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相手にも感情(feelings)があるのだから


起こってほしいことをあらかじめ決めておくことの価値は、単に、あなたが、それを正起させる手段として状況を知覚するようになるという点にある。

『奇跡講座』中央アート出版社 T-17.Ⅵ.4:1より引用


全ての状況、全ての人間関係(のように思っていること)に対して「起こってほしいことをあらかじめ決めておく」という「決断のためのルール」を、普遍的に当てはめて使っていく、適用していくことが出来るようになることを、今、赦しの実践の為に、集中レッスンしている。

そうしていくと、「起こってほしい感情」とは対極にあるように見える「起こってほしい感情」じゃないもの=「ネガティヴな感情」に気づくことが多々あり、赦しの実践のチャンスは、毎日のように与えられていたことに気づく。今まで、「否認」「抑圧」「投影」して、「私の中には罪悪感もなければ、ネガティヴな感情もありません」と言わんばかりに、とんでもなく素晴らしいチャンスをスルーしていた、取りこぼしばかりしていた私に気づく(笑)

まずは、ネガティヴな感情に瞬時に蓋をして追いやる無理やりのポジティヴを演じる癖が出そうな時、無理せずに、自分のそのネガティヴな感情に対して、少しずつ、少しずつ、気づけるようになってきて、その感情を手掛かりにして、その奥にある間違った思い込みや信念まで辿っていけるようになってきた。

そこには、初めまして、ではなく、ずっとそこで待ってくれていた昔からのいいなずけ、または、親友かのような、罪悪感と結びついた過去の出来事、過去の状況が顕在意識に浮かび上がってきて、今、起こっている感情は、ずっと、それは、何万年も前から、ずっと、ここにあなたの闇の根源がありますよ、やっと再評価してくれる時が来たのね、ありがとう。今か、今かと、終わりの始まりを待っていましたよ、とばかりに私を手招きして迎えてくれる。

そうなれば、聖霊の愛に支えられているという信を拠り所として、自分勝手な認識、評価を手放して、聖霊を教師として、その過去の出来事を、聖霊と共に、「咎めず」に「見て」いくことで、再認識、再評価する赦しの機会となっていく。直ぐには赦せなく、直ぐには手放せなくとも。

人生(全ての時間)に起こる全ての状況を「真理」「聖霊を選び直すこと」に、ゴール設定して「決断のためのルール」を上手に使えるようになったならば「内なる平安」という、毎瞬間、起こってほしいことを経験していける。

言い換えるなら、「聖霊の愛に満たされた」経験をしていく為の教室として、全ての状況をその為の手段として使えるようになるならば、私はいつも「なんて幸せなのだろう」と思う瞬間を、いつも「意図的な決断によって正起させることができる」ようになるのだという道筋が少しずつ、目の前に希望となって開けてきている実感がある。

「神との分離は起こっていなかった」という認識とともに

そんな時は、私たちは、みんな同じ、、、

全員に「正しい心(聖霊の思考体系)」と「間違った心(自我の思考体系)」の側面があって、

そのどちらか一方を選ぶことが出来る決断の力も、

全員にあるんだよね、、、

そして

私たちの心は繋がっていたんだよね

と、心底、思えて、安堵する。

自と他の利害の一致を認識する時、恐れは消え失せていく。

参照

「感情について」JACIMビデオ(youtubeサイトに飛びます)


[赦しの実践のプロセス]

今、感じている「怒り・恐れ・罪悪感」に代表される「間違った知覚」「間違った狂った感情」=「ネガティヴで嫌な感じがする感情、気持ち」を使って、今、無意識のうちに「自我の思考体系」を、自分は、望んで、選んでいるということなのだな、と気づく。

その感情を退けず、裁かず、そのままに受け入れていくように、感じていきながら、感情と結びついている過去の記憶にある状況に、出来るだけ鮮明に辿り着く。そのまた奥にある、その状況にくっつけて「罪」と認識して自分自身や他者を攻め続けて咎め続けている「間違った思考」=苦しみの真の原因、自我を選んだこと、によって真実と認識されている「間違った信念/思い込み、間違った常識」にまで辿り着く。その信念が間違っているという認識と、自分は、望んで苦しんでいたくて、その望みを叶える為に、その間違った信念は、今、役立っているということを受け入れる。自分で望んで選択したことを心底受け入れたなら、自我の力動が弛み、決断の力が自分に戻ってくるように感じられる。そこで、もう、苦しみは望まないと、強く願えるまで「見る」が、咎めず、裁かず、聖霊と共に見れるまでにかかる時間は、まちまちだが、余りにも苦しい時は、無理せず、今は、赦せない、咎めること、裁くことを辞められないけれど、自分に正直に、でも、開き直ることはせず、ここで一休みしてもいい。

奇跡、聖なる瞬間、赦しの完了が起こったならば、「間違った知覚」は罪悪感と苦しみの感覚とともに取り消され、消えて失くなり、知覚のシフト(「聖霊の心眼で見る、聖霊の愛に触れる、聖霊の愛の反映(投影)、聖霊の愛の延長、正しい知覚、真の知覚etc...」)は同時に瞬時に起こる。その時は、明確に知覚の違いが認識されるので、見逃されることは、あり得ない。

参照

聖霊を選んでいる手ごたえ

JACIM「ワンポイント解説」より

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