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18. 暮らしと祝福

 気づけば周りがベージュ一色である。同年代の男も女も、一様にベージュとアイボリーに包まれている。さながら縄文時代である。皆生成り色でさっぱりとしており、そして各々「丁寧な暮らし」に勤しんでいる。シンプルに生きることを推奨されるのは概して不景気の時代なんだ、とついついひねた考えを抱いてしまう。洗いざらしの清貧をまとうようでうっすらいやになり、この頃は逆行して少し派手な柄なんかを着てみる。水タバコばかり吸っているような文系大学生の出で立ちになってしまう。
 「丁寧な暮らし」って何だろう。アンチ丁寧な暮らし、と言ってエナジードリンクやカップ麺の画像をあげる萎びたユーモアがあるが、健康と気持ちの余裕を大事にしたスローライフを指すのだろうか。さらに上を見てみると、持ち物を極力減らし、身の回りには上質なものを少量置く、という生活を選ぶインフルエンサーの皆さんである。器と椅子を有名なデザイナーの作品にし、日々季節の花々を生け、アートに触れる生活が「丁寧」なのだろうか。そうかもしれない。

 「小鳥と歌い、舞踊を踊るのがそんなに高尚か。刺す」
 みんな大好き太宰先生の(川端康成に宛てた)名台詞である。これに対しては全くの同感である。丁寧で「高尚」な暮らしは、他人に見せるためだけに工程を増やすようなものではないはず。カギカッコ付きの丁寧な暮らしが好きで、人に見られることに喜びを感じるならばそれでいいだろうが、みんながみんな縄文時代の格好をする必要はない。

 森茉莉は『貧乏サヴァラン』の「楽しむ人」という章の中で、流行りの生活に対し、

 そういうのはほんとうの楽しさでない。皮膚にふれる水(又は風呂の湯)をよろこび、下着やタオルを楽しみ、朝起きて窗をあけると、なにがうれしいのかわからないがうれしい。歌いたくなる。髪を梳いていると楽しい。卵をゆでると、銀色に渦巻く湯の中で白や、薄い赤褐色の卵がその中で浮き沈みしているのが楽しい。そんな若い女の人がいたら私は祝福する。
『貧乏サヴァラン』、森茉莉、早川暢子編、1998、新潮文庫

と書いている。たしかに「祝福」される生活だなあ、と思う。
 『貧乏サヴァラン』とは言うものの、森鴎外のご家庭に生まれたお嬢さんであるから、流石に書いてあることは我々の思う「貧乏」とはほど遠いものの、共感できることも多い。(きっと今のご時世ではこのタイトルではとてもじゃないが出版できなかっただろう。悲しいことに、間違いなく炎上してしまう)
 SDGsに配慮しなくたっていい。ワントーンに揃えなくてもいい。ファストフードを食べたって夜更かししたっていい。ワンカップ大関だって飲んでいい。生活に絶望していなければ。たまに少し手の込んだ食事を作り、自分のために(他人の目を気にせず!)好きなものを選び、明日に向けて気持ちを整える。小さなことにつど喜びを見出す。そういうことさえできれば「丁寧な生活」どころか、「丁寧な人生」ではないだろうか。
 祝福は気の赴くままに、暮らしの隅々にあることを願う。

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