21. 見届けたもの

憧れになる その前に
飛び込まなくては いま解き放つ
けものが眠り就く前に

『犬王』劇中歌『独言』、薔薇園アヴ、2022

 予告編を見て、一気に引き込まれた。顔の見えない異形の踊り子が伸びやかに歌う30秒ほどのこの歌が、彼らの人生を象徴していた。

 三種の神器を引き揚げたために呪いを受けて盲になった琵琶法師の友魚と、同じく呪いを受けて異形として生まれ犬と育った犬王の物語である。
 これまで女王蜂の音楽や湯浅政明監督作はあまり刺さらなかったが、製作陣も声優も豪華であること、最近見終わったアニメ『平家物語』の余韻が抜け切らなかったことから、友人と誘い合わせて劇場へ向かった。

 始終動悸が止まらなかった。以前から『風立ちぬ』などの作り手の魂をなぞるような作品に目がなかったが、『犬王』はまさしくそんな物語だった。凄まじい熱量だった。表現者が集まって、「表現者の物語」を語り直す。大きな時代のうねりと、いく層にも折り重なったクリエイターたちの命の片鱗が見えた気がした。
 迫力と臨場感。実写映画でも感じたことのない臨場感があった。長い脚を得て走る、瓢箪の面から外を覗く、舞う。観客は犬王になり、名も無い京都の住人になり、盲の友魚になり、「観客」になる。2021年に公開された劇場版エヴァンゲリオンでも、アスカが無気力なシンジをシメて食べ物を口に押し込むシーンのカメラワークが凄いと話題になったが、あれともまた違った凄さである。視点の遷移、揺れ動きだけでなく、五感が伴っているのである。
 盲になり、谷一と出会う友魚の「ないはずの視界」をクリアに描いた場面の連続で、きっと多くの人が作品に没入し始めただろう。石畳に落ちる雨粒、琵琶法師の声、刻まれた名前、砕ける波、団子の匂い。五感と感情の揺れ動きに共鳴する。そして観客の一人として、犬王と友魚を見つめる場面では、群衆の熱気や地響きのような声援、匂いまで伝わってくるような描写である。
 やがて終盤に近づくにつれて、盲としての友魚の視点の描写はないように思えるが、竜中将が始まる前の文字通り駆け抜ける緊張感、二人の一体感は見事である。友魚は、心を通わせた犬王の目から見ることができたのだろう。そして水面を滑る金色の踊り子も、盲としてではなく、我々と同じように見えたことだろう。
 犬王と友魚は互いに高め合う表現者であり、魂の片割れであり、時代と盛者必衰のことわりに飲み込まれる者だった。どの時代も、登りつめた表現者たちの行く末は大きく変わらないように感じる。友魚のように仲間や師、自分の命までも犠牲にして己の表現を突き通すか、犬王のように静かに諦め、権力の下で能力を活かすか。二人の選択がはっきり分かれたあの無音の舞は、大きな劇場のスクリーンで轟いていた。観客全員の鼓動が聞こえるようだった。
 彼らの生きた南北朝は「平家」という歴史物語の謡いが生活と共にあり、貧富を問わず誰もがその熱狂に入り込むことができた。激動の時代ならではの状況だろうが、少し羨ましく思う。
 己の表現を貫くこと、魂の片割れと出会うこと、託されたものを語り続けること。邂逅に始まり邂逅に終わる、一つの歴史の中を共に泳ぐような作品である。
 鴨川の上で、橋の下で、四条の交差点で亡霊が踊る。琵琶が鳴る。京都の夜がたまらなく恋しくなった。

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