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コーヒーとアリ地獄

とてつもなく久しぶりの感覚だった。
熱いコーヒーを、こんなにも美味いと感じたのは、一体なんだったのだろう。

嫌いだったわけではない。
ただ、飲み物のチョイスとしてあまりに、
遠い存在になっていたそれは、
なつかしい友に再会したような(いないけど)、
ほろ苦いよりも優しいだけが、シラフのまま一睡もできなかった身体に染みた。

もう朝の6時を回るのに、まだ薄暗い季節が来ていた。
いつもなら出勤前の目醒めの一杯をキメていた時間。
不思議と飲みたい気持ちにならない。

自らの身体を痛めつけ続けた地獄の日々から解放されていくのかもしれない、密かな高揚感に少し満たされる。

酒に奪われた人生

言うのは簡単だが、
奪わせたのは、まぎれもなく自分自身だ。
一日の摂取水分の8割が酒だったアル中の戦いに終わりはない。

それはまさにアリ地獄のようなものだと
アルコール依存の指南書で読んだ。

ゆっくり、ゆっくりと落ちていき
抜け出せたと思えば、すぐに足下をすくわれ
また落ちていく。

一度壊れてしまった脳のブレーキは、
決してもどることなどない。

しゃがみこんだコンビニの前から立ち上がり、
残ったコーヒーを飲み干し歩き出す。
夜中からの雨はやみ、
明るくなり始めた秋空の下

「酒をやめることで、取り戻すことのできるものはある」

行かなくなってしまったアルコール依存のクリニックで言われた言葉が、よみがえる。

失ったものが全て戻ることなどない。

人、金、時間、仕事
あったかどうかわからない夢。

一度この道に踏み入れてしまった先に
勝ち負けも、ゴールもない。
そこにあるのは、落ちればアリ地獄行きの脆い吊り橋が、永遠に架かるだけの一方通行だ。

吊り橋から落ちても、また這い上がるのか
そのままアリ地獄に喰われるのか。

それでもふとした瞬間に、
遠いあの世界に、たしかに生きた小さな断片を拾い積み重ねる。

そうやって生きていくしかないのだ、
それがいとも簡単に、吊り橋とともに簡単に崩れ去る日が何度来ようと。