見出し画像

私が知りたいのは人が何を想い、何を考え、何をするのか。『学問からの手紙(宮野公樹)』より

今日は最近読んだ本で非常に印象深かった、宮野公樹さんの『学問からの手紙』という本とそれについて感じたことを書いてみます。

私にとって、10年以上ずっと思っていたこと感じていたことが、はじめて、ちゃんとした方によって言語化されているのに出会うことが出来たといえると思います。

もしもあなたが大学での勉強や、学ぶことそのもの、あるいは自分は何がしたいのか、といった疑問を持っているなら、読んだら何かヒントになることがあるかもしれません。(いわゆる”お勉強”のことについて書かれた本というよりは、人として善く生きるとは、ということについての本だと思うので、学問とか研究とか自分には関係ないや、って思っている人にも。)

この本と出合うきっかけは、先日京都大学の「学際融合教育研究推進センター」というところが毎月やっている「全分野交流会」なるものに参加したときのこと。その時の会のファシリテーターをしていたのがこの本の著者で京都大学の准教授の宮野公樹先生。

この「全分野交流会」をはじめとした「学際融合教育研究センター」に興味を持ち、関連する本はないか、ということで注文して読んでみたという経緯です。

なぜ「全分野交流会」に参加したのか

私のことをご存知の方はお分かりかと思いますが、別に私は京都大学の学生でもなく、近所の大学だった、というわけでもなく、言ってしまえば特にゆかりはありません。まして、いわゆる研究者の道を進んでいるわけでもありません。

けれど、そうした見える経歴とは別にして、おそらく高校生くらいの頃からずっと関心のあった、「学際」や「異分野融合(この言葉への宮野先生の違和感は本に書かれていますが、ここでは世間でのイメージに合わせてあえてこの言葉を使います。)」といったことについて、何か手掛かりになることがあるのではないか、ということで参加をしました。

なぜ「学際」に関心を持っているか

ここでは異分野融合や関連のことなど、すべて「学際」という言葉でまとめてしまいますが、なぜ「学際」に関心を持ったのか、といえば、生物学、物理学、哲学、社会学、のように、もっと言えば分子生物学、進化生物学、など細分化された〇〇学について、それらの関係性や意義、目指すところになどについて知りたかったからといえると思います。

「学際」といっても、元々は学問は一つであって、「学際」に関心を持ったという言い方になるのは、少なくとも私には「学問」がありとあらゆるもの、事を総動員して「真理」を目指している、ということを実感できなかったからであり、また世間的にも、学問分野は色々分かれている、という認識であるということの現れであると思います。

もっとも、○○学、のように名前を付けて分類・細分化すること自体については、その実用面などから見て、そうするべきではない、とは思っていませんが、どこかそれぞれの○○学の目指すところばかりが浮き上がり、本来学問が目指すべきであろう”真理の探究”(この言葉のあいまいさや危うさについては本の中で触れられていますが、これも私が思う世間一般のイメージに合わせてあえて使用することにします)といったことが念頭に置かれていないのではないか、と感じたわけです。

『学問からの手紙』に書かれていること

このあたりで本の内容についてかいつまんで取り上げてみます。
章立ては全部で3章になっていて、こんな構成です。

【第1章】大学で学ぶということ
【第2章】学問の役割
【第3章】学者として生きる

1章は著者の宮野先生が京都大学の1,2年生に向けて行った講義での話や質疑をもとに執筆されたもの。

2章は学問の役割と題して、以下のようなテーマについて論を展開しています。

学問と勉強の違い
就職に学問は必要か
興味関心と課題解決
大学で出来る事
基礎研究を問い直す
研究者の自由な発想や好奇心に基づく研究と趣味の違い
いまだ異分野融合を叫ぶ現状を投げく
専門家、研究者コミュニティの要不要論

最後の3章は、この本の編集者の方が宮野先生の研究者としての生き方、考え方について質問して答えていく形式で進んで行きます。もともとは理工系の専門だったところを、30代半ばごろにいわゆる”文系”の方へ研究の焦点を移していった経緯や考え方、そして現在の仕事である学際融合教育研究センターでの様々な取り組みなどについて書かれています。

学ぶとは。学問とは。大学とは。

それぞれの章の要約をしてもいいのですが、そこは読んでみていただくとして、全体を通して描かれていると感じるものをいくつか取り上げます。

まずこの本の中で使われている言葉のうち下の3つについて書いてみます。

学ぶ:自分を知ること
学問:よく生きるために必要なもの
大学:学問をする場所

勘のいいひとはこのたった3つの言葉の使われ方を見るだけで著者のスタンス(と私が認識しているもの)がわかるかもしれませんが、”学問”は”学者”、”研究者”だけのものではなく、まして論文を書くことが目的ではありません。となれば当然大学は論文を書く(だけが目的の)場所ではありません。

「我々の生き死ににおいてすべてが答えのない問いである」、ということが本の中で書かれていますが、私たちがこの世で生きていくにあたって絶対に確かなことなど何もなく、誰もがなぜ生き、何を為すために生き、死んでいくのか、といった問いに私たちは常にさらされています。

つまり、大学とは「自分を知り、よく生きるために必要なことを問い、考える場所」なのです。

大学という場所についてのイメージのずれ

どうでしょう?これ、私たちが一般に思う大学のイメージと結構違っていませんか?

大学といえば、多くの高校生にとって何となくレールとして進むべきもののような場所としてあり、そこへ入るためにたくさんの問題集をこなし、解法や知識を覚え、場合によっては浪人という形で年月をかけてようやく入ることを許される場所。

そして入試を経験した多くの大学生にとっての大学は、2年生の頃には成人を迎えて酒が飲めるようになり、バイトにサークル、”勉強”を含めて高校の頃制限されていたものから解放され、”人生の夏休み”ともいえるような場所であり期間となっているように思います。

3,4年生になれば多くは就職活動を経験し、このときになって初めて「自分は何がしたいのか?」ということを考えるのではないでしょうか。もちろん、ここで色々と考えて自分の進む道を見つけることのできる人もいるのでしょうが、就活の儀礼にならって、「御社こそ自己実現の場である」というある種の思い込みで自分の本心を上書きして得た「自分のやりたい事」であることが少なくないと思います。

はなからそれを全否定するつもりはありませんし、そこで決めたファーストステップの先で努力し、その中で自分のやりたい事や意思に気が付くことが出来る人も決して少なくはないでしょう。そしてとある人材会社のアンケート結果によれば(n=761人)大学を卒業した人の7割強はそこそこ大学生活に満足をしているようですし、私自身の通っていた国際基督教大学(ICU)の知人友人を見ていても、大学にはそこそこ満足している人は多かったように思います。(もっとも、ICUは例年卒業生の大学満足度が特に高い大学の一つとして知られており、その点偏りはあるのでしょうが。)

さて、ここで、別に現状の大学の現状について良い悪いと断ずることや、満足度について議論がしたいわけではありません。

ただ、上にのべた”多くの大学生”像がある程度現状を表しているという前提にたてば、先に書いた大学とは「自分を知り、よく生きるために必要なことを問い、考える場所である」という大学の「あるべき」姿からすると少しイメージは違うと言わざるを得ないのではないでしょうか?

「自分を知り、よく生きるために必要なことを問い、考える」とは?

ここで、自分を知り、よく生きるために必要なことを問い、考える、ということがどういうことなのか、もう少し掘り下げてみます。

この設問について、まず「自分」とは何か、から始めて色々と議論をしていくことは出来るでしょうが、ここは本の中の言葉を引用して、あえて大雑把に大胆にいきたいと思います。

著者はこのようなことを書いています。

考え続けたその果てには自分が自分でなくなる、自分とは何かよくわからなくなる地点に必ずたどり着きます。それは虚無。あらゆることに意味はないと深く自覚する瞬間です。しかし、それでも自分は考える。
(中略)
学ぶことは自分を知ること。自分を知ることは自分を無くすこと。自分を無くすとは「あぁ」の領域で生きること。そしてこれこそが、前半に話した「何かに突き動かされている」の「何か」なのです。それは自分を超えたところにある「存在」という物への畏怖、興味。それがあらわれる認識こそがまさに生き死にを味わい深くする根本です。

どう思いますか?著者の意図したことをすべてその通りに受け取ったわけではないでしょうが、私にとっては言葉としてとてもすんなりと、それこそ「あぁ、そうだなぁ」というように入ってくるものでした。

「あらゆることに意味はない」、なんて言うと「どうしたの?病んでるの?」なんて言われそうですが、そうではありません。いや、そうかもしれません。が、やはり強くそう思います。

自分は何者なのだろう、死んだらどうなるのだろう。このように色々と考えを巡らせている自分が消えるというのはどういうことだろう。あるいは、自分と自分でないものの境界はどこにあるのだろう、他者とはどういうものなのだろう、世界と自分との関係性とはどのようなものなのだろう。

途方もない問いです。考えを深めれば、すべては虚無であることに気が付く。そしてその虚無という理を超えた存在に思いをはせ、耽美し、生の喜びを謳歌し、また耽る。。。

「あらゆることに意味はない」といっても、「じゃあ死んでしまえばいい」とかそういうようなことではないというのは分かっていただけるのではないでしょうか。

「自分を知り、よく生きるために必要なことを問い、考える」

というのは掘り下げてみればそのくらいの壮大で、果てしなく、虚無であり、希望のようなものでもあるわけです。

結構ロマンチックな世界でしょ?笑

問いを深めるために必要なこと

さて、話もそろそろ大詰めです。自分を知り、よく生きるために問い、考えるというのは時に挫けそうになるほど無慈悲で、壮大で果てしなく、終わりがありません。

この終わりなき自分を知り、よく生きるために必要なことを問い、考える旅の途中について、つまり大学について著者はこのようなことを書いています。

考え詰めていけば、どうしようもなく我々は最初から最後まで「言葉」なのです。僕は言葉というものに想いを馳せるたびに、なにかこう自分の思考が遙か彼方まで広がり、悠然たる歴史と溶けて一色になったような、なんとも言えない気持ちになります。
そして、それを語ることが出来る信頼のおける人たちとの対話を心から求めます。僕にとっては、こういう精神の営みこそが大学四年間でやることだと思えます。

そうです、この終わりなき旅、ずっと一人で続けなくてはいけないというわけではありません。

大学が自分を知り、よく生きるために必要なことを問い、考えるための場所であるのなら、まさによく生きるための問いとそれに対してのその人なりの想いを時に優しく、時に激しくぶつけ合い、さらに「善い」ものへと昇華させていく。こうした対話こそ大学四年間でやることではないか、という著者んの言葉には感じ入るものがあります。

幸いにも私自身は何人かこういう対話の出来る友人がおりますが、誰とでもこうした話が出来るか、といえばそれは残念ながらNoといわざるを得ません。

対話を阻むもの

なぜこうした対話が出来ないのか、といえば、先のような自分の根本、本質に深く関わる問いを掘り下げて考えることは、時にその存在理由や意義を問うことになり、人によっては自分自身そのものが全否定されたり、それまでの生き方を否定されたような気になったり、あるいはその人の中で考えることを避けてお茶を濁してきた部分を指摘されたり。
そんな風に感じられることが少なくないということがあるのではないでしょうか。

私もこれまで、こうしたその人の本質について、本当は聞きたいと思っていたけれど、失礼にあたるのではないか、関係が壊れてしまうのではないか、と思って聞けなかったことが幾度もあります。

大学での勉強に関して言えば、ほとんどすべてにおいてそうであったといっても過言でないかもしれません。私の専攻は生物学で、物理学も授業数としては同じくらい取っていたわけですが、特に大学の基礎科目の授業の中では、そもそもこの理論は本当に正しいのか?といったことよりは、基礎的な知識のインプットや、重要な理論の理解、証明などが多くなります。

そこに課題やら、大学のその他のことやら、と色々やっていると、「そもそも論」について丁寧に考える時間を作るのはかなり大変です。

さらに言えば、授業で教えてくれる先生方も、専門のことにはもちろん詳しいですが、他の分野(として扱われているもの)についてはほとんど知らないことが多いので、学問本来の「知」の中で、どんな意味があるのか、といったことについて専門的に詳しい方には、大学にいる中ではとうとう出会うことが出来ませんでした。

あなたは何を想い、なぜそれをおこなっているのですか?

いやはや勇気のいることです。専門の先生に向かって、二十歳そこいらの若者が、あなたのその研究はどんな意味があるんですか?という問いを投げてそれを掘り下げていく。

私は結局その思い切りと覚悟、そしてそうした見栄を切るだけの下準備となる努力が足りていなかったのでしょう。(いなかった、と過去形にするのも何か違う気がしますが。)

ひとまず新卒として社会へ出て、大学の頃には知らなかった世界にふれ、改めて今「問うこと」「考えるを考えること」に立ち戻っているような気がします。

徹頭徹尾、その人がどんな価値観で何を考え、何を思って何をするのか。本質的にはそのことにしか興味がないのかもしれません。

おわりに

『学問からの手紙』を題材にして色々と書いてきましたが、改めて、こうした事を大学機関に所属しながら発言している人もいる、ということをもっと早くに知れていたら、自分の行動も変わっていたかもしれません。

が、こういう人もいるというのを知ることが出来たことは、それこそ自分の存在を赦されたのではないかと感じるほどに、私にとっては大きなことです。

まだ具体的な道は見えていませんが、このような想いを蔑ろにせずに仕事をしていきたいものです。もっとも、ここまで考えてしまって、なおこうした想いを踏みにじるようなことはやれと言われてもできないのでしょうけれど。

何かを知るのは本当に時に残酷なもので、何もしらなければよかった、何て思ってしまうことがあるのは私だけではないはず。

今日書いたような話をしたい人や、何か関連する仕事を紹介してくれる方がいたらご連絡ください!(何卒よろしくお願いします。)

最後までお読みいただきありがとうございました。

※意見やコメントもあれば是非書いていただけると励みになります!

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?