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Can I be cured? healed?: 私は治るでしょうか? 癒されるでしょうか?・Only LOVE can cure and heal anything. : 愛だけが全ての万能薬です。

「愛ってなんなんだろう」

そう問われ、杓子定規に、

「私たち人間にはわからない、人智を超えたものよ」と、答えてみた。

形而上学、形而上学視点を、言葉にしても、実践的な体験、経験がなければ、虚しい。所詮、形而上学に終わる、とは、こういうことだと、しっくりこない感覚とともに、感じた。

そして、ここ、最近の赦しの実践的な作用として、ただ、愛は、大いなる癒しのパワーだ、愛は、全ての心を包み込み、癒す、と実感した。

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私たち日本人が、普段、所詮、愛なんて、、、と言う時、それは、確かに、愛なんて、、、だと思います。

その、自分自身の中の概念の間違いを、訂正していくプロセス、あるいは、間違って信じたことを、白紙に戻して、真っさらな状態の、本来のあるがままの私(『奇跡講座』がいう聖霊の心眼、真の知覚の状態)に戻るプロセスが、奇跡であり、救済であるならば、それは、本当に、私にとって、唯一無二の、必要なことだと思っています。

ただ、それは、人間として生きている以上、恋愛関係、依存関係に巻き込まれてはいけないということではなく、全ては、最初は、大なり小なり、恋愛感情、依存性に基づくものを刺激されて始まる(恐れと罪悪感に基づく魅力による、獲得と消失の体験を望んで、それを叶えることが出来る関係と言える『奇跡講座』が言うところの特別な関係)のが、常で、ただ、それを受け入れて、咎めず、その様(さま)を優しく見つめ、見守りながら、コインの裏と表が顕(あらわ)になる時、「特別な関係」が、終わりを迎える時を忍耐して静かに、何もせず、待ちながら、それこそが、神聖な関係を始めるチャンス、「聖なる瞬間」となる転機とすることも出来るのだと思います。

神との関係についての私たちの間違いを投影、または、神との関係についつの私たちの訂正を反映する、この幻想の世界。

相手を取り替えても、何も、変わらない。

環境を取り替えても、何も、変わらない。

真に変えるべきは、決断の主体である自覚の、分離した(と強固に信念している)神の子(なんかじゃないと信念している)が、正しい心を選び直すという、真の変化、変容。トランスフォーメーション。

日々の生活の中、それを、身をもって教えてくれている、私にとってのキリスト、救済者たち。

この目の前の一人ひとりのことを、尊重し、信頼し、手放して、無条件に愛するということ。

どう尊重するのか?

相手にも心があるのだから。相手にも、同じように、決断の主体があり、正しい心の象徴である聖霊と繋がり、その心眼を選んで同一化し、癒される力がある、と信じること。それを今、ここで、認識するという尊重。

その手段は、赦して忘れるということ。

この世界の全てを、赦して、忘れたい。

解脱が目的の霊性の道を、今日も進もう。

この世界は私にとって「何のためのものか」忘れずに、、、。

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