ドクターストレンジと『幸せ』の話

ドクター・ストレンジMoM(吹替)観たよ。
『幸せ』が一つのキーワードだったと個人的に思う。
以下、ネタバレあります。

先の闘いで1400万605分の1のifを見て、最善の一手を選んだストレンジ。
冒頭、そんな彼にとある市民が問う。
「この結末が最善だったのか?」
沢山の犠牲の上に成り立つ今の平和が最善だったのか。犠牲無くして手にすることができる未来もあったのではないか。
そんな幸せなifの可能性を問われる。
しかもこの直後、元カノにまで『幸せ』を問われるダブルパンチである。
初っ端から悪意のない精神攻撃が凄い。監督はカンバーバッチに恨みがあるのか。
ストレンジは「知るかよそんな事。」って顔して今が最善の未来だと答え、虚勢を張って幸せだとも言い張った。
一見他愛もない序盤の前座のようにも思える会話だったが、あのシーンこそ本作の抱える命題への問いかけだったんじゃないかと感じる。
エンドゲームのその後を歩むドクター・ストレンジに課される試練、『幸せ』の在り方。
前置きが長くなったが、ドクターストレンジMoMは『幸せ』を見つける物語だ。

『幸せ』の非現実性

今作のヴィランを務めるのは『幸せ』のifに取り憑かれた二児の母である。ディズニーのポリコレ神拳は二児の母をアメコミ映画史上屈指の極悪ヴィランに仕立て上げるまでに至った。
冗談はさておき、『幸せ』を問われたヒーローと相対する本作のヴィランは、『幸せ』に取り憑かれてヒロイックを喪失した元ヒーロー。
なんとも皮肉が効いているマッチアップである。
素直に脚本巧すぎない???

ワンダ改めスカーレットウィッチと対峙する過程で、ストレンジは嫌でも『幸せ』の非現実性を痛感していく。
ユニバースを渡り歩き、誰もが傷付かず平等に『幸せ』を手にする未来などどこにもない事を悟るのである。
極め付けは、『幸せ』を追い求めた成れの果てにあるもう1人のストレンジとの邂逅だ。
彼はどこかスカーレットウィッチと似ている。利己的な『幸せ』に取り憑かれたあまり、己を見失った姿は正に瓜二つであった。
しかし、決定的に違うのは、紛れもなく、どうしようもないほどに、彼はストレンジ本人であるという点だ。
バッドエンドのその先の自分。
今後あり得るかもしれないifなのである。
哀しき運命を辿ったヒーロー。
究極のエゴイズムに支配され、堕ちた魔術師がそこには居た。
天性のエゴイストであるストレンジにとって、この出会いは決して他人事ではなかったであろう。
なにせ、他人ではないのだから。
自身のエゴにケジメをつけなければ、いつかそうなるかもしれないのだ。

程なくして、物語はサム・ライミの作家性が大暴れする最終決戦へと突入する。

「ん?空気変わったな…。」

………ボコッッッッ!!!!(墓から腕が生える音)

「ファーwwwwwwwwwww(歓喜に打ちひしがれて脳が溶け落ちる叫び)」

いや、アメコミ映画で墓から腕を生やすな。
サム・ライミはやってしまった。
タイカ・ワイティティやクロエ・ジャオ、今まで担当する監督がその創作哲学で映画を染め上げて、全く新しいジャンルの型破りなMCU作品が生まれる事は確かにあった。
なんなら、それが映画ファンとして非常に嬉しく、また、楽しくもあった。
そして、サム・ライミはやってしまった。
サム・ライミといえばホラー映画、いや、ゾンビ映画とは切っても切り離せない腐敗臭漂う最悪の男(持ちうる語彙を使った最大限の褒め言葉)である。
今作もふんだんにホラー演出が取り入れられるという話は前々からあった。
しかし、ゾンビ映画を作るとは聞いていない。
ストレンジが自身の死体に憑依して闘う最終決戦。
同人誌か????
いや、ちょっとズルすぎ。ばりくそカッコいい……。

今更であるが、ドクター・ストレンジとは魔術を駆使して闘うヒーローである。魔術とは言い換えるならば“オカルト”だ。“オカルト”であるならば、そこはホラーの領域でもある。つまりはサム・ライミの独壇場。
MCUのイントロが始まったあの瞬間、そう最初から我々はサム・ライミの領域展開に引き摺り込まれていたのだ。
不覚にもこの時点まで全く気が付かなかったが、ドクター・ストレンジとサム・ライミの親和性については端から確約されていたのである。
魔法好きの皮肉なオジサンとホラー好きの変なオジサンは手を取り合えるのだ。どんなタッグだよ。そんなコンビ嫌だ大賞2022受賞。

話を戻そう。ホラー好きの変なオジサンはこれほどまでに作家性を暴走させたものの、最終決戦の決定打は残念ながらゾンビではなかった。
自分の『幸せ』を優先し、愛する我が子の『幸せ』を考慮していなかったスカーレットウィッチにその非現実性が痛恨の一撃を放ったところで今作の闘いは決着がつく。
私利私欲だけで掴み取れないのが『幸せ』なのだと。
物語が、そう語る。

エゴイズムと『幸せ』の定義

「あなたはいつも自分でメスを握らないと気が済まない。」
ドクター・ストレンジのエゴイズムを表す象徴的な台詞として、今作で何度か登場する台詞だ。
己でメスを握る事がかつての彼の『幸せ』だった。
しかし、ドクター・ストレンジとは学ぶヒーローである。外科医の命、両腕を失っても尚、啓発力と不屈の精神だけでここまで歩んできたニヒルなオジサンだ。
エゴによって破滅したもう1人の自分と、そして、彼女を、その目で見て学習したのであろう。
エゴとは『幸せ』から1番程遠い感情であると。

彼は、ウォンに一礼する。自分以外の誰かがメスを握ることへの敬意の念を込めた一礼。
ドクター・ストレンジの枷であったエゴイズムから解放される瞬間だ。


1400万605分の1の中から最善の一手を選ばなければならなかった彼の呪縛は計り知れない。決して軽い決断ではなかったであろう。その選択によって沢山の犠牲が生まれたのも、また事実だ。
でも、それでも、彼は、“今”が『幸せ』だと答えられるようになった。

無数の出会いと別れを以てして、ここに在る“今”。

一面的な『幸せ』はこの世に存在しない。

苦痛や災難や不幸が在るからこそ繋がる今。

あの時の選択が最善であったかどうかは関係ない。

その選択があったからこそ繋がる今。

それが『幸せ』なのだとストレンジは胸を張って言えるようになった。

このオチ、クッッッソ好き。

ドクター・ストレンジMoMは『幸せ』を見つける物語だ。
ついでに『幸せ』を見つけた代償として、目が一つ増える物語でもあった。(なんで??????)

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