小松菜の日 /20230516

小松菜の日ってあるのかなと思って調べたら、5月27日がそうだった。もうすぐだ。

大阪府堺市で小松菜や菊菜を生産している、有限会社しものファームが2006年に制定したとのこと。
そうなんだ、小松菜の日、あるんだ。

うちには有機小松菜が常にある。
わたしはほぼ調理をしないし小松菜を食べることもないが、常にある。

今日も在宅勤務で、お昼休みに鍼灸整骨院でマッサージと鍼治療をしてもらい、16時に引けていつもの病院に行ってきた。
ふだんは月曜日に行くのだけれど、昨日は15〜17時まで会議があったので。

手乗り文鳥と手乗り崩れと荒鳥を例に挙げながら自己肯定感の話をする。鳥はわたしにいろいろなことを教えてくれる。
手乗り崩れというのは、人の手で挿餌などをして育てられたが、そのまま引き取り手が見つからず、また少しずつ懐かなくなった若い鳥で、荒鳥というのは雛から一貫して親鳥に育てられたために人に懐くことのない鳥。

わたしの文鳥は小鳥専門店でほぼ一人餌になるまで大事に大事に挿餌で育てられ、よく人に懐いた状態でうちに来た。最初こそ環境の変化に戸惑うそぶりも見せたけれど、ほとんどの場合は天真爛漫に過ごしていた。わたしの下手な挿餌も頑張って食べてくれた。
でも、手乗り崩れの子は難しい。まず前提として一度得た信頼を失ったか失いつつある。そして、臆病だったり何か怖いものがあったりする。自分のペースもある。簡単には心を開かない。

というのを、自己肯定感の話と無理やり結びつけると、わたしはおよそ「特段すぐれた何かや理由のようなものがなくても人はただ(可能であれば安心して穏やかに)生きていて良いのだ」と実感したことがない。頭ではわかるが、感覚としてわからない。手乗り崩れのようなものだ。
そしておそらくはそのことがとても負担になっている。

とかなんとか話しているうちに時間が過ぎた。
「薬は出したほうがいいかな」と訊かれたので「今日は大丈夫です」と答えた。まだ山ほどある。「また来週」と言われて立ち上がったものの、わたしが最後のお客さんだったので振り返って聞いてみた。

「先生、何かしらアドバイスとかそういったものはいただけないですか? 今日わたしが一方的に話していただけみたいですけど」
「…」
「何かこう、身構えずに仕事に行けるような何かとか」
「洞察が深い」
「はい?」
「洞察が深いなと思って聞いていた」
「そうですか…」
「洞察が深く、正しい」
「…」

あのさ、洞察はさ、まあまあ正しいと思うんですよ。
だってわたしこればっかり20年以上やってるんだもん。肉挽きだよ。バートランド・ラッセルが『幸福論』の中で書いた「なぜ肉を挽くのか考えている肉挽き」。
わたしはもっとほかのことを考えたい。自分のことはもういいんだ。

肉挽きじゃない!
この話するとき毎回間違える。
腸詰の機械です、正しくは。

自分の内部にばかり目を向けている腸詰の機械は腸詰の機械として成り立たなくなった。この話は本当に示唆に富んでいる。わたしじゃん。

小松菜の日まであと少し。
小松菜の旬は冬なのですってね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?