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[idea] 手食 野性 生命力

ここしばらく、ずっと「手食」について考えている。

介護の現場でよくある話らしいが、衰弱して食事介助をしてもご飯を食べれなくなっていくご老人に、ある日握り飯を手に持たせたら、その日から食欲が増進し元気になった、ということが結構あるらしい。

この話を聞いてから「手食」は人間の潜在的な可能性のトリガーになりえて、消えかけた生命力を引き出す力があるような気がしていた。手で食べることで、赤ん坊のころのような原始的かつ本能的な感覚や生命力が湧き上がってくるのではないかというのが一つの個人的な仮説である。最近、ある人達との会話で、手は他のどの器官にも増して脳と密接に連携していて、「思わず手が伸びていた」という現象があるように、手は思考の一歩先をいくこともあるという指摘が面白かった。また、手食の時以外でも、赤ん坊が手を口に持っていくという動作は特徴的であり、手と口というものの無意識的な連関も興味深いものがある。

もしも、手食というものが人間の生命力を呼び覚ます力があるものだとしたら、そもそもが手食文化の国々では日本と比較して健康や野性や生命力といった点でどんな違いがあるのだろうか。そういったところを科学的にも検証できたら面白そうだと思っている。

世界の食文化百科事典(丸善出版)で「手食」をキーワードに索引を引くと、後に引用した記載を見ることができる。

特に気になった記述は、日本において子供が成長する過程で“手づかみ→箸”になるということは「食欲を満たすという直接的衝動を抑制し文化的形態として食事を行うことを身につける。」ことであるという箇所。手食文化圏はそれはそれで、不浄の手を使わずに片手で食べることを「教育」され、ある種の「衝動の抑制」がかかる訳だが、そもそもの手食を選択肢から剥奪された場合の身体に与える影響の大きさは、片手食べになったそれよりも大きいような気もする。

人間の子供が動物ではなくて人間として成長をすることは社会生活を営む上で大切なことかもしれないが、何気なく移行していた「箸食」によってもしかするとものすごく大きな身体の可能性を喪失していたかもしれないとも思うと、手食であったらば「失われなかった」ものがなにかを明らかにしたいという気持ちが湧いてくると同時に、意図的に手食をすることで再獲得できるものがあるなら積極的にしていきたいという気持ちになっている。


ー以下、『世界の食文化百科事典(丸善出版)』より抜粋

『近代以前は手食であったヨーロッパでは、麺状食品を茹でて皿に盛り、ソース類をかけて手づかみで食べた。フォークに巻きつけて食べるのは、1770年代にナポリの宮廷でスパゲティを食べるために四つ又のフォークが考案されて以降のことである.』(p85)
『食事をとるための食具は箸、匙(スプーン)、フォークとナイフ、そして素手での食事(手食)に大別される。中国や韓国、日本などの東アジアでは箸が中心で、欧米ではフォークとナイフ、さらにインドなどの南アジアやアフリカでは手食が中心であった。もっとも、このような分類は厳密なものではなく、地域や時代状況でも大きく異なる。ちなみに近代に至るまで、ヨーロッパでも手食が一般的であった。ナイフとスプーンは比較的早くから普及していたが、ナイフは全員に配されるものではなかった。食卓に一本だけ置かれたナイフは、家長だけが用いることができる特別な食具であった。16世紀からフォークが使用され始めるが、その普及は17世紀に至ってからで、周辺地域では19世紀になっても手食の場所が見られた。ヨーロッパの影響を受けた東南アジアの国々では、スプーンとフォークが基本的な食具として使われ、麺類などに箸を用いている。現代の日本でも、箸を中心としながらも、スプーンやフォーク、ナイフも食事のタイプによって使い分ける。握り寿司やサンドイッチのように直接、手で食べることの多い食事もある。』(p 265)
『離乳期に入り、いろいろな食べ物に触れることができるようになると、食感や味の多様性を知り、好き嫌いが生じる。手づかみからスプーンやフォークなどの食具を使って食べる体験を通して、食欲を満たすという直接的衝動を抑制し文化的形態として食事を行うことを身につける。手食文化圏では、宗教上不浄の手を用いず、片手のみで食事することを学ぶ。』(p442)

『世界の人々は食事をするときに手、箸、ナイフ・フォークを使う。種々のデータを総合すると、その割合は4割、3割、3割で手食者が箸やフォーク・ナイフ使用者を上回っている。手で食べることは人類文化の根源であった。現在では、ヒンドゥー教圏、イスラム圏、根菜文化圏が手食文化圏といえる。地域でみると、アフリカ、西アジア、南アジア、東南アジアの一部、オセアニアが該当する。』『特にヒンドゥー教徒にとっては、誰が使ったか分からない食器よりも、綺麗に洗った自分の右手が一番浄清が高く安全と考えられている。また、直接手を使うことから、食事は極度に熱いものは避けられる。』『ピクルスやチャトゥーニは指先に少量つけて口に運び、口の中の料理の味を最終的に微調整する役割がある。塩味が足りない時は、指先に少量塩を付けて調整する。』『チャパティーにせよごはんにせよ、インドの主食をナイフとフォーク、またはスプーンで食べると本来の味わいでなくなる。一説には、それぞれの手から出るエネルギーも欠かせないスパイスなのだといわれる。』(p535)
『また箸の文化が発達しなかった東南アジア島嶼部では、イカン・パンガンは手食が基本である。もちろん現在ではフォークとスプーンを使って食べてもいいが、慣れると手の方が圧倒的に食べやすい。特に魚の頭部や背骨付近の肉は手を使わないと食べにくい。』(p 596)※イカン・パンガン=マレー語でイカンは「魚」、パンガンは「焼く」。ココヤシの繊維や木炭を火力として網の上で魚を焼くシンプルな調理法のこと。


魏志倭人伝の中にも手食の記述がある。

wikipedia[手食文化]
日本においては『魏志倭人伝』において「倭人は手食する」との記述があることなどから奈良時代以前に中国より箸が伝来するまでは手食文化を持っていたと考えられているが、平安時代に入る頃には市街地の遺跡などからも箸が出土し、庶民にまで浸透していたことが伺える[5]。現代においても、寿司、おにぎりなどにおいて選択的に手食が用いられる場合があり、こうした風習が古来の手食の名残とされる[6]。

[5]北岡正三郎『物語 食の文化』中公新書、2011年。ISBN 978-4-12-102117-5。pp.233-234
[6]荒野泰典、村井章介、石井正敏編『文化と技術』東京大学出版会、1993年。ISBN 978-4130241267。p 320


倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる。人々ははだしで生活し、家屋を立てるが、父母兄弟はそれぞれに居所を異にしている。朱・丹を体に塗るのは、中国で白粉を用いるようなものだ。飲食には高杯を用い、手づかみで食べる。死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲酒する。埋葬すると、一家をあげて、水中でみそぎをし、中国で一周忌に練絹を着て沐浴するのとおなじようにする。

(*35)遺骸をおさめた棺を覆う施設で、木・土(つちへんに)・石・粘土・礫などの槨がある。 弥生時代には稲の栽培が本格的にはじまり、米をはじめとする穀物を主要な食料の一つとする食生活もまた開始されたことが推測されます。各地の遺跡から出土する炭化穀物などにより、弥生時代には米の他に、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑穀が栽培されていたことが明らになっています。
こうした主食はどのように調理されたのでしょうか。弥生時代に煮炊きに使われた甕形土器に残る炭化物などの状態から、穀物は水を加え炊いていたと考えられます。倭人伝には手づかみで食べるとありますが、鳥取県の青谷上寺地遺跡からは木製のスプーンが数多く出土しており、おそらくスプーンを使って食事をしていたと推定できます。これらのことから、弥生時代には主として米や雑穀を炊いて雑炊のようにして食べていたと想像できます。(写真:青谷上寺地遺跡出土の木製のスプーン)
また、炊くとは別に蒸す調理法もあったことも推定できます。日常は米と雑穀を混ぜた雑炊を食べ、祭りなどハレの日には蒸した米を高坏にもって食べたことが想像できます。縄文時代の主食であった団栗などの堅果類も各地の遺跡から出土しています。縄文以来の伝統食である団栗ダンゴなども依然、食べられていたことが窺えます。

『魏志倭人伝』弥生ミュージアム
website https://www.yoshinogari.jp/ym/topics/


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