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第十六話「石は転がり始めた」2024年5月29日水曜日 晴れ

 台風は通り過ぎていた。時折風が強く吹くが湿り気のないさわやかな陽気だった。
 東京下町の問屋街に来ていた。ひょんなことから知ったシェアリングコーヒーショップへ見学がてらコーヒーを飲みに来ていた。
 店は同じだが毎日店主が変わるという珍しい趣向の店だ。いつかは自分の店を持とうと挑戦している者たちが開業前に試行錯誤する場を提供するサービス。都内に2店舗ある。そのうちの1店舗に訪れたのだ。
 カウンターメインの小体な店。店主は水曜日担当の若者だった。豆は産地別に3種類から選べる。私はエチオピアのゲイシャ種を、N美さんはグァテマラを選んだ。店主はハンドドリップで丁寧に淹れてくれた。
 ちょうどランチタイムでコーヒーの時間ではない。客は私たちだけだった。
 店主とおしゃべりする中で私の訪店の意図を告げた。失業していること、いつか自分の店をという選択肢もあるのでないかと思っていたいること、そのチャレンジをシェアリングという形で試せることに魅力を感じていること。
 店主は私に
「どんな店にしたいとかあるんですか?」
と訊ねてきた。
 突然失業し、この先の生活のことを優先的に考えていた。独立できたら楽しいかもしれない、そんな程度のことしか考えていなかったのだが、不思議とすぐに答えが口をついた。
「情報量の少ない店がいいな。極端な話し、メニューのコーヒーのところには、値段以外には『コーヒー ホットorアイス』としか書いてないような、そんな店です」
「いいですね、それ!」と若者は言った。
「もちろん、訊かれたら答えるけど、お客さんに知識を押し付ける感じにはしたくない。お客さんの知らない用語ばかりの店にはしたくないですね」
私の言葉を受け取って、彼は言った。
「情報は確かに大事ですけど、それがお客さんにとって高いハードルになっちゃ本末転倒ですもんね。そのバランスって大事ですよね」
 思いもよらない賛意をもらった。なんだか心が軽くなった。

 とは言っても、自己資金もなければ事業計画もない。今の私にできることはまず船長とのコラボ企画ワークショップの準備だ。
 翌30日に企画書を練り直し、フライヤーを作っていた。そんな時にメールが届いた。先日参加したセミナー事務局からのものだ。区が主催する起業セミナー4回コースの案内だ。もちろん無料だ。このセミナーを受講すると融資を受けられやすいとも書いてある。
 すぐに申し込んだ。
 並行して、ワークショップの会場予約をし、シェアリングコーヒーショップへの再度の見学について問い合わせメールを送った。次はその事業を展開する事業者と直接話したいと思ったからだ。
 砂粒のように小さな石だが、それは確かに転がり始めた。

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