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1995年の1月17日には阪神淡路大震災が起きたから。

 2022年に入って初めて読んだ本は村上春樹の1Q84 BOOK1 前編だった。そしてその次に森絵都の「この女」を読んだ。
 1Q84 BOOK1 前編は「1Q84」という小説の一部分であり、BOOK1 前編を読み終わっていても「1Q84」を読み終わったとは言えないから、この森絵都の「この女」がわたしが2022年で初めて読み終わった本ということになる。

 この小説の中で主に描かれているのは釜ヶ崎という土地で生きる人々の人生で、その釜ヶ崎という土地で繰り広げられている世界はコテコテの関西弁も含めて自分にとって全く馴染みのないものだった。それはわたしが生まれてこの方関東にしか縁がない人間だからかもしれないし、同時にそれは幸運なことでもあるかもしれない。
 この本を読み始める前の日に、偶然にも大学時代の同期と西成の治安の話をした。わたしは大阪に住んだことはないけれど、その人は仕事の都合で大阪に住んでいたことがあったから、西成がどのくらい"ディープな"地域であるのかを訊いてみた。返ってきた答えは日本ではない異世界をイメージしてしまうようなもので、無知なわたしはこの現代に、未だにそんな世界が存在しているということに純粋に驚いた。そして少し、戦慄した。

 そんな話を訊いた翌日に、わたしはおよそ27年前の釜ヶ崎の実情を生々しく描いた本を読み始めてしまったのだ。だからこの日本で、現代でも、まだまだそういう世界は根深く存在しているのだということを認識せざるを得なかったし、そういう世界の現状を、リアルに、エモーショナルに、テンポよく描いているこの小説はつくづく凄いと思った。
 自分の人生を生きているだけでは決して経験できない世界を疑似体験できるのが小説の醍醐味であるなら、この本はこの上なくその醍醐味を提供してくれた。そしてそれはとても楽しい体験だったとも思えた。この小説の、結末として描かれているシーンまでしか考えなくて良いのなら。

 なぜなら、1995年の1月17日には阪神淡路大震災が起きたから。
 冒頭で、この小説の題を『この女』ではなく『この男』でもしたいと評されている彼の身に起きたであろうことを想像するとあまりにも胸が苦しい。自然災害はそれほど無慈悲で容赦のないものなのだと、思わずにはいられない。
 この本はその「彼」が「書いたという設定」なのだけれど、文字通り架空の人物が執筆したという設定のお話なのか、本当にいた誰か(それも1995年に震災が起きる大阪、神戸で生活していた誰か)が執筆したお話なのか、ということで実はまだ混乱している。(冷静に考えればそれは著者の森絵都さんの巧みな表現力に惑わされているというだけなのだが。)混乱していて、結局わたしはこの本の中で描かれている世界が小説の中の世界であることが信じられないから、これは1995年の震災前夜に、本当に起こったこととして消化することにした。だから、とても胸が苦しい。

 1995年の1月17日には阪神淡路大震災が起きる。この変えようもない事実を読者はもう知っているから、震災前夜の大阪・神戸を生きる人々の人間らしすぎる部分(美しいものとは限らなくても)がこんなにも引き立っていると感じるのだろうか。たぶん、最後のシーンが震災前夜のものでなくても、たとえその小説の世界では阪神淡路大震災が起きなかったとしても、これ以上ない人間らしさを感じたと、わたしは思う。

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