統合失調症の私たち〜私たちは全員が「心の病気」なのです〜『奇跡講座』のいうところの心とは、、、
心が病気ならば、心の癒し、真の根本的、根源的ヒーリングとしての原因レベルでのアプローチのゴール設定は、夢から目覚めていくこと、解脱の方向にしかない
心とは
心の病気とは
正気を取り戻すには
解脱の準備をする
1 心とは
私たちが、通常、心について語る時、私の心や、あなたの心、といったように、個々に分離した心が、それぞれに、何かを感じていることや、何かに反応して嬉しいとか、悲しいとか、知覚していることについて言及しているということに気づきます。
ですが、ここで通常使っている概念は、突き詰めて考えていくなら、それぞれの肉体の中の頭脳について語っているということに気づきます。
肉体の知覚というもの、つまり、五感で感じているもの、感覚について、頭脳が考えていること、頭脳が思っていること、頭脳が感じていること、について、感じているというところを司るのを心、考えたり、思ったりすることを司るのが頭脳という分け方をしているつもりかもしれませんが、なぜ、全てが頭脳についてなのかというと、個別の体験としての快楽や苦痛を感じること、一喜一憂というものは、頭脳が、その目の前で起こった出来事を経験する際、その状況について、どう考えているか?どう思っているか?つまり、その個人の頭脳の思考の癖によって、好ましくないものは、感じ方がネガティヴだったり、好ましいと思っているものは、感じ方がポジティブだったりと、瞬間、瞬間、まるで、どころか、統合失調症そのもの、多重人格並に、支離滅裂に、その考え方や捉え方は、どの価値観にもアンチテーゼがあり、信憑性や、どちらがより良い、より悪い、など、本来ならば無いのにも関わらず、それぞれの価値観は、それぞれに偏っていながら、右から左へ、極から極へ、移ろいゆき、一貫性などなく、それをそれぞれが正当性を主張しながら、対立し続け、変わり続けているのです。
このような個々の頭脳としての概念としての心と呼ばれるものと、これから一元論的にお話しする、真に癒されるべき私たちの病気の心というのは、全く別の概念であるということを区別していてください。
私たちの心は、本来は、神と分離していない、一なる心しかありません。何かに影響されることもなければ、この世界は無であることを認識しているので、影響を与えようとも、もちろん、しません。
ですが、私の心という個別性、特別性を信じている時には、もう、既に、神との分離を示唆します。何かに影響されていると感じたり、何かに影響できると信じています。この世界を、自分や、広義の自分とも言える、自分のグループ、自分の家族、自分の所属する地域、国、地球etc...にとって、好ましいものに変えようとしたり、好ましくないものを、排除しようとします。
そのためならば、大義名分や、正義を掲げ、攻撃と防衛が、行ったり来たり、この世界では、様々な競争が大好きで、休戦はあっても、それは、不毛だ、その繰り返しには、救いはない、ということを受け入れようとはせず、有史以来、真には戦いが終わらないのは、そういうことなのです。
だから、私たち一人ひとりが、それ(神との分離をイメージして、それを体験することを自ら望み、今、まさに分離を体験していること)を信じて、それを深刻に捉えた時、それを罪とみなし、罪悪感が感じられ、お望み通りに後ろめたい存在、罰せられる必要がある存在となったと信じた私たちは、自動的に、これは、分離を信じた病気の心、分離が可能だという狂ったことを信じている支離滅裂で、私たち全員が、統合失調症を患っている、狂っている状態だといえます。
『奇跡講座』でいうところの自我の思考体系を選んでしまっている状態の、多様性に満ちていて、みんなが違っている、みんなが、それぞれに、違う価値観を持っていて、自分と違う価値観を持っている敵だらけだ、ということは、いつも、警戒していないといけない、無防備でいることは、危険だ、と信じている分離した心の状態の、いつも完全武装、いつも臨戦態勢の、一人ひとりの私たちです。
私たちは、通常、慢性的に、その状態で、そちらの方が常識であるかのように、神との分離を信じています。真実の愛の存在が、自分の内側に在るなんてことは、信じられませんし、目を向けようとも、耳を傾けようともしません。
他者との分離感を感じていて、それを埋めようと物理的な努力をしたり、なんとか、自分で考えて、どうにかしようともがき続けています。それが、功を奏しているように感じたりすることもありますが、それは、突き詰めて見ていくならば、自分(または、広義の自分)にとって、都合の良いと思うことが起こったと思っている、そう捉えているから達成感があるだけの、一時凌ぎの状態です。
それについて、真に癒される為の答えは、もちろん、あるのですが、真理、神との分離は起こっていない、ということを語れば、その状態の心は、聞く耳を持たず、自分の存在意義や存在価値までもが脅かされていくような、知覚の訂正を死活問題なほどに恐れている心の知覚に気づきます。神の愛に近づくことを恐れている状態です。
2 心の病気とは
この、神との分離を信じている心の状態というのは、間違った思考体系、分離を信じて、その間違った思考体系との同一化をしてしまっている、間違った思考体系を選んでいることを罪と認識して、自我であることを、咎め、裁き、深刻になっている状態です。
この心の状態を、病気である、狂っている!と、『奇跡講座』では、はっきりと定義しています。
3 正気を取り戻すには
その分離感という病気の状態から癒そう、狂気に満ちて助けを求めている状態から救い出そう、とするなら、分離を信じることを辞める方向へと、分離は一度も起こっていなかった、間違いは起こってさえいなかった、真に実在するものは、一度も脅かされたことなどなく、この世界においても、全てが完璧な天国の状態の反映だった、ということを認識できる方向へと、真の知覚へと、少しずつ、柔和に、優しく導いていくことが必要です。
そのためには、私たち以上に、私たちのことを理解していて、私たちには全くわからない、知らない、真理を知っている存在、私たちを必ず助けてくれる存在を傍らに、ここまでに説明した、心というところに、まず、戻るという決断が必要となります。
これは、実は、とても難しいことではあるのですが、心の破綻というような状態、今、私は幸せではない、今、私は、惨めだ、ということを認められるような心の状態にあれば、ある意味では、危機感があり、切羽詰まっている心の状態なので、そのような苦しい心の状態だということをうんざりする程に認識しながら、その上で、そのような不幸な状況や、惨めな身の上を望んでいるのは、誰でもない、自分自身だ、ということ、自分で自分から全てを奪おうとしているのは、全てを裏目裏目に体験させようとしているのは、誰でもない、自分自身の決断だったのだ、と、認めていくことで、心の選択の、真逆の状態への方向転換が可能となります。(真の知覚へのシフト、真の赦しの視点で見ることが、望めばいつでも可能な状態、体験したいことを、真に自由自在に選べる状態)
このように、マインドレスな状態から、正気を取り戻し、真にマインドフルな状態に戻る為には、まずは、自分は、本当は、肉体ではなく、心なのだ、ということを思い出していく過程、その後、その心は、今、病んでいるのだ、という自覚、自覚症状が必要となります。
4 解脱の準備をする
私たちは、究極、この世界を何万回と輪廻転生したとしても、同じような状態を繰り返していて、真に癒されよう、真に救われよう、などとは、考えもしません。
そのかわりに、この世界を変えようとしたり、自分自身の人生を変えようとしたり、様々な、形態レベルでの探求や、分析に耽り続けています。
それが、悪いことではなく、それを、もう、それこそ、うんざりする程に繰り返していくことで、もう一つ別の道、来世でより良い転生をしよう、とするのではなく、今、今世の、この瞬間を、絶好の、真のゴール、解脱、覚醒を果たすチャンスとして、この世界の全てを使うことが出来るようになります。
そして、コツコツと、『奇跡講座』が、奇跡と呼ぶ心の状態へのシフト、感じ方、考え方、見方を、間違った思考体系、間違った心の状態から、正しい思考体系、正しい心の状態への、真の知覚、無垢なる知覚へのシフトを起こしていくことを続けていけば、解脱、覚醒への心の準備が整っていきます。
赦しの実践を通して、最後には、特別性、分離を信じる心が作り出したように見えるこの世界全体の消滅によって、無であるものが無に還ることによって、『奇跡講座』がいうところの神への帰還、天国、神との一体性である状態、キリストの状態そのものへと私たちが還っていけることを約束してくれています。