並んで見た最後の風景
写真の整理をしていた。
iPhoneにはおびただしい枚数の写真があって、毎月気が向いたときにその月の写真を選別する。
検索窓で《2月》と入れると過去から今日までの2月の写真がダーっと並ぶ。「これはもう要らないかな」と思うものを選ぶと、ゆうに100枚以上はある。
そんなことを今日の満月の写真を取り込んだついでにやっていたら、目にとまった1枚があった。
山梨県のとある病院の、面会スペースにある大きな窓越しに撮ったもの。
このとき、わたしは車椅子の父と並んでこの風景を眺めていた。
どうしても立ちたい、ベッドから降りたいと言う父。看護師の方々に許可をもらって2人がかりで父を立たせた。「外を歩きたい」とも望んだがさすがに無理なので、車椅子を貸してもらったのだ。
「この階ならどこへ散歩しても良いですよ」
そう言ってもらえた。
個室から出て30メートルほど先にある面会スペースに行くと
「富士山が良く見えるね」
と、父。
窓に向かって、父の隣にかがんでしばらく眺めていた。
宣告された余命を少し過ぎ、1度の危篤状態を乗り越え、亡くなる10日ほど前。わたしが病院の近くのホテルから連日病室へ通っていた頃だ。
「ご家族のどなたかが付いていてあげてください」
と言われ、動けるのがわたししかいなかった。体力的にも精神的にもかなりキツかったが、親子の時間を取り戻すようでもあり…わたしには必要な時間だったのだろうと思う。
「ああ、綺麗だねぇ」
まるでため息のようだったが、はっきりと聞き取れる言葉。
「嬉しいねぇ」
「外が見たかったんだよ」
本当に綺麗だね、また一緒に見ようね。と、答えた。
「手を繋いでほしい」
お父さんの手、冷たいね!あっためてあげるよ。
「いつもありがとう」
娘だから当たり前だよ、と、また答えた。
意識が混濁することが多く、言葉もうまく発せなくなって、意味不明なことを言うようになっていた父との、最後のしっかりとした会話。
そして、このときの富士山が、並んで見た最後の風景となった。
写真は不思議だ。
父と富士山を見たのは覚えていても、どこか遠い記憶だった。でもこうして情景まで思い起こさせる力があるのだなぁ。
撮ったことすら忘れていた富士山。思いつきで写真の整理をしたおかげで、しばし過去をなぞるような時間を過ごせた。
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