【努力考察】高校時代、努力しなかった科目

そう、それは現代文の物語文


古典は割と得意だった。

あれはもはや外国語のようなもので、英語の長文読解のテストのように、出題されるポイントもなんとなく分かるし、踏めば良い努力も想像がついた。


元の文を読みながら、文法の項目や単語の意味を想起する。

その想起学習を繰り返すだけで、暗記できたものだった。

なんだかんだ毎回80-90点くらいはとれていた。


でも、小説、君だけはどうしようもない。


現代文の他の項目である説明文については、具体的に説明したい事柄があるのだろうし、読みにくい説明文があるのだとしたら、それはもはや筆者の説明能力不足に近い。真に論理的な文章、理系が書くような伝えたいことを端的に伝える文章であるならば、読みようがある。


でも小説は違う(多分)


あれはもはや芸術の領域で、筆者が伝えたい何かを表現する方法としてたまたま文章が選ばれたに過ぎない。


もし筆者が”絵”という表現方法をとったのならば、それは芸術もしくは美術の授業で扱われるものだろう。


その、筆者にしかわからない何かについて、学校でだれもが同じ水準になるように教育する体系となりえるのだろうか。


文学史とか、その時の文学の潮流とか時代背景はもはや史実の類だから暗記教科になりえるだろうけれど、小説の解釈はそれよりも本来筆者が伝えたいことの確度が少ないのではないのだろうか。


あたかも、「文章のこの部分は○○を表現しようとしている。」とそれ以外の解釈がありえないかのように教えないで頂きたい。


鎌倉幕府を1192年と覚えていたのが実は1185年でした というように、

今はこの解釈が正しいと言われているというように、絶対的に正しいかのように教えず、まだ変わる余地があるというように教えてほしい。


「文章のこの部分は○○を表現しようとしている。」と天下り的に教えるのではなく、「文章のこの部分は、△△という時代背景や、この作者がこの作品を作った当時◇◇という状況にあったから、○○を表現しようとしていると考えられる。」というように、その解釈を生み出せる方法論を教えるべきだと思う。


そうすれば、学校から出た後に小説を読んだときは、その文章に対して自分なりの解釈を創り出せる生徒が出来上がるんじゃないかと思う。


自分の解釈が間違っているんじゃないかと、ネットで解釈を創り出しちゃう人間を輩出しないように、ICT機器導入の前に教育でやることはあるんじゃないかと思う。


終わり


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