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59. 不都合な話

 刀を鳥に加へて鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。聲ある者は幸福也という言葉がある。どうやら斎藤緑雨の『半文銭』に載っているらしいが、定かではない。もともとは詩人の「声」の話である。
 たしかに、魚介類に声があれば、活け造りも踊り食いもなくなりそうなものである。魚に痛覚があるかないかで定期的に議論が起こっているような気がする。神経系が我々よりも単純なので、半身を削いで水槽に戻しても「問題ない」らしい。しかし、2014年のペンシルバニア州立大学の研究によると、我々とは違う「痛み」であっても魚には侵害受容器という器官がついており、外からの刺激や害となるものを検知するという。魚のエラの後ろに針を刺すと、脳への電気信号が急増する。あまり知りたくない不都合な事実である。魚は美味しいので。

 道徳や正しさという概念を、私はあまり大事にしていない。不道徳を是とするわけではないが、都合が良いか良くないか、感情、権利への侵害があるかどうかで考えてしまう。魚に痛覚があるかどうかは、どうでもいいことである。私たちはどうしたって、魚の身体感覚を知り得ない。ただ、魚に痛覚があると認識されれば、食べる私たちに「痛み」が発生するから議論になる。「かわいそうランキング」において魚の地位がほんの少し向上する。自分の感情にとって都合が良くないので、私はその方が美味しいことを知っていながらアサリを水から茹でることはしない。後味の良くない方が困る。

 クジラや犬を食べてはいけない。イルカを捕らえてはならない。「賢い」私たちの方を「痛み」から守るためのルールである。道徳は存在しない。羆がもし毛むくじゃらで、あの目がつぶらでなかったら、もしハダカデバネズミの見た目であのサイズだったらどうだろう。「撃ち殺すなんてかわいそう」という人も随分減る気がする。声が大きい奴とつぶらな瞳を持った奴が軽々と動かせるものが私たちの「優しさ」や「道徳」であってたまるか、と思う。自分たちの都合でしかないことを意識して、立場の弱いものたちに向き合っていたい。

 あの人は大人だから文句言わないかもしれないけどさ、私たちはそうはいかないよ、という言葉がしばしば職場で聞かれる。そして権力勾配のさほど大きくない時、事態は大抵「声の大きい人」や「顔の良い人」に有利な方へと進展していく。大多数の感情が守られてしまうからだろう。
 いわゆるインセルの声がやっと聞かれるようになったのも、インターネットが本格的に普及してからである。「容姿が優れず、社会的地位の低い」彼らの声を聞く理由が社会にはなかったから、「痛み」は検知されない。彼らが痛みを共有してその声が大きくなった時にようやく、私たちはその存在に目を向ける(目を向けた結果が、「無敵の人!」と指差して笑ったり恐れたり、というのは残念でしかない。「道徳」の敗北)。

 「かわいそう」という感情が大きくなって転がり出す前に、意識して分解してみる。真面目さを装った復讐だったり、私怨だったり、無意識の軽蔑、見ていたくないというただの不都合な感情だったりすることがほとんどである。そうでなければ、日頃の鬱憤を他人由来の涙で流し去りたい時である。これを自覚しなければ、声の大きい奴しか見えなくなってしまう気がして、いつも「かわいそう」の前に立ち尽くす。この痛みは誰のものだろう。

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