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些細な言い回しの違いで、印象は大きく変わる

「バイバイ」よりも「またね」がいい

同じ言葉だと思うだろうか。私は決してそう思わない。
私はあえてそう言おうと思うことがない限り、「またね」と言うようにしている。







先日投稿予定だったテーマだ。
前回はだいぶ私のイメージ像と異なる世界観だったようにも感じるが、面白いと思ってくれた人や興味を持ってくれた人がいたようなので、これはこれでよかったと思うことにしたい。

様々な私がこれからも垣間見えるだろうが、ぜひお楽しみいただきたい。





表現者としての意識かもしれない


今回私が書くのは、些細な言葉の違いがもたらす印象の変化だ。


今この瞬間にも、違いを表現してみた。
例えば「言い回し」を「言葉」へと変えてみた。
どう感じるだろう。
私は「言い回し」と言えば

他の表現の仕方もあるが、あえてその表現を選択する

という意味合いで使いたくなった。

それに対し「言葉」はもっと気軽に使えるものだと思っている。
”意味の守備範囲が広い” と言うべきだろうか。
より広義に、私たちが紡ぐ ”ことば” を想定してこの表現をしてみた。
今ひらがなで書いたのは、個人的な印象としてだが、こちらの方が不特定の誰かから生まれることばを想定しているように思えるためだ。
漢字の「言葉」は、特定のある者から生まれた、あるいは特に意味を持って選ばれた言の葉をさしたいときに用いるような印象を持っている。
私が紡ぐ言の葉の違い。そういう意味を表現したくて、漢字で書いた。

だいぶ丁寧に解説しながら書いてみたが、いかがだろうか。

他にも少々違いがあるが、ぜひその意図を推測してみてほしい。
もちろん、無意識に変化を生じさせている箇所も多いというか、ほとんどかもしれないが。


なぜこれをテーマにしたいと思ったのか
貴方に意識して読んでほしいポイントだ と思ったからである。
幸せなことに、私の書く文章を待ってくれている方が何人もいた。
その中に、他の仕事とともに、ライターもやっていらっしゃる方がいる。
その方が初回の私の文を読み、こうコメントしてくれた

最後の方の「さくせん」が平仮名なのはわざとかい?

さすがライターさんというべきなのだろう。
ここを気にした方がどれだけいただろうか。
わざわざ取り上げていることからお分かりいただけると思うが
実はここにも意図がある。


私は、ドラゴンクエストというゲームが好きだ。
いきなり何を言い出すのかと思うかもしれないが、これがある種の答えである。

また、同時に、このゲームで得た学び・経験こそ
私の考え方や人生観の、大事な構成要素の一つなのだ。
詳しいことはまた別の機会に書く。
あるとき突然このことは話しているかもしれないから、気になる方は用心して読んでほしい。

ドラゴンクエストでは、戦闘中の仲間の行動をAI自動化するときに(自動プレイと言えばわかりやすいだろうか)、その方針を「さくせん」コマンドから選択する。
このコマンドは、漢字表記のパターンもあるかもしれないが、私の印象では圧倒的にひらがなだ。
そうした背景があり、後に続けた ”さくせん” もまた、ドラゴンクエストの「ガンガンいこうぜ!」
当然、本来の表現に従うべきだと思った。
だから「さくせん」はひらがなで書いたのだ。

この方にも簡単にお話した後、こんな言葉もいただいた。

自分の色で、すきにかきましょう!

そうだな。そうしよう。
素直にそう思った。
だからこそ、私の色を表現するために、言い回しを考えてみる。
せっかく考えたのに、だれにも伝わらなければそれほど悲しいことはない。
ゆえに、ここで書いて、貴方に意識してもらえれば
私の世界を知ってもらうためにも非常に良い影響を与えると思ったのだ。

「自分の思ってることを書き連ねるだけなのに、推敲なんてする必要があるのか」という問いがあった。
必要なのだ。まだまだ不十分かもしれないが。ここまでの文章だけでも、少しはその理由をご理解いただけたのではないだろうか。


ぜひ、私の ”言い回し” というポイントを意識して読んでみてほしい。


なぜ「またね」?

ここからは、私の話。
冒頭の文について、お伝えしたい。

私は「バイバイ」に対して ”別れ” をイメージする。
「またね」に対して ”また会おう” をイメージする。

これが簡単な結論と言えるだろうか。
また明日にでも会うかもしれないのに、わざわざ別れを告げたくない。それよりも、こんなあいさつを交わす仲なのだ。また明日も会いたいに決まっている。





私がこの差を明確に意識して使い分けるようにし始めたのは、小学生の頃である。


「バイバイ」と言われたときに「もうこの人は私と会うことを望んでいないんだ」と感じたのがきっかけだ。





私は過去に吃音を持つ者として生きていた。今も持っていないわけではないが、症状が出る頻度はとても低くなっている。
私の吃音についてはまたいつか書くことにする。


ここでは吃音は、最初の音を繰り返したり、詰まったり、引き延ばしたりすることを言うとだけ思ってもらえればいい。私は前者2つが特に多かった。



これらの症状が出ると何が起こったか。
会話が始まらなかったのである。いつまでも私が言おうとする一つの単語を待つことになったのだ。
これが怖くなり、私は人と話すことを避けることが多かった。
もちろん、単に対人コミュニケーションが苦手だった、下手くそだったことも原因ではあるが、やはり人と関わることは怖いことだった。

小学生の私には、充分すぎるほど、心を疲弊させる要因だった。


当時の「バイバイ」は、何気なく言っていた、悪気のないことばだったことは理解している。今は。


でも、だからこそ、私にはその時にある言葉が輝いて見えたのだ。それが

また明日!

という友人の言葉だった。
明日もあの友人は私と会うことを、私と話すことを望んでくれているのかもしれないと思った。
それが当時の私にとって(もちろん今もだが)、どれだけ嬉しいことだったか。

学校に行きたくないと思うことだって多かった。でも行けた。
この言葉があったことも大きな理由の一つになっていたと思う。


それ以降、「バイバイ」だとか「さよなら~」とか、言うのが嫌になった。
相手が、もう会いたくないと思う人であったり、今後会うことができない人ならば別ではあるが。



少し逸脱しよう。もうそろそろ終わるから、お付き合いいただきたい。


私は ”会話する” ということが苦手なようである。


文字通り解釈してもらって構わない。
そのため、面と向かって話し合う機会をほとんど作れない。
これへの対策として一つ、私がよく行うのが「またね」という挨拶だ。


また明日、また来週、また後で…
どれも ”またね” の派生だ。



ここまで読んでいただけたならわかると思うが ”貴方に明日も会いたい” というメッセージを伝える意図がある発言、挨拶だ。



友人に何か変化が生じたとき、歪な何かを見出したとき、私に対する不信感を持っているのではないかと感じたときなど、場面は様々であるが、
関係性が崩壊しそうな友人に対し、特に意識的に「またね」という挨拶をするようにしている。


言葉には力があると信じている。ただ並べることばではなく、伝えたい気持ちを込めた言葉には、特に。


私は自分の思いを上手く友人に伝えることができない分、せめて「またね」という言葉から ”貴方との良好な関係を望んでいる” という意思を伝えることで、その友人を大切に想っていることを伝えようとするのだ。




なぜ、「またね」なのか
なんとなくわかっていただけただろうか。
私は、私のことを大切にしてくれる全ての人に、また会いたいと思うのだ。



一つ注意してほしいのは、この文章は皆に対し、「またね」と言ってほしいということを伝える文章ではないということである。
あくまで私が、このような考えを持っているのだということを遺す文章だということを、忘れないでいてほしい。




この文章をここまで読んでくれた貴方に、
非常にシンプルだが、私は伝えたい。












貴方にまた、訪れてほしい。
私の書く文章のもとへ。

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