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第二十九話「自分を信じる」2024年7月6日土曜日 曇りのち雨

 エスプレッソ抽出の基本的な流れは

 1.ドーシング
 グラインダーからポルタホルダーにコーヒーの粉を入れる動作

 2.ドーシングアップ
 ポルタホルダー内の粉を詰める動作。粉に触れずにグラインダーのフォーク状の部品でホルダーを叩き、粉を上下方向に詰める

 3.レベリング
 山状の粉をほぼ水平に均す動作。指や掌を使うこともある。ホルダーの前後左右を叩いて粉を揺らしながら均すこともある。

 4.タンピング
 粉に平らに圧をかけて押す動作

となる。
 この流れにもちろん違いはない。ないが、全体的に軽やかだ。ベテランだから力みがない、無駄がないというのとも違う。ふんわりと動いている。
 私は、常に同じ動きをしろと習った。ドーシングアップを二回と決めたなら常に二回。レベリングを指でするのであれば常に指で、そして常に同じ動作で。ダンピングは25kgの圧をかける。体重計まで使って圧のかけ方もトレーニングした。
 先生はドーシングアップのタイミングや回数も統一していない。レベリングは掌でポンと蓋をするように抑えるだけ、ダンピングにはどう見ても25kgの重さがかかっているようには見えない。
 コーヒー豆は農作物であり、同じ産地・農園でも毎年品質は異なる。それを均一化するために豆をブレンドし焙煎度合いも変える。納品後も豆の品質は劣化していくばかりだ。毎日の気温や湿度。それも味わいに変化をもたらす。コーヒーの周りには変数が多すぎる。だからこそ、バリスタは常に同じ動きをするのだ。
 私はそう習った。

 私は先生の背後から先生の動きを観察していた。私からの視線は見えないはずなのに、先生は私に声を投げかけた。背中に目があるのか?
「サトウさん」
「はい」
「不思議ですか?」
 不思議だった。私は正直にそう答えた。自分の動作と全く違うことも告げた。先生の動きは変数を増やしている。それでは常に同じ味わいのカップにはならないのではないか?失礼ながら、そういうニュアンスもわずかに含めた。
 先生はにこやかに笑って言った。
「そうです。コーヒーには変数が多過ぎる。だからーー」
先生は続ける。
「だからーー、常に変えるんですよ
「ーーーえ?」
「サトウさんもおっしゃいました。豆は農作物。作柄は異なる。焙煎度合いも変えている。焙煎後は豆は劣化していくばかり。気温湿度は常に変化する。だから、私もそれに合わせて動きや圧を変えているんです」

 私のイメージするコーヒーを数式化するとこのようになる。

 X ≒(a×b×c×……)× Y

Xが抽出後のコーヒー。提供するコーヒーと言っていい。小文字はコーヒー豆そのものを含めたコーヒーに関わる全ての変数。変数の項目は無限と言ってもいい。Yはバリスタ。Xを常に一定もしくはそれに近づけるため、Yは常に定数でなくてはならない。だから、等式ではなく、ニアリーイコールにならざるを得ないのだ。
 しかし、先生の動きを数式化するとこうなる。

 X =(a×b×c×……)× y

Xを導き出すために、バリスタの動きyは定数ではなく、変数とする。Xは常に同じ。等式にするために自らを変化させる。先生は事もなげにそう言っているのだ。
 そんなバカな。
 これが経験の差か。
「サトウさんの学んだ事、気をつけてきた事も間違っているわけではないんです。むしろ正しいのです」
先生は優しく言った。
「サトウさんは研修で学んだとおっしゃいました。限られた期間の中で、ある程度のゴールを求められるのが研修というものでしょう。サトウさんはそれをしっかりと学び、身につけて毎日毎日正しく繰り返された。
 ただ、そういう限られた期間では教えきれない部分もあります。ある程度レベルまで達していないと伝わらない部分、受け取れない部分です。
 でも。
 サトウさんは私の動きを見、ご自身との違いを発見し、疑問を持ちました。私のちょっとしたヒントだけでその違いを理解できました。それはサトウさんが研修を真摯に受けとめ日々正しく再現し続け、ある一定のレベルにまで到達した証拠です。長い間よくがんばりましたね」
 私は間違ってはいなかった。不安でいっぱいだった、自分のこの年月を誇ろう。

 閉店の時刻になった。私たちは荷物をまとめて帰り支度をした。
 私たちは先生に礼を述べ、帰路についた。  
 ありがたいことにクッキーはほとんど売れていた。しかし、帰りのスーツケースが軽かったのは、そのせいだけではなかった。
 私のコーヒーはまたひとつ美味しくなる。その自信が生まれていた。
 振り返ると先生は、降り始めた雨の中でまだ見送ってくれていた。

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