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[idea]表現と芸術の分子生物学 (映像・写真の粒子〜辺境の中心化)

(序盤は思考の箇条書き・詩のようなもの)


「人類の表現=生きること」という前提

分子生物学的粒子と芸術の粒子=表現の粒子

辺境を中心化する技術としての「医術と芸術」

中心を辺境化する技術としての「芸術」



映像の粒子

私の中の粒子

モザイクな私

映像のノイズ

私の中のノイズ

視線の交わり

粒子のざわめき


全く別の時間

共通している粒子

私の粒子をあなたに。

編集で切り離されても

通じている時間

私の粒子も いつかは消える


粒子は時間の概念と共にある

粒子は今日から明日に流れる

でも昨日のその粒子は

もう明日のその粒子ではないかもしれない


生きること=人類の表現, 意識的な表現と無意識的な表現

芸術も医療も、「人類の表現」に対して極めて侵襲的に踏み込んで関わっていくという点で共通している。

医学は大きく、臨床医学と基礎医学に分類できる。臨床医学は直接的な患者さんとの接触の中で実践される医学。基礎医学は研究室などで行われている生物学的な研究のことで、そこで有効な発見があれば臨床で生かされることを目的に行われる医学。

私としては、臨床医学の面白さは、『「生きる」という表現』との結びつきの強さにあると最近感じている。臨床医学での「表現」は極めて意識的な営みのことであり、例えば「健康な状態にもどること」「若返ること」「治癒しない病気を受け入れて生きること」など、「どう生きるか」ということを意識上で思考する「意識的な表現」である。一方で基礎医学は「無意識的な表現」である。特にそれを芸術的な結びつきで考えていく時に、結びつきが強そうだと感じる分野が内分泌と神経だと私は思っている。内分泌と神経は、人間が恒常性を維持するために非常に重要となるホルモンなどの関連する分野である。種々のホルモンが脳の神経細胞から分泌されて人間の恒常性は保たれている。

つまり、意識的に営まれている生命活動が我々の広義の「表現活動」だとすれば、恒常性の維持機構は無意識的な表現活動である。意識的な表現活動のさらに上位に、より表現の専門的な技術が踏襲された芸術があると考えると、表現のシェーマは[(より意識化・専門家された表現側)芸術>意識的な生命活動>無意識的な生命活動(より無意識的な表現側)]となると考えられる。

ある芸術家が精力的に作品を作るためには、この恒常性が保たれている必要がある。そういう意味でも、「無意識の表現(神経内分泌系)」は芸術を支えている。医学の面白いところは、その無意識の機構が、科学的にある程度まではモデル化されており、言語化しうる事である。つまり、無意識という本来ならば言語化の難しい世界を、医学は説明しうるということだ。

辺境と無意識

辺境というものは、われわれの日常における「無意識」にとても近いものだとも思う。しかし、誰かにとっては、その「無意識=辺境」が「意識=中心」であるわけで、そう考えると、人間の無意識の表現という点においては医学は「辺境を中心化する技術」となっていると言えるだろう。

つまり、私たちの最も身近な辺境は自分の体内の無意識かもしれない。医学はそれを「中心化する」という点で非常に面白いのだ。そして、芸術も、普段なら見過ごされてしまう辺境を中心化する技術であると言える。そういう点でも、芸術と医学は非常に共通している。

映像・写真というメディアも非常に「無意識」を不意に捉えて中心化してしまうメディアであるといえる。いや、中心化せずに、無意識を無意識のまま捉えてしまうというところもあり、そういう意味ではより高尚な、ワンランク上の、「無意識を対象にした手段」かもしれない。

つまり作品を作ること=無意識の意識化=辺境の中心化(<無意識を無意識のまま捉える事が可能)とも言えるかもしれない。そしてそのプロセスや方法は医術と似ているかもしれないわけだ。

加えて、私の場合は映像を媒体として作品を作るために、その映像のもっている粒子と、無意識の中の粒子(ホルモン、加えて血中の細胞なども)がオーバーラップして感じられるわけなのだ。

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