はじめに 野外活動従事者の中でも女性のみなさん、女性だから困っていること、悩んでいることはありませんか?現在の野外活動を主とする業界は、男性が中心の状況が続いていると思います。そのため、女性の体だからこその悩みや不安、不便さについての共感や相談ができず、我慢するしかない状況に陥っている人は多いのではないでしょうか。野外で活動(仕事)をする上で、このタイトルが示す通り、野外で仕事をする女性が抱えがちな問題について、 1.トイレ問題 2.生理問題 3.セクハラ問題 4.化粧、香
私は大学を卒業してから一貫して、自然に携わる仕事をしてきた。 子供のころは、自然を守ることそのものが目的で、 若いころは、自然観察の楽しさ、奥深さ、新しいことを知る喜びをみんなとシェアし同志を増やすことが目的だったけれど、 今はそれが手段になった。 なぜか。私は自然観察を通した体験、遊び、または何もせず自然の中に身を置くことが大好きだ。 でも、未来の人たちが私と同じように、自然を利用することはできなくなってしまった。貧弱でも残っているだけまだ良い。そもそもの場は、減った。 昔
雪国の冬は長い。 その雪が解け、地面が顔を出す早春、そこから芽を出す植物たちがある。 春に芽を出す植物は、ぐんぐん背を伸ばし、葉を広げ、あっという間に花を咲かせる。 あたり一面、落ち葉で茶色かった地面が、急に華やかになる。 黄、青、ピンク、白、多彩な顔ぶれだ。 待ちに待った春が、またやってきた。 この時期は、10日もすれば景色は様変わりする。 見逃すまいと思うあまり、毎日のように足を運んでしまう。 四六時中、フィールドのことを考えてしまう。 こうなると外のことが気に
あらゆることが自身の内面に影響を及ぼし、混沌とした気持ちになったとき、私は意識的に森に出かける。登山をするのも海岸へ行くのも良いけれど、森を歩くのがたぶん一番性に合っている。 森を歩き、雪上に現れた1mm程度の小さな虫を見つけ、冬が開けようとしているのを知り、季節移動をする鳥の群れから今が端境期であることを認め、雪間から越冬中の葉をのぞかせる植物の様子から間もなく迎える春を実感する。 一つ一つは些細なこと。日々刻々と変化する自然を見る能力など、現代社会で生きていく上で必要
最近、40~60年ほど前に書かれた植物誌や学術的レポートを読んでいる。 そこには、私がいま住んでいる地域の植物が網羅的に書かれていて、貴重な植物の名前が随所に現れる。かつてのここが、非常に興味深い場所だったことをうかがい知る。 同時に色んな湿原、原野の名前が出てくる。 それらは全て、住宅地、商業地、更地となり消失した場所の名だ。 そこにあった貴重な植物、またそれらを生育可能な状態にしていた大地はもう見ることができないのだ。「暗澹たる思い」以外に言葉が見つからない。 こうし
一年の中で雪の降り積もる季節が一番好きだ。 私の住む地域は北海道の中でも雪が少ないが、ようやく積雪が増してきた。 今朝、玄関から歩き出すと、「ぎゅっ、ぎゅっ」と乾いた雪の音が足元から聞こえてきた。 さっそく森へ出かける。 植物屋の人からすれば、植物が枯れてしまう秋や冬よりも、春や夏の方が断然良いと言うだろう。 私も植物をメインに自然観察をするから、それはよく分かるし、いろんな植物が観察できる春夏は確かに楽しい。でも、そうした利益や目的を差し置いて、純粋な「好き」という気
先日、夫婦でこの森を買った。 広さは74,000㎡、東京ドーム約1.6個分。 電気もガスも水道もない。 この森をこれからどうするのか、未来の人に残すとはどういうことなのか、 それを周囲の人に説明する気はほとんどなかった。 ビジョンを語ったり、目標を掲げてアピールしたり、そういうことをするより前に「思ったら淡々とやる」が性に合うからだ。 自分の内側の声を拾い上げるのも、誰かと語り合っていると聞き取れなくなり立ち止まってしまうから、一人で黙々と考え結論を出す方が良い。 それだ
早春。 北海道は3月下旬頃から。 雪解けが始まれば、春はすぐ隣にやってくる。 春。 地面が顔を出せば、足元の植物たちが一気に花開く。 春紅葉。 春一番の花が終わりを迎える頃、今度は頭上の木々が芽を開く。 日々刻々。 今日とは違う明日の森。さあ、春のフィールドへ。
ナチュラリストの定義とはなんだろうか。色々な辞書や記事を読む限り、大まかに2つあるようだ。 1つ目は、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人。 2つ目は、動物や植物、鉱物などの自然物の収集・分類する学問をしている、あるいは研究をしている人。 1にしても、2にしても、ナチュラリストと聞いて、一般的にイメージされる様子と相違ないだろう。 こうした人たちの個性について、みなさんはどのようなイメージを持つだろうか。対象としているものが自然なので、みな似たような人たちに感じるかもし
近所の緑地でも森でも山でも海辺でも、自然に触れたくてそうした場所に入っているのに、中々それに浸りきれない、馴染めない、と言う人が時々いる。そこの自然度が高いとか低いとか、知識があるとかないとか関係なく。 そういう時は、一緒に歩く人を選んでみると良いかもしれない。私の場合、近くに強い色を持つ人がいると感じると、浸りきれない。色とは、個性とか性格とか気質そのもののことだ。色が強い人に出会うと、圧倒されてしまうのだ。ただ、そうした人から得られる良い刺激は多数あるので、色が強いから
このnoteは、自分の内側にある感性を文章化することが目的で、月に1度のペースで更新しようと年始めに決めていた。けれど、春を迎え鳥たちが賑やかになり、足元の植物が華やかに、頭上の木々が勢いを増すにつれ、それができなくなってしまった。 何度となく筆を執るも、一向にまとまらない。挙句の果てには言葉が全く浮かばなくなった。植物観察が仕事でもありライフワークである私にとって、春夏は確かに忙しい。でも、心や時間に余裕がない訳ではないので、そればかりが要因ではないと感じていた。なぜだろ
数日前、私が森を買ってそこに小屋を建て森を自由に楽しめる空間を作る予定である話になったとき、「それは子供のときから思っていたことですか?」という質問があった。 やや答えに窮し「潜在的にそういう思いはあったと思います。」が第一声となった。なぜ答えに窮したか、それは世の中が急速に変化する中で、自然ガイドとしてやってきたような、自然をフィールドに人を相手にする生活をどう自分の人生に最適化するか、それについての考えが日々流動的に変化し、やっと出た結果が“森に小屋を建てる”だったからだ
みんさんが、森や近所の緑地なんかを歩くときどんな風に歩くだろう。 首から双眼鏡を下げて、鳥を見ることが目的で歩く 健康維持のために、足を止めることなく歩き続ける スマホやカメラを片手に撮影しながら歩く 外を歩くのは気持ちが良いからなんとなく歩く 様々だろう。 そんなとき、通りすがりの人と声を交わすことはあるだろうか? 山や森では、すれ違いざまに「こんにちは。」と挨拶をすることは よくあるが、多くの人は会話まではしないのではないだろうか。 私も例にもれず、積極的に話しかける
今冬の北海道は、記録的な雪不足だ。気温も高い。 先週は寒波のお陰で、ドカ雪が降った地域はあったものの、 例年にない降り方だった。 周囲からは「今年は変だ。」「今回は異常だ。」そんな声が聞こえてくるが、私としては「あぁ、またか。」という感想だ。 記録的な暑さや乾燥、豪雨、そんなことは随時どっかこっかで起こっている。今年、あるいは今回がおかしいなんて思わない。今年もおかしいのだ。 2019年5月26日には、北海道の佐呂間で39.5℃と史上初記録を更新した。この日は全国的に気温が
私の趣味は自然観察だ。 1年前までは、それは仕事でもあったけど、いまは一旦休んでいる。 それで、自然観察というのは、平たく言うと、野外で気になったものや調べたいものについて観察することで、これがとても楽しい。 物事には必ず因果関係があって、観察を通してそれが分かったり、単純に今見ているものが他のものと区別できるようになったり、動物だったらその行動に興味が湧いたり、気づくと色々楽しい。 何が心に引っかかるかは人それぞれで、私の場合その範囲が広いように思う。 綺麗な花、目立つ虫
とある山中の石碑の前で、そこに書かれた文字を写生して読解していた時の話し。 その日は日差しが眩しくて、ハイマツとダケカンバの影に腰を下ろし、文字を目で追っていた。 なにぶん山の中なので静かだ。人もいない。といっても、全く音がない訳ではなく、ザァーっと吹く風、ガサガサと動く小鳥、カサカサと歩く虫、そんな音は聞こえてくる。 その中で、ショリショリショリ・・・という何か得体の知れない音がかすかにしてきた。 写生した用紙から目を離し、音の方へ顔を向ける。 一匹のアキアカネがいた。