篠田さんと一緒に生きていて、これからも生きていくんだってことを」
「松尾さん、ありがとうございます」
和雄は深く頷いた。
「すみません、篠田さん、またエラそうなことを言ってますが」
「とんでもない」
「よろしければ、歩と伺います」
 和雄は電話を切り、横にいる結衣に言った。
「今、取材させてもらってる、松尾さんだ」
「ああ、歩くんのお父さんね」
「松尾さん、見舞いに来てくれるって言うんだ」
「いい人ね。奥さんで、病気の辛さ分かっているからだと思う。会ってみたいな」
「じゃあ、松尾さんが明後日来るから、結衣はどうだ」
「大丈夫だと思う」
結衣はスマホを手にしてスケジュールを確認しようとした。
そこにちょうどラインが入った。リトルムーンの店長からだった。
〟渡米の件、向こうの受け入れの都合で、結論は4月末に欲しいとのこと。詳しくは電話で〟
もう一つのスケジュールが迫り、結論を出さなければいけないことに、結衣は、ふうと、ため息をついた。


 松尾に手を添えられて、歩が病室に入ってきた。和雄がこっちにと歩に手招きする。ベッドで背中を起こしている佐智子に松尾があいさつをした。
「こんにちは」
「こんにちは」
佐智子が笑顔で応えた。
「松尾と申します。歩です。ほら歩、ご挨拶しなさい」
「こんにちは」
「こんにちは」
歩のぎこちない挨拶にも佐智子は笑顔で挨拶を返した。
「歩くんには写真撮らせてもらって、本当に世話になってるんだ」
和雄が歩を見て、佐智子に言った。
「ありがとう、歩くん。おじいちゃんの願いごと、聞いてくれて」
「願いごとって?」
歩がちょっと首をかしげて言った。
「入学式、撮らせてって言ったお願いです。歩くんはいいよって聞いてくれました。それとこれからも八幡さまのお祭りまで、写真を撮らせてもらうことをお願いしました、歩くんはこれもいいよって言ってくれました」
和雄が言うと、歩が笑顔になった。
「なんだ、願いごとって写真のことかあ。もっとちがうことかと思った」
「大丈夫よ、歩くん。このおじいちゃんはね、写真が撮りたい、ただそれだけなの」
佐智子の一言に和雄が頷いた。
 歩が佐智子に聞いた。
「病気は大丈夫?」
「うん、大丈夫よ」
佐智子がゆっくり頷いた。
「いつ、治るの」
「うーん、まだわからないけど」
「来週?」
「そうね、来週かもしれない」
「ちょっと残念だね」
「何が?」
「桜。もうないかもしれない。ねえパパ」
「うーん、緑の葉っぱが出てきたからなあ」
「あ、桜ね。いいの、いいの。また来年も咲くから」
「そっか、来年か」
「それより歩くん、夏になったら八幡さまのお祭りじゃない」
「うん。おみこし、かつぐよ」
「すごいねー」
「見にくれば」
「そうね、行かなくちゃね」
佐智子が微笑むと、歩は松尾の足に抱きついた。

 ドアが開いて、結衣が顔をのぞかせた。
「こんにちは」
「おう、結衣ちゃん」
和雄が結衣を呼ぶ。
「松尾さん、姪の結衣です。こちら松尾さん、歩くん」
和雄の紹介に、すぐに結衣が名乗って松尾に礼をした。
「結衣です。和おじがお世話になってます」
「こちらこそ」
松尾と笑顔を交わして、結衣は歩の横にしゃがんだ。
「君が歩くんかあ。結衣です。この人の、妹の、娘です。分かる?だからこの人は和おじっていうの」
「和おじ?和おじっていうの?」
歩が和雄に聞き直した。
「そうだよ、和おじっていうんだ」
「和おじ、和おじいちゃん!」
歩が面白がって呼んだ。
「はい、和おじいちゃんと、結衣でーす!よろしくね!」
結衣は歩にあらためて挨拶して、佐智子に言った。
「さっちゃん、歩くんと話した?」
「うん、もう話した」
歩が結衣に聞いた。
「さっちゃん?」
「ああ、そう。私のおばさん、さっちゃんだよ」
歩はそう聞いて考えたようだが、いい呼び方が浮かばなかったのか松尾の顔を見て体を寄せた。歩を見ていた佐智子が言った。
「歩くん、おばあちゃんでいいからね」
結衣が松尾に言った。
「じゃ松尾さん、歩くん借りてもいいですか。ちょっと二人で病院を探検してきます」
「探検?」
歩が目を大きくして言った。
「歩、結衣さんと探検、行ってこい」
松尾が歩の頭に手を乗せて言った。
「そ、探検!行こう、歩くん!」
そう言いながら結衣は歩の小さな背中に手をやって、たんけん、たんけんと言いながらドアを開けて出ていった。

 二人が出て言った後、佐智子が言った。
「かわいい子」
「いやあ、あれで、きかないところがあるんです」
すぐに松尾が言った。
「元気でいいですよ。でもお父様の方は、大丈夫ですか?」
佐智子が松尾の足に目をやって言った。
「あ、もうだいぶいいです。そろそろギブスも取れますから」
「それはよかった。あの、ところで、この人が無理言ってすみませんでした」
佐智子はあらためて松尾に頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ篠田さんに撮ってもらって、よかったです」
「ただの素人なんですけど」
佐智子の目線に和雄が頭を下げた。
「ああ、いえ。祭りに関わることなんで、うちも参加と言いますか、協力できるものならと思ったんです」
「お神輿を」
「はい、祖父の代から」
「次は、歩くん」
「はい、この夏の子ども祭りで担がせます。妻も喜ぶと思います」
「伺いました」
「ずっと一緒にいるものと、思ってたんですが」
松尾はそう言った後、小さく頷き少し間を置いて言った。
「命は、与えられたものなんだなって、あらためて思いました」
佐智子は黙って松尾の言葉の続きを聞いた。
「みんな、生きていくのに色々あるけど、与えられた命を、精一杯生きる、ということかなと。ずっと八幡さまのそばにいながら、そう思えるようになるのに、ちょっと時間がかかりましたけど」
松尾が微笑んで佐智子に言った。
「病気のことは医者が診てくれます。だから考えなくていいです。もっというと、考えてもどうにもなりません。それより、もっといいことを思って、過ごしてください」
「本当にそうですね、ありがとうございます」
佐智子が松尾に頭を下げた。
「若いのが、エラそうに、すみません」
今度は松尾が佐智子に頭を下げた。
「そんなことありません」
「松尾さん、わざわざ来てくれて、本当に、ありがとうございます」
和雄が深々と頭を下げた。
「いえ、篠田さん、これもご縁ですから」
松尾は夫婦二人に笑顔で応えた。

 結衣が目線を下げて、一緒に歩く歩に言った。
「いやー病院は広いね、歩くん。ちょっと休もうか」
「うん、いいよ」
結衣はロビーのベンチシートを指差した。
「ね、そこに座ってて。飲み物買ってくる。何飲みたい?」
「うーん、クー!」
歩が顔を上げて言った。
「クーね。オッケー!」
 結衣がコンビニへ行くと、ロビーの長椅子に座った歩は背中のリュックを降ろし、〟じゆうちょう〟とある小さなノートを取り出した。歩はいつもそこに好きな絵を描いていて、まだ何も書いていないページを探してめくった。真っ白いページが出たところで、歩はペンケースから鉛筆を出して何を描くか考えた。
 結衣がジュースを手にして帰ってきた。
「はい、クーあったよ!あ、何か、書くの?」
歩がクーを一口飲んでから言った。
「うん、何か、動物の絵を描く」
「そうか、動物かあ」
ちょっと考えて結衣が歩に言った。
「ねえ、病気をなおす動物って、何がいい?」
結衣は歩の言葉にはっとした。
「病気をなおす、動物?」
「そう。何がいいかな」
「病気をなおす・・・」
考え出すとすぐ、結衣の頭にある動物が浮かんだ。
「そうだ、ラクダはどう?ラクダ知ってる?」
「知ってる」
「ラクダにしようよ」
「いいけど、どうして?」
「ラクダには、背中にコブがあるでしょ。あのコブが病気だと思って」
「病気?」
「そう、病気のコブの山。あの山を越えると、病気が治るの」
「へえ」
「病気の山を越えて、病気が治って、ラクだ、ラクダ!」
「ああ、そうか、ラクだ、ラクダ!」
歩はすぐにラクダを描こうとえんぴつを構えた。でもえんぴつは動かなかった。
「描けない。ちょっと、描いて」
「いいよ」
結衣はラクダを描き出した。大きな楕円の鼻の穴、口角を上げた口、黒く大きな目、頭からぐにゃりと曲がったs字の首、そしてコブの山を一つ、二つ、お尻からふさのついたシッポ、そして骨のような細い足が4本。かわいいラクダがすぐに現れた。
「あー、ラクダ!」
歩が目を見張った。
「はい、僕は、みんなの病気が治って、ラクダ、ラクダ、でーす!」
「ラクダ、でーす!」
歩が結衣の言い方を真似したので、結衣は笑った。
「ママにも描けばよかった」
歩が何気なく、そう言った。その一言に悲しそうな感じはなかった。でも結衣には歩の一言が響いた。結衣は、歩に何か言葉を掛けようかと思ったが、いい言葉は見つからなかった。その間に歩は立ち上がり、ふんふんと何かの歌を口ずさみながら小さなノートを閉じてリュックに入れた。
 結衣は階段を駆け上がる歩を追いながら、ある思いが湧いた。子どものそばで、絵が描けたら。歩のような子どもたちがいる中で、一緒になって、思う存分絵が描けたら・・・。結衣は、階段を上がって息が切れそうな胸の奥に、小さなあかりが灯ったように感じた。
 結衣は大勢の人が行き交う夜の恵比寿駅前の地上から、地下鉄日比谷線の階段を降りた。乗降客が多いのに改札前が狭いことにいつもの苛立ちを感じながら、ホームに立つと電車が来る表示がまだ点いていなかったので、結衣はスマホを取り出して聡にメッセージを送った。
〝まだ仕事かな?術後、順調だって〟
すぐに聡の吹き出しが返ってきた。
〝今大丈夫。よかった。一安心だね〟
〝うん、でも・・・〟
〝篠田さんは何て?〟
〝和おじは、大丈夫だって。そればっかり〟
〝そうか〟
〝和おじの撮った写真の子、歩くんが、お父さんと一緒に見舞いに来てくれて〟
〝そう。写真が撮り持つ縁だね〟
〝ほんとに!歩くん、絵を描いたら喜んでくれた〟
〝何の絵?〟
〝ラクダ〟
〝ラクダ?何で?〟
〝病気を治す動物〟
〝どうして?〟
〝ラクダ、ラクだ!病気が治って、楽だ!〟
〝なるほど〟
〝なるほどって!それで、私の描いたラクダを見て、歩くんが笑ったの!その時、久しぶりに絵っていいなあって思った。ただの落書きなんだけど〟
結衣が撮っておいたラクダの絵を送った。
〝うん、いいね!〟
〝でしょ!それでね、子どものそばで、絵が描けないかなって思ったんだ〟
 電車の音が聞こえた。聡の返しがある前に電車が着いてドアが開いた。人が降りた後、結衣はドアのすぐ横のスペースに乗り込んだ。ドアが閉まりスマホを見ると聡の吹き出しがあり、そこには勘のいい言葉があった。
〝それは幼稚園とか保育園で働くっていうこと?”
〝そうです!高校の時、絵を描くのしばらくやめてた時期があるんだけど〟
〝多感な時だから〟
〝結構マジで悩んでた。でも学園祭の時、迷子になって泣いてる小さな子どもがお母さんを待っている間、ちょっと絵を描いてあげたら、すっごくいい笑顔になったの。それでまた絵を描き始めたんだけど〟
〝歩くんの笑顔でよみがえった〟
〝その通り!保育士、今からなれるかな〟
〝まず免許。アルバイトしながらっていう手もあるだろうけど。でも大変な仕事なのに待遇が悪いって言われている。拘束時間とか給料安いとか〟
〝時間とお金・・・って、大変じゃん!〟
〝保育園に子ども行かせてる先輩がいるから、現場の声を聞いてみるよ〟
〝お得意のマーケットリサーチ!〟
〝出会いが、光をもたらした〟
聡の吹き出しの言葉に感心しながら、結衣は本当にそうだと思った。 
 目の前のドアが開き、次々と降りる客に結衣はスマホを胸元に寄せた。中目黒駅に着いたことが分かり最後に降りた結衣は、ホームの反対側に来ていた東横線の電車に乗り込んだ。


 八幡さまと歩くん、これを撮らないと始まらない。和雄は次の写真にと松尾に頼み、日曜日、歩に八幡さまに来てもらった。
 歩が境内右の方の坂道を上がってくると、そこらにいた鳩を追っかけて走り始めた。鳩は小さな敵の出現にも飛び立たずに、走って逃げ回った。和雄はデジカメを向けてみたが、楽しそうに見えても鳩を追っかけるのは記事にはならないなと思い、シャッターを押すのをやめた。
 和雄の横に松尾が来た。
「友だちと遊んだ方がいいと思うんですけど、いないんですよ」
和雄が、え?という顔をすると、松尾は言葉が足りないことに気づいて続けた。
「あ、友だちはいますよ。学校にも、学童にも。加えて平日は習い事だし、友達と一緒の時間はあるんです。でも子供たちだけの遊び時間というのが、全然ないんです」
和雄は松尾の言った意味が分かり頷いた。
「そうなんですか」
「週末はみんな親と一緒なんです。平日は夜しか会えませんから。だから、子供同士が日曜日神社で遊ぼうぜ、なんていうのはもう昔の話です」
「そうなんですか。なんだか、かわいそうですね」
「はい。本当にそう思います」
歩が和雄のところに来て、背中のリュックをおろしながら言った
「ねえ、見て」
歩はリュックから自由帳とあるノートを開いてめくり、絵の描いてあるページを和雄に見せた。そこには一筆書きのように、ラクダが描かれていた。
「ラクダだ。上手だね!」
「これ、あげる」
和雄は驚いて歩に聞いた。
「そりゃ嬉しいな!でもどうして?」
「病気がなおる」
「病気が治る!?そっかー。どうしてラクダか、分かんないけど、これ、おばあちゃんのところに持っていくよ。こんな上手な絵、おばあちゃん見たらびっくりするよ。歩くん、ありがとう」
 歩は和雄のお礼が終わるのを待ってから、参道の向こうを指差して言った。
「ちょっと、神輿、見てこよう」
「ああ、いいよ、行こう」
すぐに走り出した歩の後について、和雄は早足でついていった。
 倉庫の前に行って、歩はガラスの向こうの大きな神輿を見上げた。
「すごいよね、この神輿」
そう言って和雄が歩を見ると、歩は顔を思い切り上に上げて、あるところをじっと見ていた。和雄がその目線を追うと、そこには神輿の一番上、てっぺんで羽根を広げる金色の鳳凰があった。
「あれは、鳳凰っていうんだよ」
「ホー、オー」
「そう、鳳凰。空の上にいる神様の使いだよ」
「今度あれ、描きたい」
「そうか、鳳凰を描くか」
和雄は、金色に輝く鳳凰をきらきらした目で見上げる歩にデジカメを向けた。


      15

 結衣が半分開いたカーテンの中を覗くと、ベッドの佐智子は静かに寝ていた。スタンドの点滴から出ている管が、上掛けシーツの中に入っている。足元のベッド柵にグレーのジャンパーが掛かっていた。和雄はどこかに出ているようだ。結衣はスツールに座った。
 カウンターの卓上カレンダーに、紙に描いた絵が一枚挟んであるのに結衣は気づいた。歩の絵だ。結衣は絵を手に取った。大きな黒目のついた頭から曲がって出ている首、そして大きなコブの山が二つあって、下の方に四本あるのかどうかと言う突起は足だろう。全部の線がつながっていて一筆書きみたいでとてもかわいい。歩が描いて、どこかで和おじに渡したのだろうと結衣は思った。
 結衣は絵を戻す時、卓上カレンダーの横に置いてある冊子に目がいった。そこには〟化学療法の手引き〟というタイトルがあった。手にとって開いてみると、そこには長いカタカナで書かれた抗がん剤の名前が色々あって、〝抗がん剤を投与する化学療法が始まります。増殖するがん細胞に働きかけ、それを死滅させます。〟と言う言葉があった。ページめくると、そこには各種抗がん剤の名前とそれぞれの投与時間が表になっていた。
「何これ」
 その時、和雄が部屋に入って来た。
「ああ、来てたのか」
そう言いながら和雄が結衣の手元を見たのが、結衣には分かった。結衣は冊子を差し出して言った。
「何これ」
和雄は口を開け、少し間を置いてから言った。
「ああ・・・、化学療法をすることになった」
「さっちゃんは、がんなの?」
結衣の声が強く出た。
 和雄が、ちょっと出よう、と結衣を促した。

 二人は誰もいないドリンクコーナーの丸いテーブルについた。結衣は気持ちを落ち着かせようと息を吐いてから和雄に聞いた。
「化学療法って、どういうこと?」
和雄は両膝に手を乗せ背を伸ばして言った。
「手術で取り切れているかどうか分からないから、化学療法を加えるんだそうだ」
「良性のポリープじゃなかったの?」
和雄は答えなかった。結衣が聞いた。
「あの点滴は抗がん剤?」
顔を上げて和雄が言った。
「放射線はもうやっている」
「放射線!?それは他に転移してるってこと?」
「可能性がまったくないとは言えない、ということらしい」
和雄の言葉に、首を振った結衣の目から涙が溢れた。


 夕方の富岡八幡宮の境内に、人はまばらだった。
参拝を終えた結衣は階段を降り、待っている松尾のところへ歩いた。
「すいません。お時間いただいちゃって」
「大丈夫です。会社に早上がりの届けはちゃんと出してありますから。内装工務店ですが、まだ外の現場には出られません。でも・・・」
明るいグレーのジャンパーにパンツのユニホーム姿に松葉杖をついていた松尾は、その片方の足をちょっと上げてみせた。
「ギプス、外れたんですよ。まだちゃんと歩けませんけど」
「ああ、よかったですね!」
「これから歩く練習です」
松尾が松葉杖を脇から外す仕草をしてみせた。
「頑張ってください!」
「ありがとうございます」
結衣の激励に松尾は笑顔で礼を言った後、拝殿の方に一度顔を向けて結衣に聞いた。
「お参りは・・・?」
「はい、済ませました」
結衣は一呼吸置いて松尾に聞いた。
「あの、和おじに、叔父に聞いたんです。叔母の病状を」
結衣は和雄と佐智子を叔父、叔母と呼ぶように気をつけた。
「はい」
「膵臓がんだと・・・」
「はい。伺いました」
 やはり、松尾は知っていた。結衣は唇を噛んだ。松尾は何度か小さく頷きながら拝殿の方に目をやり、黙った。そしておもむろに振り向き結衣を見て口を開いた。
「俺が妻をがんでなくしていることは」
「はい、叔父から伺いました」
結衣は深く頭を下げた。
「三年前です。乳がんでした。分かってから一年で逝ってしまいました」
松尾はそう言ってから少し首を傾げて黙った。少しの間の後、松尾はまた話し出した。
「どうしてだって、どうして妻が、そうなっちまうんだって、頭の中は疑問と、怒りでいっぱいでした。でも、誰にもぶつけられない。それでどうしようもなくなって・・・、もう後は自暴自棄です。だけど、息子が、歩がいるんで、そうもしていられなくて」
結衣に何か言う言葉はなかった。松尾は続けた。
「歩に、なんて言えばいいかって、色々考えたりもしました。ママが病気になるように仕向けた、悪い奴がいる。そいつは、悪魔なんだ、って。でもそこですぐに、自分が自分に突っ込んじゃうんですよ。悪魔がいるなら、神様もいるはずだ。なんでその神様は、悪魔を退治してくれないんだ?どうして神様は、ママの病気を治してくれないんだ?って」
結衣は頷いた。頷くことしかできなかった。松尾は続けた。
「それで、歩の寝顔を見ていた時に、歩はどうして、ここにいるんだろうって、ふと思ったんです。それは、歩は俺と妻の、麻美の子だから、当たり前だろうって思った時、気づいたんです。ああ、これは偶然なんだなって」
「偶然?」
思いがけない言葉に、結衣はつい聞き返した。
「はい、偶然です。俺と麻美が出会ったのも偶然で、歩が生まれて来たのも、その偶然からなんです。今、この世にいるっていうこと自体、偶然なんだなって」
松尾は結衣を見て話した。
「ああ、偶然いるんだから、いなくなることもあるなって、すぐに思いました。人はこの世に生まれたら、最後は死ぬんです。俺も交通事故に遭ってしまいました。もう少しのところで死んでいたかもしれません。それが偶然助かって、こうして生きています」
松尾は松葉杖の先を上げた。
「偶然の結果は、どっちにも出るっていうことです」
松尾が結衣に頭を下げた。
「すいません、八幡さまの前で偉そうに言っています」
「いえ、そんな」
結衣が慌てて首を振った。
 ふと松尾が空を見上げた。
「お、夕焼けだ」
結衣も空を見上げると、思わず声が上がった。
「わあ、すごい!」
空に広がった雲は、金色の陽の光の中で、燃え上がる火のような、オレンジと赤のものすごいグラデーションに染め上がっていた。
 松尾が夕焼けを見ながら言った。
「結衣さん。俺は妻に教えられました」
「はい」
「人は、このいろんなことが起きる世界の中で、与えられた命を、精一杯生きるってことです」」
「精一杯、生きる・・・」
「篠田さんの奥さんも、今、そう思ってらっしゃいますよ」
松尾の言葉に、結衣は、はっとなった。
「病気のことで悲しんでもらっても、奥さんは嬉しくはないはずです」
結衣は唇を噛んだ。松尾が続けた。
「結衣さんは、結衣さんの時間を、精一杯生きてください。それが奥さんにとって一番嬉しいことなんです」
 夕暮れの境内は他に人もなく静かだった。結衣の出そうとした声は声にならず、結衣の胸の奥で響いた。
さっちゃん、ごめんなさい。私、さっちゃんが・・・。
 結衣の目に映っていた空一面の夕焼けが、涙で滲んだ。


 これから歩のお迎えに行くのでという松尾の言葉に、結衣は、今からお迎えにお供してもいいかと訊ねた。松尾は歩も喜びますと言って快諾し、二人は歩のいる小学校の学童クラブに向かった。
 松尾の挨拶に、クラブ職員達の明るい声が一斉に返ってきた。すぐに歩を呼ぶアナウンスが流れ、若い女性スタッフに付き添われて歩がやって来た。少し早い父のお迎えにもっと遊びたいのにと不満気な顔の歩だったが、父の後ろから現れた結衣を見て、ぽかんとした顔になった。
 女性スタッフとハイタッチしてクラブを出た歩に、松尾が結衣さんと一緒に夕ごはんを食べようと言うと、歩は飛び上がって喜んだ。
 
 歩のリクエストで夕食はハンバーグに決定し、店は松尾のおすすめで門仲駅の近くの洋食屋となった。
 案内された席に着き、歩は真っ先にお子様ハンバーグと声をあげ、松尾はポークジンジャーを、結衣はメニューをざっと見てオムライスを注文した。おしぼりで手を拭きながら結衣が学童クラブのことを松尾に聞いた。
「いいですね、学童クラブ。子どもたちみんな、楽しそうに過ごしていて」
「共稼ぎとか、他に俺みたいに色々事情がある親は助かってますよ」
「私、子どもと一緒のところで働けたらって思ってるんです」
「そうか、結衣さん、絵を描くのが得意だから、いいんじゃないですか。美術とか音楽とか体育とか、一芸に秀でた人がいいみたいです」
「そうですか」
そこに、お待たせしました、と声がして、ウエイトレスが三人の食事をそれぞれの前に置いていった。
「うまそー、ハンバーグ!歩くん、ちょっとちょうだい!」
「だめー」
「ちょっとぐらい、いいじゃない。私のオムライスちょっとあげるから」
「いやだ!」
「歩、そんなこと言ってていいのか。歩の描いた絵、見てもらえないぞ」
「このラクダ、おばあちゃんのところにあったよ」
「そう。ラクダは練習してかいて、和おじいちゃんにあげたから」
「そっか!すっごくじょうずだった」
「それからー」
「それから?」
「見たい?」
「見せて!食べた後でね!」
 歩はすぐに椅子に掛けたランドセルを前に抱きかかえ、中から自由帳を取り出した。振ってしまった自分が悪かったと思いながら、結衣は歩のしたいがままに付き合った。めくるページにラクダの絵がいくつも見えた後、歩の手が止まった。そのページにはなにやら不思議な絵があらわれた。
「お、何だ、これは」
結衣はその絵に目を見張った。
 絵は右に左に迷路の道が何本も張り出して、それが一筆書きのように描かれていた。その上の方にはカギのように飛び出したところが、下の方にはまた長い迷路が何本も飛び出していた。
「んー、ナスカの地上絵みたい」
「お、さすが結衣さん!いいところ、見ますね!」
松尾が声を上げた。
「そうなんですか?」
「な、歩、これは鳥だよな」
「そっか、鳥か!どうりでナスカに見えた」
「で、鳥は鳥でも」
「え、鳥は鳥でも?何、歩くん」
歩が口を丸くして言った。
「ホーオー」
「ホー、オー?」
「そう、結衣さん。これ、神輿の鳳凰です。」
「あ、鳳凰!お神輿の上に付いてる金色の!すごいね、歩くん!これ、鳳凰が羽根を広げてるんだ!」
歩が頷いた。
「すごいじゃない!ねえねえ、これさ、画用紙に大きく描いて、金色に塗ろうよ!」
「ここで?」
「違うよ、歩。学童で描けば。なあ、歩。この鳳凰が付いた神輿、八幡さまの夏祭りで担ぐんだよな」
松尾が絵から祭りに話を持っていった。歩もすぐにこたえた。
「うん、そうだよ。わっしょい、わっしょい!」
「そうだ、わっしょい、わっしょい!」
「わっしょい、わっしょい!」
松尾につられてつい声を大きく上げてしまった結衣が、周りの客に小さく会釈をした。
「いいね、歩くん、担いだところ、和おじさんに撮ってもらおう」
歩は頷いて言った。
「おばあちゃんにも」
「うん?」
「ちゃんと描いて、おばあちゃんにあげる」
「そっか、ラクダの後に、いよいよメインキャラクター登場だね!さっちゃん・・・、おばあちゃんも喜ぶよ!」
結衣が言うと、松尾が歩の小さな肩をぽんと叩いて頷いた。



 日曜の朝、和雄はダイニングのテーブルに朝刊を広げた。都内版のページを開くと、そこに〟八幡様に関わる人々〟として松尾親子の顔があった。自分が撮った写真だ、と和雄はあらためて思った。その写真は入学式に二人が校門に立った写真が使われていて、自宅マンションで撮った妻麻美さんの写真を持ったものではなかった。
 サブタイトルを見ると、〟八幡様のふところで〟とあり、中の文は、松尾氏の父の代から松尾氏、そして息子の歩くんまで、代々八幡さまの境内で遊んで育ってきたことが書かれていて、〟この夏、歩くんは陰祭りで生まれて初めて神輿を担ぐ〟と続いていた。
 ライターの宮田氏による記事だが、奥様が亡くなられていることを立てていないのは、担当の竹内氏の指示、まとめによるものだろう。記事は最後に、三年前他界されたお母さんも、歩くんのことを見守ってくれています。とだけ書かれて締められていた。
 そしてその後に、〟この写真は門前仲町在住の篠田和雄さんが撮ったものです。〟という一文が記されていた。
 賞に入選した時と違い、そう大きな扱いではない。だが自分の撮った写真が記事になっていることに、和雄は嬉しいことは嬉しいけれど、何か、襟を正すような気持ちになるのを感じた。やはりこれは公の情報、人に向けて伝えるべき記事なのだと和雄は思った。
 さて、これを佐智子に見せよう。世に向けて形になった自分の仕事を。そう思った和雄は、外そうと思った眼鏡を掛け直し記事の全部をもう一度よく見た。


 結衣がドアを開けて店内を見渡すと、L字型のカウンターの端に座っていた聡が顔を上げた。結衣は聡の横に座りながらカウンターのマスターにココアを頼み、聡に顔を寄せた。
「見たでしょ」
「見たよ」
「すごいと思わない?偶然の出会いが、新聞に載るまでの仕事になるなんて」
「うん。出会いの縁が、写ってる」
「出会いの縁。ほんとだね」
結衣がトートバッグからノートパッドを持ち上げ、その間から一枚の紙を取り出した。
「どうこれ」
聡はテーブルに置かれた紙を見た。そこには、左右にくねくねと迷路のように伸びた一筆書きのような絵が描かれてあった。聡はちょっと首を傾げ、間を置いてから言った。
「鳥、だよね」
「そう!鳥なの!それも、特別な」
「特別な?」
「あるものの、上にいる。いや、あるものの上にしか、いない」
聡が腕を組みながら椅子の背に体を預けた。
「あるものの、上にしかいない・・・?何だ?」
「はい、それは、お神輿!」
「ああ、お神輿の上の、鳳凰か」
「そう!これ、鳳凰なの。何だか、ナスカの地上絵みたいでしょ。歩くん、今年の夏の八幡さまのお祭りで初めてお神輿担ぐから、境内の手前にあるあのお神輿の上を見ていて、描こうって。これから画用紙に本番描いて、金色に塗る予定」
「ああ、そうか」
「それで、出来た絵を病院のおばあちゃんに渡してほしいって」
「やさしい子だね」
「ほんと。歩くん、お母さん亡くしているからね」
「うん」
聡が深く頷いた。
 出されたココアを一口飲んで、結衣が言った。
「昨日、歩くんのお父さんに会ったの」
「歩くんの、お父さん?」
「うん・・・」
「何」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
結衣が少しためらったので、聡が察しをつけて言った。
「松尾さんの、奥さんのこと?」
「そう!よく分かったね!」
「何か、聞けた?」
「聞く前に、もう松尾さん、私が聞きたいことが分かっていて」
「そう・・・」
「それは、松尾さんが、病気の奥さんに、どんな言葉を掛けて、どう接したかっていうこと」
「うん。それで、何て?」
「それは、精一杯、生きることだって」
「奥さんが?」
結衣が首を横に振った。
「自分が。自分って、松尾さん自身が」
「松尾さん自身が?」
「そう。私の病気のことを考えてくれるより、あなたが歩と一緒に、毎日を精一杯生きてくれることの方が、私にとってどれだけ嬉しいことかって、奥さんが松尾さんに言ったんだって。松尾さん、奥さんに教えられたって言ってた」
聡が黙った。聡が松尾さんの言葉の意味をしっかり考えようとしていることが結衣に分かった。
「篠田さんも、きっとそうでしょうって。私がさっちゃんの病気をどんなに嘆き悲しんでも、さっちゃんは・・・そういうあなたの思いは、篠田さんにとって何もならないことだって、松尾さんが言った。私、その時、初めて分かったの。それはそうだなって思えたの」
聡がゆっくり頷いた。
「精一杯、生きる。大事なのは、これ」
結衣は、あらためて松尾の言った言葉を、自分の心の中に新しい旗を立てるように言った。
 結衣はココアのカップを手に取って聡に顔を向けた。
「松井さんにはその後、歩くんの行ってる小学校の学童クラブに連れて行ってもらったんだ」                       「そうか。学童クラブって、両親が働いている小学生が学校終わって利用するところだよね。会社の先輩にも使ってる人がいたよ。その話もしようと思ってたんだ」
「そう」
聡がコーヒーを一口飲んで言った。
「ニューヨークの方は?」
「うん、断った」
「そうか」
「その上でこれからどうしていくか、店長にはもうすぐ結論出すからって言ったの」
結衣はココアをほんの少し飲んで言葉を続けた。
「それで保育士の資格は追い追いにして、まずはアルバイトで、探そうかなって」
「幼稚園とか保育園?」
「まず歩くんの学童クラブに聞いてみようと思って。小学生相手も大変そうだけど、スタッフの人たちも明るくて、いい感じだったし」
「ああ、なるほど。歩くんとね」
結衣の考えに聡が頷いた。
「篠田さんの家にも近いし」
そう続けた聡がコーヒーを一口飲んで、結衣に聞いた。
「そういえば、篠田さんのデジカメ、カシオだったよね」
「カシオ?そうだった?わかんない」
「そうだよ。カシオだよ。そのカシオが、デジカメ部門から撤退したらしい」
「そうなんだ。それって何、みんなスマホで写真撮ってるから?」
「その通り。スマホは結構性能いいからね。本当に写真が趣味の人は別にして、ちょっとスナップ撮るくらいの人は、デジカメを別に持ってる必要がなくなったってこと」
「カシオのデジカメ、持っている人は何か困る?」
「いや、もうデジカメは作らないということだけだよ」
「じゃ、これから、平成懐かしの名器になるかも」
「まあね」
「和おじもあのデジカメに慣れたから、当面あれで撮れればね。それで・・・」
「うん?」
「いや、何でもない」
結衣は思いつきを消すように、カップのココアをゆっくりと飲んだ。


      16

 結衣が部屋に入ると佐智子は寝ていた。いつものようにジャンパーがベッド柵に掛けてある。和雄は院内のコンビニかどこかに行っている。
 結衣はベッドの横のスツールに腰掛け、佐智子を見た。薬のせいなのか、佐智子は気づく様子もない。
 こんな穏やかな寝顔をしているさっちゃんが、がんを患っているなんて・・・。
 結衣はすぐに首を横に振った。
 さっちゃん、早く治して、家に帰ろう!
結衣は思い直し、心の中で佐智子に声をかけた。

 結衣は横のキャスターの上に、和雄のデジカメが置いてあるのに気づいた。結衣はそのCASIOのロゴが入っているデジカメを何気なく手に取った。
 和おじがこれを買ったのは去年の十二月だった。最初に撮った縁日のおばあちゃんの写真がいきなり賞に入り、それがきっかけで、和おじに新聞の取材写真を撮る話が来た。それから偶然出会った親子の写真がきっかけで新聞の写真を撮る仕事を頼まれ、写真はが記事となって新聞に載った。そんなことが起きるのは、なかなかあることじゃない。本当にすごいことだ・・・。
 そう思いながら結衣はデジカメの電源をオンにして、今まで撮ってきた写真を見ようとモニターのボタンを押した。
 最初に出たのは。歩くんだった。この間見舞いに来てくれた時に撮ったものだ。真面目な表情だけど、顔や目つきはきりっとしたお父さん、松尾さんにあまり似ていなくて柔らかい感じがする。歩くんはきっとお母さん似なのだろう。
 そこにベッドのさっちゃんは写っていない。和おじは撮る時にしっかり気をつけている。それはさっちゃんが本当に写真に写ることが嫌いで、ましてや今は病気で弱っている時だから。
 次は歩くんのランドセル姿が出た。新聞に載った、校庭に立つ歩くんとお父さんの写真をはじめ、歩くんの入学式の様子が写っている。でも全部で十枚程度で、和おじは本当に撮る枚数が少ないと結衣は思った。
 それから、鳩を写したものが出た。なぜ鳩をと思ってよく見ると、片方の足が棒のようになっていて、その先にあるはずの指全部がなかった。事故だろうか、それとも生まれつきだろうか。この障害のある鳩を、和おじはどういう気持ちで撮ったのだろうと結衣は思った。
 その次は、歩くんと松尾さんの、前に見せてもらった写真が出た。松尾さんは車椅子で、歩くんと二人で亡くなった奥さんの写真を持っているものだ。その後に歩くんが公園で遊ぶスナップが続いた。
 次に紺色のコートを着た女性の後ろ姿が出た。結衣にはすぐに分かった。これは、さっちゃんだ。向こうは八幡さまで、二人でお参りに行った時和雄が後ろから撮ったんだ。
 次は柄杓の水で手を洗うさっちゃんの上半身、横顔だった。表情はとても柔らかい感じで、撮られていることには気づいていない。これも和おじが声を掛けずに、さっちゃんに内緒で撮ったんだと結衣は思った。
 次に病院のロビーの椅子に座るさっちゃんが出てきた。これも横顔だけど、さっきの八幡さまに比べてどこか疲れている感じがする。
 結衣には、さっちゃんをいつ撮ったのか分かった。八幡さまは、和おじのがんが治った時で、ロビーに座っているのは和おじが通院している時のものだ。
後は前に見たスナップが続いた。フレンチブルと飼い主の女性、マラソンのおじいさん、公園の子どもたち。そして縁日のおばあちゃん。この笑顔はまた見てもやっぱりいい。
 次に八幡さま境内で、横切る黒猫、お参りの人々が出て、これが確か最初だったと結衣は思った。
 すると後一枚、写真があらわれた。それはキッチンにいる佐智子だった。何か食事の準備をしているようだ。これより前の写真はない。
 佐智子はこれも横顔で少し下を向いていて、野菜でも洗っているのか、普通の表情をしている。
 結衣は思った。これが和おじの最初の写真。和おじがデジカメを買ってきて最初にレンズを向けてシャッターを押したのは、写真を撮られるのが大嫌いなさっちゃんだった。
 結衣は、モニターの中のさっちゃんの横顔から、今ここで寝ているさっちゃんに目を移した。生成りのニットを頭に被ったさっちゃん。顔色が白く、少し頰がこけているさっちゃん。目を瞑り乾いた唇を少し開けているさっちゃん・・・。結衣の目に涙が浮かんできた。涙はさっちゃんの顔をぼやけさせた。結衣は目を凝らしてさっちゃんを見ようとしたが、涙が溢れ、ぽたぽたと落ちた。

「ああ、来てたのか」
ドアを開けた和雄が、結衣に気付いた。
「ちょっとコンビニに行ってた」
和雄はそう言いながら、結衣がデジカメを手にしているのが見えた。結衣が佐智子を見たまま少し首を傾げて言った。
「ちょっと、寝顔でも撮ろうかって思ったけど、後で分かったら大変だから、やめた」
「そうか」
鼻をすすった結衣に、和雄は軽く返事をしただけで、すぐに自分の話をし出した。
「あれ何カードっていうのか、カメラに差し込むやつ。その新しいやつを渡されて、仕事の時はそれで撮ってくださいって担当の竹内さんに言われてたんだけど、歩くん撮るのに忘れちゃって。自分ので撮っちゃってるけど、後で困るかな」
「メモリーカードね。大丈夫よ、コピーすれば。それにしても、和おじ、撮る枚数少ないね。ちょっと撮ったもの見せてもらった」
「そうか。みんなもっとたくさん撮るのかな?」
「さっちゃんも、撮ったんだ」
「うん?」
「三枚、あ、四枚あった。八幡さまで撮ったのが二枚。ここの、病院のロビーで撮ったのが一枚。あと、家で一枚」
「全部、本人に許可なしだ」
「写真、嫌いだからね」
「だから、まあ、なんとか」
「うん。でも、いいスナップだよ。とても、いい」
「そうか」
和雄はゆっくりと腕を組んで、言った。
「考えてるんだ」
「何を?」
「治ったら、なんとか許可をもらって、ちゃんと前から撮ろうって」
「いいね」
「でも、許可をもらうには、どうすればいい?」
「それは、分かんない」
「うーん・・・」
結衣がちょっと笑い、和雄は首を傾げた。
 
 その時、ベッドの佐智子が目を覚ました。
「あら・・・、いたの、二人とも」
「いたよ、さっちゃん、気分はどう?」
結衣が佐智子の顔をのぞいて聞くと、佐智子は天井に目をやった。
「うん・・・、何だか・・・」
「何」
「ずっと夢を見ていた」
「何の夢?」
「お祭り。八幡さまの」
「ああ、大祭か」
和雄が聞いた。佐智子がゆっくり話し出した。
「向こうの方から、大きなお神輿がやって来るの。わっしょい、わっしょいって、大勢の人に担がれて。私はたくさんの人と沿道で見てるんだけど、お神輿が練り歩きながらだんだん近づいて来るの。そうしたら、さあ、行くぞって後ろの高いところから声が掛かって・・・。それで一斉にものすごい水がお神輿に掛けられて、担いでる人はみんなずぶ濡れ。で、その中の一人が、私を見るの。若い青年で、明るく笑って・・・。この人、どこかで会ったような気もするんだけど、誰だか思い出せない。ほんとに、会ったことある人なのかな・・・」
「青年・・・」
結衣が、聡かとも思ったが、それなら佐智子が知っていて言うはずと思い直した。
「それで私の前でお神輿が持ち上げられて、一番上に付いている鳥、なんて言うんだっけ・・・」
「鳳凰だ」
和雄がすぐに言った。
「そう、鳳凰!その鳳凰が、ぱあって光出したの!その光はどんどん強くなっていって、もう周りは真っ白になって・・・、そうしたら、目が覚めた」
 結衣は思った。お神輿を担いだその笑顔の若い青年は、未来の歩くんなんじゃないか。鳳凰は今、歩くんが描いている。その金色の鳳凰とともに、未来の歩くんが、さっちゃんの夢に現れたんじゃないか・・・。
 結衣は、自分が思ったまさに夢のような話を、言わないでおくことにした。さっちゃんの驚きと喜びは、歩くんが鳳凰の絵を描き上げて、さっちゃんのところへ持って来た時に感じるのがいいから。
 和雄が佐智子に言った。
「今年の八幡さまの祭りは陰祭り、子どもの祭りだ。そこで歩くんが初めて神輿を担ぐ。大人と同じく、子どもも思いっきり水を掛けられるけど大丈夫かなって聞いたら、歩くん、頑張るって言ってたぞ」
「夏に、見られるかなあ。まあ、あなたが撮るんだから・・・」
佐智子の言葉に結衣が声を上げた。
「何言ってんの、さっちゃん!早く治して、私と一緒に見るんだよ!」
「そうか。そうね」
佐智子の薄い眉が上がった。
「それでね、和おじも、さっちゃんにお願いがあってね・・・」
結衣が和雄を見て言ったので、佐智子は和雄に聞いた。
「お願い?何なの?」
「いや、何でもない」
和雄は慌てて首を横に振った。
「何だ、言わないんだ」
結衣が和雄につっこんだ。
「何よ、結衣ちゃん、何?」
「いいんだ、その時言うから」
和雄が眉を寄せまた首を振った。
「その時?その時ってどの時よ。まったく、何考えてんだか」
佐智子が和雄を睨んでいつもの調子で言った。和雄は結衣を見て首を何度も振った。結衣はそんな二人を見て笑った。
 その時三人は、ここが病室であることや佐智子のがんのことなどの一切を忘れていた。


 キッチンで茹でた枝豆をザルに入れている佐智子に、和雄が声をかける。
「おい、ちょっと」
振り向いた佐智子が和雄のデジカメを見る。
その瞬間、和雄がシャッターを押す。
佐智子はすぐに顔を背け、声を上げる。
「もう、撮るのやめてって、言ってるでしょ!」
和雄がモニターを見ながら言う。
「こうでもしないと顔は撮れないって、結衣が言ってた」
「結衣ちゃんが?まったくもう!」
佐智子が呆れた顔で言い、くるりと背中を和雄に向ける・・・。


 和雄は橋の上で足を止め、大横川の両岸に目をやった。桜はすっかり新しい緑の葉になり、明るい陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。 和雄は、いつか、何が起きるわけでもない何でもないような日に、正面から佐智子の笑顔を撮りたいと思った。
                             
                              
                               (了) 




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