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【あのこは貴族】の感想

本稿は映画『あのこは貴族』のネタバレを含みますので了承ください。

映画館で「あのこは貴族」を見てきたので、今日は適当に感想をこぼしていこうと思う。



上流階級に生まれ落ちた女性と、大学生活のスタートと同時に地方から東京に出てきた女性を主軸に置き、主にそれぞれの生活や価値観を描いた作品。ただ単に家庭それぞれの資本の格差について言及しているのではなく、個々人のエゴや社会にこびりついた差別についても触れられていて、終始刺すような感覚に襲われた。

「みんなちがって みんないい」と誰かが詠ったが、周りの基準と自分の基準があまりにもかけ離れていたら、それはもうある種の暴力という形にまで派生してしまうのか、とこの映画を見て感じた。


友人の「ちょっとお茶しよ~」のノリで付いて行ったアフタヌーンティーの値段が5000円近くだった時の、華子の何ともいえない顔が忘れられない。驚愕と若干の焦りを含みつつ、なんとか平静を保とうとしていたあの顔が忘れられない。埋めようとしたくともなかなか埋まらない経済格差の存在に気付いた時、わたしは、ひいては人間はどんな顔をするのだろうか。


誰が悪いというわけでは決してないのに、結果として誰かが傷ついているという構図が心苦しかった。



中でも、出産を控えたママたちのホームパーティーでの会話が一番印象に残った。



「夫が家にいるなら働けって言うのよ。」
「周りの人にあそこの奥さんは何もしないで遊んでるって思われたくないのよ、きっと。」
「それって家事育児に影響が出ない程度に働けって意味なのよね〜結局。」
「そうそう。」

(こんな感じの内容だった気がする)

このシーンを見て、わたしたち日本人の潜在意識下にこびり付いた性差別を垣間見たような気がした。家のこと全般をやってくれるのは奥さんだ、という考えの人間は少なくないと思う。そもそもそう思ってることにすら気づいていない人間、と言ったほうが正しいだろうか。


かくいう自分も社会に息づく構造的な差別の一端であるのかもしれない。加害者サイドになる可能性をいつでも孕んでいるという考えこそが差別に加担することへのストッパーになるとわたしは信じている。

正義にもなれるし悪にもなれてしまう、という思考は正常な倫理観と結びつけばきっと自然と抑制の方向に導いてくれるだろう。この無知の知のような考え方は様々な場面で応用が利くので、忘れてはならないと強く感じた。


また、この作品での『結婚』は単なる自分の存在価値の証明やステータスアップとしてのイベントと捉えられていたのが妙に悲しく、映画館を去った後もその気持ちは心の底に沈殿して離れなかった。わたしの中での『結婚』は幸せの象徴という認識が強いので、作中でのそれはいささか無機質に近い感覚を覚えた。

映画を通じて毛色の異なる人間に出会い、全否定することなく「こういう人もいるのか~」と素直に許容できた点と、価値観の違う人間を見たことによって自分の幸せへの指針が改めて確認できた点の二つが今回の収穫かもしれない。

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