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写真同好会. Ⅰ

私が高校生の時、2年間所属してた写真同好会でのお話。

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 高校1年生の11月。私は写真同好会に入会した。入会する前までは軽音楽部で同学年の人とバンドを組み、半年キーボードを弾いていた。

 入学当初から写真同好会に入りたかったが、カメラも持っていなかったし、母親に反対されて諦めた。そして母親に勧められた軽音部に入部した。

 その年の12月、父方の祖母が病気で亡くなって、久しぶりに伯父に会った。伯父はカメラをやっていたから持っている。カメラを始めたから欲しいと話したら、お下がりで8年落ちの一眼レフカメラをいただけた。今では10年落ちだけれど、嬉しかった。

 年が明けて4月、高校2年生になった。先輩が所属していたみたいだけれど、活動していなく、幽霊部員だった。そこで、私が会長になった。私を含めて2人しかメンバーがいなかった。しかし、友人が興味を持って3人入会してくれて、5人でスタートした。

 1年生の時は、文化祭でL判の写真を飾るだけしか活動をしてなかった。そこで、私が色々なことをしたくて本格的に活動を始めようと思った。顧問の先生が定年退職されて、進級したタイミングでかわった。他県から着任した先生が顧問になった。

 2年生の年は、2つのフォトコンテストと地元の展覧会に作品を出した。先生の提案で、高校から近くの公園でみんなに写真を撮りに行ったことも。今まで全く活動していなかったところから、1年以内にここまで増やせたのは、写真同好会にとってすごく成長したと思う。その頑張りが認められ、三学期には校長先生から 「昇降口に作品を展示しないか」 と声がかかった。もちろん、すぐに行動に移した。

 3年生。1年生の後輩がたくさん入ってくれた。
 この年は、1人2つ〜4つのフォトコンテストと地元の展覧会に作品を出した。公園に写真も撮りに行った。そして地元で毎年開催されている高校自慢の展示で使用する写真の撮影、学校HPで使用する写真の撮影もした。昇降口には季節をテーマにした作品の展示を行った。

 悩むことはとても多かった。辛くて投げ出したい時もあった。完璧主義で相手にも完璧を求めてしまう。強要してしまった部分もあるかもしれない。

 フォトコンテストなどの重要な連絡を確認してくれず、集まりの日にスムーズに進まなくて時間がかかる。とても困った。毎回困った。私のやり方を変えなければならなかった。けど、その当時はそんな余裕もなくて。私だけ頑張ってその努力も知らずに…って思ってた。顧問の先生に相談したら私のことを1回も否定しなかったし、みんなのことを悪く言うこともなかった。それに何度救われたことか。しかし、救われるだけで私は何も変われなかった。若しかしたら、先生のことを困らせていたかもしれない。

 高校自慢の写真は、生徒会からの依頼だった。撮影メンバーは私を含めて4人だった。依頼されたものを撮ってデータを渡したら、生徒会長が私たちのいない所で文句を言っていたと聞いた。怒りが湧いた。私たちも暇でも何でも屋でもない。文句を言うなら最初から貴方が撮ればいいのに。日差しの照りつける夏の屋外や体育館の暑い中、何百枚も撮影して、そこから選別して編集するのにどれだけの時間を要したのか。考えてほしかった。けれども、未経験の人に理解しろなんて言っても無理。遣る瀬無い気持ちになった。会長以外のメンバーにも心無い言葉を言われた。耐えられなくて顧問の先生に話した。そしたら生徒会の先生に伝えてくれて、謝罪があった。

 顧問の先生からは、あまり自分を犠牲にしないように と。逃げてしまったら無責任だと感じて、辛くても自分が我慢すればいいと思っていた。自分を大切に出来ずにいつも傷ついてた。急に変われるわけもなく、そのままだった。頼ることも甘えることも苦手で出来なくてひとりで抱えこんだ。

 当時は本当に辛かったけど、今となってはいい経験になったと思う。その経験から学べたこともたくさんあるし、先生の考え方や価値観に少しだけど触れることができた。そして、先生の考え方が好きだし、とても感謝している。

 引退したのは高校3年生の1月。自由登校に入る前に幕を下ろした。後輩たちに私の思いをしっかり伝えることができた。そして、同級生のメンバー1人と顧問の先生が “よく頑張った、すごい” と褒めてくれた。私は嬉しさと寂しさで涙した。


素敵なお写真お借りしました。ありがとうございます。

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