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60. パインの缶詰

 映画好きなら、もしかすると私がこれから何の話をしようとしているのか、もうすっかり分かってしまったかもしれない。はいはい、と思っていただいて結構。30缶食べきるまで、しばしお付き合いください。

 4月1日に女の子に振られ、5月1日の自分の誕生日期限のパイナップルの缶詰を買い続ける。パイン缶は彼女の好物。30日経ってあの子が戻ってこなければ、この恋は終わり。健気な青年は無事30個の缶詰を食べるハメになり、悲しみの中ゲボを吐く。やがて重慶のビルの森の中、失恋した青年刑事と金髪美女のドラッグディーラーの人生が、ほんの一瞬交差する。
 皆さんご存知の映画『恋する惑星』。重慶森林、Chungking Express、どれも最高のタイトルである。若いうちに観てこれ僕/私じゃん…..と思わずに完走できたなら、大したものである。オムニバス形式の恋愛映画で、1994年の作品でありながら、いつ観てもとてもスタイリッシュで新鮮である。男も女もかっこかわいく、茶目っ気があり、生き生きと血が通っている。共感するか、恋するかの二択を迫られているような気にすらなる。冒頭のエピソードに30個の缶詰と、真面目でヘタレな青年が出てくる。
 30個の缶詰なんて青春そのものだよな、と青年と同い年になった今では思う。指折り数えて全て大事に思い出し、吐きそうになりながら(あるいは実際に吐きながら)忘れようとする。舌に残る甘ったるい味と、涙のしょっぱさと、凄まじい胃もたれ。10代とはまた違った20代の恋、こんな感じだった。

 自慢ではないが、20の頃からほぼ毎年恋人に振られている。その度にひどく失恋している(当たり前)ので、忙しいことこの上ない。金城武演じるあのヘタレな青年に共感するどころではなかった。大学生の頃に観て、その日一日中、パイン缶から外に出られなかった。吐きそうだった。
 恋ばかりしてきたわけではないが、なんとなく交際して、大抵自分の落ち度で愛想を尽かされてしまう。悲しい。友人たちにこいつは平気だろ、と思われがちでも本人としては一大事である。一月のうちに3キロ痩せ、睡眠薬が手放せなくなり、17日連続で同じ夢を見た。毎年懲りずに苦しんで、喉元過ぎれば熱さ忘れてます。笑ってください。

 懲りない中、恋愛で学んだことが一つある。恋愛でしか学べないことは一つもないということである。身もふたもない話だが、これを学ぶために恋愛してきたと思えるほどには、自分にとっての真理だった。

 4回生の頃に義憤に駆られて書き散らした長い怪文書の中に、世の中があまりにも恋愛に重きを置きすぎている、という旨のことがあった。親しくなれば互いに恋愛事情に踏み込み、男女二人でいると冷やかされ、色恋の影がなければ「枯れている」などと言われる。大人たちは『野菊の墓』から学ぶことを知らない。
 尊敬する知人が「恋愛をしてこなかった奴に良い作品を作れるわけがない」と言うのを聞いてその時ばかりは、ほざけ、と思った。経験上、恋愛なんか知らないねと言わんばかりの生活をしている奴の方が、ずっと良い作品を作っているような気もする(どちらにせよ他人の私生活を詮索するものではない)。
 恋愛のほかにやることが山ほどある人生なのに、その一つをすっ飛ばすだけで外野にとやかく言われることが、私には我慢ならなかった。「童貞処女」を気にする十代の子たちが悲しい。的外れな希望を持ち続けて恋愛という概念に裏切られ、「一人」だと思わされる方がずっと恥ずかしくて惨めなのに。

 大学の簡素な卒業式の後、河川敷に一人で飛行機を撮りに行き、それから友人とお酒を飲んで話し込んだことがあった。大真面目に、愛について話した。こっぱずかしいが、今も考えることはほぼ変わらない。他人に広く抱く「愛」は、恋愛より確かで穏やかなものであり、性別はさほど関係ないこと。互いへの尊重なしには何の関係も成り立たないこと。紆余曲折あろうと、家族のことは愛してしまうということ。友人たちへの気持ち、親への思い、恩師のこと、学問のこと、課外活動のこと、青春を注ぎ込んで必死に打ち込んだこと、どうにもならなかったこと。どれをとっても、恋愛に劣るどころか、もっと堅実で豊かなものに思えた。恋人がいてもいなくても、おそらく「一人」だったことなど一度もなかった。恋愛も他のあらゆることも、すべて同じように私たちにとっては「教育」だった。信じること、尊重すること、よく知ろうとすること、よく知ってもらうこと、話し合うこと、向き合うこと、共に前を向いて、そして自分で生きていくこと。

 ところで今日で、結婚を考えていた人に振られて60日が経った。パイン缶30個というか60個です。食べきったような気もすれば、全て戻してしまった気もする。単調な甘さと缶詰の閉塞感みたいなのを思い出して、ひとりでにくすくす笑ってしまう時がある。とても幸福だった。しかし良くも悪くも、すぐに元気になってしまう。なぜなら、私には素性の分からぬマブい金髪女からの誕生日メッセージよりも素敵なものがあるから。「この思い出に期限はない」。愛する人たち全員からもらったものを、大事に大事に抱えて生きていく。「一人」を知らずに生きていく。

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