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スタンスとしての「当事者」と研究

 当事者であることは、当事者でなければならない主張を可能にする。例えば、「これまでの研究では当事者性が欠けていた」(例えば貴戸 2004, p.16)とかでろう。不登校の当事者性に関する研究として、貴戸(2004)を外すことはできない。その意味で貴戸の研究は、不登校研究や不登校言説にかけていた当事者性を補完し、当事者の論理を導き出しているのである(当事者として、不利益性を乗り越えた先の経験を語る)。

私は、私自身が「当事者」であることからは距離をとりたいのである。すなわち、「当事者だから言えること」ではなく、「当事者でも言えること」を目指すのである。それは、不登校研究を行うひとりの「研究者」として、「不登校」に向きあうことを意味する。研究のルーツとなる問題関心と、自身の当事者性は容易に切り離すことはできないが、かといって、すなわちそれらが順接的に接続されることを意味するわけではない(論理の結論に直接的につながるわけではない、ということ)。

 貴戸が目指したのは、「〈当事者〉による〈当事者〉の語り」(p.17)であった。それは、不登校を経験し、その後の生活を送った当事者でなければ語りえないことである。同時に、そうした経験を持つ当事者だからこそ、それは信用に足る語りであると言える。それに対して、私は「当事者ゆえの非当事者性的立場」に立ちたいのである。それは、端的には、当事者(ここでは不登校者だけではなく支援者なども含む)による論理における、自己擁護的なコンテクストを排した立場である。より具体的には、「当事者だから当事者を否定することに躊躇いがない」ということである。この意味で、不登校問題という極めて扱いにくいセンシティブな問題を、当事者性を持ち出すことによって初めて、実質的中立的立場から論じることができると見做すものでもある。すなわち、当事者性こそが、非当事者的議論を行うために不可欠なものであるとの立場であり、それこそが「当事者性から距離を置く」ということでもあると考えるのである。

 捕捉的に説明を加えるならば、いわゆる非当事者による不登校の不利益性を強調する論理が、時として、順接的に「不利益があるから学校に行った方が良い」という主張に絡め取られ、「当事者」からの批判を受ける。反対に、「当事者」からの不登校の肯定的論理は僅かかつ恵まれた例を材料として「不登校であっても自分らしく生きていく」と主張し、それは、不登校の不利益性や階層性を直視できないという脆弱な構造を築いている。貴戸(2004)が問題とするように、「当事者=不登校者」を媒介して、「非当事者」であるものたちの「都合の良い論理」が展開されてきた。だから、繰り返しになるが、当事者性/非当事者性を標榜する議論は、その二つのた対立する立場の議論に絡め取られてしまいかねない。「中立的であることを目指す」のは、その意味で、両者の議論から互いに距離をとりたいということだ。そのため、この立場からは、不登校の肯定/否定といったひとつの帰結を目指すものではなく、「当事者であってもなくても、普遍的な価値を持っていると信じて」(小松原 2022, p.28)議論を行いたいのである。

 揺るがない事実として、私は1人の「当事者」であり、「当事者性」を動機として「不登校」の研究に取り組んでいる。しかし、それは安直に「当事者だから研究をする」という論理に回収されるものではなく、むしろ、スタンスとして「不登校を語りえる者」としての「当事者性」であると考えている。当事者である自らの経験や感覚を、「当事者であると主張する第三者」(支援者や保護者ら)の論理によって代弁されることから距離をとる。同時に、自らは「当事者だから裏打ちされた論理」ではなく、繰り返しになるが、「普遍的価値を持った者」(端的には、科学的に然るべき手続きを経ているもの)としての論理を展開したいのである。それこそが、私が目指すところの、当事者からの距離である。

・貴戸理恵(2004)『不登校は終わらない――「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』新曜社
・小松原織香(2022)『当事者は噓をつく』筑摩書房

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