つくることは、向き合うこと
何か具体的にこんなものをつくりたいというよりも、ただつくっている状態でいたいと思う。
つくることは何かに向き合うことで、その向き合うを手にしたくて、つくる。ただ遠いところに行きたいのではなく、旅をしたくて結果的に遠くへ行くことになる。
目的と手段。そう考えてみると、若かりし頃の「自らの手でよりよいものをつくりたい」という願望はほぼなくなった。
自らが手がけた案件の大きさやつくったものクオリティから、誰かに届き賞を得たなどの結果には、全く興味がない。いや、昔はあった。けれど、今はない。
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つくるというよりも、投影しているに近いのだと思う。サッカーをしたいというよりも、親しい友人とチームプレイで勝ちを求める勝負事がしたい。
つくる機会を得たいだけ。そう考えるならば、つくった瞬間に、誰にも見られずとも半分は達成しているのだ。
本当にそう思う。じぶんだけでは決して向き合おうとしない出来事に、あっさりと本気で向き合わざるを得なくなる。じぶんの意思とはこうもちっぽけで、なんて影響力のないものかと思い知らされる。
と同時に、じぶんの意思とは裏腹に、まだ見ぬ世界へと連れて行かれることが心地いい。
例えばじぶんなんてものはWEBサイトをつくれるくらいの力しかないのだけれど、とあるご縁で九州の地域を盛り上げるWEBサイト制作を依頼され、気がついたら本気でその県のことを考えている。
今までで一度も降りたったことがない地へ、月に一度のペースで訪れては、本気でその地域の未来を考える。
じぶんの意思を入口にすることが、いかにちっぽけなことか。もともと誰かが持っている大いなる熱に乗せてもらえることが、いかに偉大なことか。
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つくり終えた瞬間に、もはやそれはじぶんのものではない。
依頼された人とともにつくりあげたそれは、その持ち主のものだ。だからつくりあげた時点で半分は役目を終えていて、半分は後見人としてともに見守っていく。
それくらいしかできないし、それがこの仕事の本質だと思うから。
だから、つくられたそれは結果として都合よく忘れ、また目の前のつくるを通して向き合わせてもらう。
最近、仕事とは別につくる機会を得ようとした。けれど、仕事じゃないからとブレーキをし、時間もかけられず、結果的にそこに愛着がもてないことに苛立ちもした。
つくる上で、本気になるのが最低条件。
もし何らかの制約によって本気になれないのならば、それは向き合っているとは言えない。
そして、つくる単位はそれぞれで。依頼されてスタートした時点でプロジェクトをつくっているとも言えるし、チームメンバーとの関係性をつくっているとも言える。
それはそうと、もしかしたら「つくりましたよ」と公の場にどんと出すことに、興味がなくなっているのかもしれない。
じぶんが知ってほしい人にだけでいい。それはまるで、子を育てる親のように。
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