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57. 思い出せないこと

 心の一部がずっと北海道にある。3月に桜が咲いているのを見ると未だにえーッ?と思い、真夏は外で立っていられないのをどうしても理不尽に感じる。長い梅雨にも慣れなければ、蚊の多さにもいちいち仰天してしまう。
 札幌に5年間住み、大阪に7年と少し、東京に2年半住んだ。定住した期間が一番長いのは大阪のはずだが、「帰りたい」のはいつも札幌だった。魂の一番柔らかな季節を、あの涼しい土地で過ごしてしまったからに違いない。7歳から12歳のうちに、濃い友情があり、初恋があり、初めての大きめの挫折があり、別れがあった。家族に聞いてみても、あの5年間のうちは比較的に衝突も少なく、経済的にも困ってはいなかったから、一番幸福だった、と答える。
 夏は海に山に繰り出し、秋は栗を拾いキノコを摘み、冬はスキーとスケートをした。芸術の森の敷地と北大のキャンパス内の静かな小川、積丹岬の群青色の海が、小さい頃の私のお気に入りだった。芸術の森は屋外にもアート作品があり、キッズに理解できるようなものではなかったが、栗を拾ったり滑り台で遊んだり、野原を駆け回ることができればそれで満足である。敷地内にベニテングダケがよく生えていたのも楽しかった。
 夏の北大のキャンパスの美しさは格別だった。北大はポプラ並木だけではない。青々と茂った高い木の下には芝生が広がり、クローバーを積んだり、まだ青いどんぐりを拾ったり、澄んだ小川に裸足で入ることができた。人間がほとんどいなかった。秋は、農学部生が植えたらしいじゃがいもを掘らせてもらった。500円で取り放題だった。良心的すぎる。確か馬もいた。拾い道路を挟んで家の反対側にまた別のキャンパスがあり、馬がゆったりと歩き、人間がその上に跨っていたりした。冬はただただ静けさがその上に降り積もった。
 積丹ブルーという言葉があるほど、積丹岬の海は見事な群青色だった。崖を下ると黒々とした岩場の間に目の覚めるようなコバルトブルーが見えてくるあの瞬間が、私の子供時代に見た一番美しく幸福な情景だったかもしれない。海水は冷たく、ゴツゴツとした大きな岩の底にはウニがびっしり貼り付いていた。父は腰まで浸かって魚を釣り、私は潜ってウニやカニにちょっかいを出していた。野生児だった。
 冬は辛くはなかったように思う。毎朝車のガラスについた霜をとり、汗だくになりながら除雪をした。雪だるまを作り、つららを片っ端から折って遊んだ。道で転ばぬように、靴の底には金属の返しのような滑り止めがついていた。ゆるゆるとリンクを回るだけのスケートをして銭湯に行き、イオンで夕飯を食べ、家に戻ってテレビを見る。平凡であたたかな家庭の記憶。

 もう忘れてしまっていることが本当に多い。クローゼットから分厚いダウンを引っ張り出した時に一瞬蘇るスキー場の匂い、夏の終わりに空が明るい時の高揚感、東京には珍しい雪が降ったときの悲しいようなうれしさ。いつか忘れてしまっているということすら思い出さなくなるのだろう。ただ、ふとした折に幸せな記憶があったという感触だけが蘇る。良い夢を見た朝のように、なぜかうれしい気持ちだけを抱えて生きていく。どの季節にもどの気温にも、どんな風にも幸福の気配があった。明るい記憶が年々積み重なり、どの年もスーラの点描のように調和を保っていてくれたら。何もかも忘れていく頭でボンヤリと微笑む。何か良いことがあった気がする。

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