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第四十四話「100万円」2024年8月13日火曜日 快晴 朝から猛暑

 「まずは100万円。ーーいかがですか?」

 彼女は私の目をまっすぐ見つめて言った。

 1時間ほど遡る。
 約束の時間の少し前に庁舎ビル11階の面談ルームに着いた。日の出と同時に猛暑の朝だ。エアコンが効いているのに汗がひかない。行政施設は断固として28度設定を崩さないようだ。
 手拭いがすぐに使い物にならなくなった。鞄の中にもう一枚あるが、それも時間の問題だろう。我慢して用をなさない手拭いで、もう一度汗を拭う。
 定刻の10時に彼女は現れた。区に委託されている起業・創業アドバイザー。失業したばかりの私が最初に相談を受けた先生だ。
 今日は、起業するにあたりどんな段取り、順番で動けばいいかを相談に来た。愚かな話だが、先に物件を決めるのか、融資を受ける(正確にはその準備をする)のが先なのか?それすらわからないのだ。
 そして、虫のいい話だが、自己資金がなくても自分の店を持てるのか?そんな裏技があるのか?を聞きに来たのだった。
 私は4回の起業セミナーを受講し、その結果、起業に気持ちが動いていることを告げた。初回の相談の時にも伝えていたが、自己資金が全くないことも改めて伝えた。そのうえで次に何をするべきか、を訊ねた。起業を志す者にとっては非常に幼稚で初歩的、恥ずかしい質問だろう。起業セミナーでもそこははっきりとは触れなかった。おそらく当然すぎるくらい当然のことなのだ。しかし、私にはわからない。
 起業本やインターネット。情報は山ほどあるが、そこから選んだり勉強したりしている暇はない。生身の先生がいて、その先生を独占でき、しかも無料の窓口だ。使わない手はない。
 彼女は私の意図を汲んでくれた。小馬鹿にするような態度は一切なく、しかし噛んで含めるように丁寧に説明してくれた。
「物件の選定と取得が先です。なぜなら、融資を受けるために『開業計画書』が必要だからです。この計画書には、お店の住所が記載されます。つまり『どこ』で商売をするのか?が必要なんです。『その街』で『いくらの物件』で『誰に』『どんな物・サービス』を『いくら』で売って、『客数』はどれくらいで、日に『いくらの売上』、月に『いくらの売上』が見込めるのか?を計画していきます。この計画がなければ、融資は受けられません。融資と返済はセットなんです。返済が見込めない商売に融資はありえません。そして、『どの街で』『どのような物件で』という情報が抜けていたら、計画そのものが立てられないのです」
 非常にわかりやすいロジックだ。こんなことにも気がつかない自分の愚かさに嫌気がさすが、スルーすることにする。愚かであることにいちいち立ち止まるのは、もっと馬鹿馬鹿しい。
 「でも、その物件を確保するお金がありません」と私は言った。間抜けな返答だが、これもスルーだ。自分の間抜けさ加減にはもう50年付き合ってる。取り立てて新しいことではない。
 彼女は続ける。
「何かのご縁があって、無償で物件を押さえてくださるような大家さんや不動産屋さんはいらっしゃいますか?」
そんな都合のいい知り合いはいない。そう言った。
「では、その物件を確保するためだけでも自己資金を貯めなくてはいけません。飲食店が軌道に乗るまで、つまり黒字になるまで一年かかると言われています。できるなら、その期間の生活費も確保しておくことをお勧めします」
いくら必要なんだ?途方もない金額が必要かもしれない。
「ある物件を押さえる。その保証金が家賃の6ヶ月分とところもあれば12ヶ月分というのもあります。サトウさんは城北地区でワンオペのお店という希望があります。となると家賃は20万円を切るでしょう」
彼女は一拍置いて言った。それが冒頭の言葉だ。
「まずは100万円。ーーいかがですか?」
物件取得費用だけ、と考えるなら自己資金を貯めるひとつめの目標額としては妥当ではありませんか?と。
 自己資金無しでの裏技起業は質問することさえなく、見事に粉砕されたわけだ。
 失業。貯金なし。借金あり。アルバイト生活。そして、田舎の年老いた両親。
 不安要素ばかりだ。
 それでも。

 ーーおもしろい

 と思った。

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