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書評01 江戸川乱歩「押絵と旅する男」

序.複数の枠、語りの場

 まず最初に、物語の構造について確認しておきたい。「押絵と旅する男」は典型的な枠物語であり、しかも二重の枠によって物語が囲まれている。その二重の枠とは

①「私」が物語る枠
②「私」がかつて出会った「老人」が物語る枠

の二つであり、

A.「私」から読者への呼びかけ・語り ……枠①
B.「私」と「老人」の話 ……枠①の内部
C.「老人」から「私」への語り ……枠②
D.「老人」の若かりしの頃の話・「老人」の兄の話 ……枠②の内部

という構造をなしている。
 こうして展開される物語ではあるが、最終的に枠その物への疑惑を孕み終結するので、一旦上記の構造を頭に留めて読み進めていきたい。


1.奇妙な老人

 「私」はかつて奇妙な老人に出会った、と読者に向けて物語る。とは言え、冒頭で「この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば……」と前置きをしている辺り、この時点においては「私」もこの「奇妙な老人」の記憶に対して多かれ少なかれ訝しげな思いを抱いているのだろう。しかし物語が進むにつれて、過去への疑いを次第に忘れてしまうかのように、「奇妙な老人」の存在感は圧倒的なものとなってゆく。
 「私」はその昔、「老人」と偶然同じ汽車に乗り合わせたのだと言う。「老人」は見るからに奇怪で、また彼の手にする「荷物」が非常に怪しげな様子であるが故に、「私」は彼に意識を奪われ続けた。そして、何度か視線が合ったのち、意を決したかのように「私」は「老人」へと近付いてゆく。
 「決してその荷物を見たい為に席を立った訳ではなかった」と「私」は語る。「その男がいとわしく、恐ろしければこそ、私はその男に近づいて行ったのであった」と。しかし「私」が「男」をいとわしく、恐ろしく感じた理由の一つとして、「荷物」の存在は大きいだろう。「私」がどのように主張しようとも、「老人」が手にした「荷物」は異様な雰囲気を醸し出して「私」の視界に留まり続けていたのだ。ここでは「私」と「老人」と「荷物」、それら三つの存在がそれぞれに影響を及ぼし合っている。また、「老人」は「荷物」を手にすることによって己の存在を確固たるものにしている。


2.荷物の正体

 「老人」が風呂敷から取り出した荷物は、一枚の絵画だった。きちんと額に入れられ、窓辺に立て掛けられている。「私」はその様子に不可解な感覚を抱き(「私」の主張によれば「その男がいとわしく、恐ろしければこそ」とのことではあるが)彼に近付いたのである。
 「私」は「老人」と幾らか言葉を交わし、異様な存在感を放つその絵画を覗き込んでみた。絵画には「極度の遠近法」が用いられており、「私」自身明確な言葉にすることは出来ないが「嘗て見たことのない様な、奇妙な」印象を受けたと言う。そのような絵の中に、一等目を見張るディテールがあった。一組の男女──老人と若い娘──の図である。この人物の箇所だけが、押絵で出来ていた。
 押絵とは型紙の中に綿などを詰め、布で立体的に表現する技法である。この技法は羽子板によく使われるが、「私」が言うには「精巧な」「羽子板の役者の似顔の細工」とは比較にならない程に「巧緻を極めていた」のだそうだ。
 よほど巧みに造られていたのであろう男女の押絵だが、その技術が巧みであることよりも、<押絵で表現されていること>自体に着目したい。押絵であるということは、そこには膨らみがある。輪郭がある。仮に我々が指先で触れてみたとき、そこに確かな存在を認識することが出来る。それは<絵>でありながら、<平面>に綺麗に収まってはいない。僅かではあるが、立体的に、我々の生きる世界に、立ちのぼってきている。それが<押絵>だ。つまり、「私」が奇妙な感覚を抱いた男女は、この現世に幾らか干渉して来ている。そこには命にも似た生々しい息遣いが潜んでいる。
 だからこそ、「私」は次のように述べた。

「押絵の人物が二つとも、生きていた」

 少なくとも「私」には絵画の中の人物、押絵を施された人物が生きているように見えたらしい。そして、絵画の持ち主である「老人」は、「私」が驚いた面持ちを浮かべたことを確認すると「たのもしげな口調で」、「アア、あなたは分って下さるかも知れません」と語り始めたのであった。

 「老人」の物語った内容を要約すれば、次のようになる。
 押絵に描かれた白髪の男性は、老人の実の兄である。兄は数十年前に絵画の中の娘に一目惚れし、恋心を募らせ、「ソッと押絵の世界へ忍び込ん」でしまった。「私」が見た絵画の中の男女は、「老人」の兄と、恋慕の情を向けた娘である。絵画の中で、兄とその女性は睦まじく暮らしているのだ。しかし、「娘」は「元々人の拵えたもの」であるので「年をとるということが」ないが、「兄」は「無理やりに形を変えたまで」で「根が寿命のある人間」なので「私達と同様に年をとる」。だから絵画の中の兄は──押絵の世界に忍び込んだ当初は黒髪の若い青年であった兄は──今となっては白髪の老人の姿をしているのであった。
 「老人」はこのように語ったが、絵画の中で年をとらずに生きているのは何も娘だけではないだろう。空も、風も、光の具合も、絵画の中では変わらない。絵画自体は変わらない。人の手により拵えられたまま、当初の景色のまま、絵画はそこにある。あえて変わる点を探してみるとするならば、歳月と共に絵画その物が、物理的に劣化するということぐらいだろうか。基本的には変化という概念の存在しない景色に包まれて、「兄」だけが年をとる。押絵の世界、すなわち異なる世界に飛び込んだところで、己の本来の性質は変わらないのだ。命のありようは、変えられない。


3.善意という暴力

 「老人」はその昔「兄」が忍び込んで行った絵画を一枚、額に入れて持ち運び旅をしているのだが、それには理由があった。「老人」──兄を慕っていた青年──は、「兄に新婚旅行がさせてやりたかった」のだと言う。「兄」は絵画の中に入ってしまったために、愛する女性と共に旅をすることなど到底出来ない。恋心が報われたからこそ、自由に動き回ることが出来ない。だから、弟である「老人」が数十年前から折に触れて絵画ごと風呂敷で包み、旅をして、汽車の中で風呂敷を解き額に入った絵画を窓の外へ向けて立て掛けていたのだ。そうして「兄」と、「兄」の愛する女性に外の景色を見せてやっていたのだ。
 これらの行為は紛うことなき善意であり、弟としての兄への愛情が為した結果であろう。しかし彼のこのような善意による行動に、わたしは微かな違和感を覚えずにはいられないのである。「兄」は本当にそれを望んでいるのだろうか。「兄」は、自ら離脱した<この世>の景色や季節の巡りを眺めることを本当に望んでいるのであろうか。
 そもそも兄は自分自身で<この世>ではなく<押絵の世界>を選び、そこへ忍び込んで行った。愛する女性の傍に居たいがために、<この世>を離れたのだ。しかし「兄」は、弟の善意によって新婚旅行をさせられる。<この世>を旅することになる。「兄」は既に絵画の中に存在するので、仮に何か思うところがあっても弟に対して直接意見することは出来ない。弟に絵画──自分が選んだ新たな世界──を持ち運ばれ、<この世>の移ろいを見ろと言わんばかりに汽車の窓辺に置かれてしまう。<押絵の世界>に於いて年をとるのは自分だけであり、それはおそらく言いようのない孤独感を生じさせることにも繋がるのだろうけれど、<絵画の外側の世界>すなわち本来生きていた<この世>の移り変わり、季節の巡りを目の当たりにすることによって更に己が異形の者であることを自覚させられるのではないだろうか。
 ──そう、<押絵の世界>に於いては、「無理やり形を変えたまで」である己こそが異形の存在なのである。己だけが、<外側の世界>と同様に変容し続けている。
 新婚旅行と称して見せられる<外側の世界>に居たならば、「兄」は決して奇異な存在ではなかった。極一般的な人間に過ぎなかった。「老人」の話しぶりから、当時で言えば多少変わった趣味を持っていたのであろうと推測出来るが、それでも珍しい趣味を持ち、時折趣味のために「随分高いお金を払」うような、「新しがり屋」の人間だった。しかし彼は<押絵の世界>を選んだことで、己の在り方をも変えてしまった。彼は異形の者として生きていくことを選んだ。先述のように、異なる世界に飛び込んだところで命のありようは変えられない。だからこそ、<押絵の世界>に於いては彼こそが異形の者となる。日々呼吸をし、年齢を重ね、変化していく存在──マジョリティとして存在していた「兄」が、マイノリティという存在へ転換される。
 自ら選んだとは言え、ある日突然マイノリティな存在として生きることになった戸惑い、あるいは過ぎゆく日々の中で己だけが年老い変化してしまうことから生じる孤独、それらは「兄」本人こそが一番理解しているだろう。「兄」こそが、自分の選んだ道の意味を理解しているだろう。だが、弟は善意による干渉を続ける。既に<異形の者>として存在せざるを得ない「兄」へ、本来ならば<正しい存在>として認められたはずの世界──もう手の届かない世界──の日々を、景色を、移ろいを、差し出し続けるのだ。

 「兄」は、本当にそれを望んでいるのだろうか──。


4.魅了されるこころ

 「兄」が絵画の中の娘を見つけたとき、彼は浅草凌雲閣の十二階から遠眼鏡を覗き込んでいた。謂わば遠眼鏡というフィルター越しに愛する彼女を見つけ出したのだ。
 また、「兄」は<押絵の世界>に忍び込むために、弟(「老人」)に向かって「お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか」と願った。弟が兄の頼みを聞き入れ言われた通りにすれば、さかさ眼鏡の向こうの兄は「二尺位に小さくなって、小さい丈けに、ハッキリと、闇の中に浮出して見え」たのだと言う。そうして兄は、消えてしまった。小さくなった兄は<押絵の世界>へ忍び込み、この世から姿を消してしまったのだ。
 ところで、この物語の中で一度だけ「老人」が声を荒げる場面が存在する。「私」と「老人」が接触し、言葉を交わし始めてすぐのことだ。「老人」は双眼鏡を「私」に手渡し、それを用いて絵画をご覧下さいと促す。何とも奇妙な提案だと訝しがりながらも「私」は双眼鏡を受け取り、覗いてみようとするのだが、不意に老人は「悲鳴に近い叫声を立てた」のだった。
「いけません。いけません。それはさかさですよ。さかさに覗いてはいけません。いけません」
 「私」はうっかり双眼鏡を逆さまに持ち、覗き込もうとしていたのだ。「老人」は数十年前に、遠眼鏡をさかさにして覗き込んだところ兄がその姿を小さく変え、押絵の中へと消えていった様子を目の当たりにしているので、さかさ遠眼鏡──逆さまのフィルター──を通して対象物を見ることの危険性を熟知しているのだろう。
 しかし、もしこのとき「私」がさかさ眼鏡で絵画を見ていたとしたら、どのようなことが起こり得ただろうか。逆さまにした遠眼鏡、双眼鏡で対象物を見るとそれらは小さく見えるのだから、絵画自体が小さく変化してしまったかもしれない。けれども、もしそんなことが起こってしまったとしても、絵画に合わせて「兄」も愛する女性も小さくなるのならば、兄達自身には然程大きな影響はないのではなかろうか。兄や女性にとっては、自分たちが更に小さくなり、しかし同時に自分たちが存在する世界も小さくなった、それだけのことなのだから。環境が大きく変化するわけではない。
 では、絵画自体が小さくなってしまったときに困るのは誰か。心乱されるのは誰か。それは他でもない、「老人」自身なのである。
 「老人」こそが、絵画に、そして押絵になった「兄」たちの存在に心を奪われていた。魅了されていた。数十年経った今でも絵画を手荷物に汽車へ乗り、一方的に押絵の「兄」へ<この世>を見せてやることによって彼の善意は、「兄」への慕情は、満たされているのだ。それはある種の依存でもあるのだろう。
 もはやそこには、「兄」の意志など存在しない。かつて彼が慕った「兄」の思いなど存在しないのだ。ただ、「老人」の善意──という名の、独り善がりなこころ──だけが、寂しく置き捨てられている。


終.存在を辿る

 押絵は膨らんでいる。押絵には輪郭がある。我々はそれに触れることが出来る。輪郭へ触れることによって、ただ視覚的に絵画を眺めるよりも一層強い存在感を認識することが出来る。押絵は、ほんの僅かに、我々の生きる<この世>へ生々しく干渉している。
 「老人」はそのような押絵を眺めて──時々は触れてみたこともあるのかもしれないが──、あくまで<押絵の世界>の出来事として、そこに描かれた風景を見つめることは出来なかった。実の兄がそこに存在しているのだから、当然かもしれない。単なる絵画、などと割り切ることは出来ないのだろう。だからこそ、例えば他の絵画や嗜好品と比べても一際愛でて大切に保管する、というような行為だけで終わらせることは出来なかった。
 押絵はその膨らみ、輪郭により僅かに我々の世界に干渉する。その存在と干渉に魅せられた「老人」は、押絵と共に旅をして、押絵の中の人々へ外側の世界を見せ続ける。僅かに干渉してきた押絵に、過干渉とも言うべき労力でもって接触してゆく。
 「老人」は、押絵の娘を愛した「兄」を見守っているはずだった。「兄」の恋心が叶ったと喜び、「涙の出る程嬉しかったものです」と回想している、はずだった。しかし「私」の前に提示されたものは、存在しているものは、押絵の施された絵画から離れることの出来ない、押絵と共に旅を続ける奇妙な老人の姿である。それはまるで、「兄」が押絵の「娘」に魅了された道程を、弟である「老人」自身がゆったりと時をかけて──自分自身が「老人」になってしまうほどの長い年月をかけて──丁寧に辿っているかのようだ。

 「私」よりも先に汽車を降りた「老人」の後ろ姿は、「私」が見た「押絵の老人」そのままの姿であったと言う。彼は駅員に切符を渡し、闇の中へと消えてしまった。

 ところで、序章に記した通りこの物語は二重の枠物語になっており、今までつらつらと述べて来た内容は我々読者が「私」により語られている、という形式をもって示されている。
 「私」は、我々読者に向けて物語らずにはいられぬほどに、その昔出会った「老人」の記憶に魅せられているのだ。彼もまた、物語ることにより「老人」の存在の軌跡を辿り続ける他に道はないのかもしれない。そしていずれ、彼は我々が聞いた「老人」を彷彿とさせる姿となり、闇の中へと消えていかざるを得ないのかもしれない。
 そのとき、物語を囲っていた<枠>はひっそりとひび割れる。主体は枠から遠去かる。

 魅了され、物語り、枠を形成し、その枠がひび割れたのち、己こそが物語の内部へと墜落していく。
 倒錯の連鎖。

 だとすれば、我々もまた──。



2019年10月26日 松本薬夏



※この度合同企画をさせていただく小雪さんによる書評ページはこちらです!(↓)

https://note.mu/diamd_/n/ne15a2944c8fb

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