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私の死生観の話

私の死生観について
/2023・11・27

私は私の人生について執着心が無い。

「人はいずれ死ぬし、それが明日でも
元からそう決まっていた命だったんだ」

と思って納得する

あともうちょっと生きたかったな
とか
行きたかったとこ行けなかったな
とか
思うかもしれないけど、

私の命が終わるときは
もう最初から決まってんだ

って思ってるから

“その日”が来たら納得して死ぬんだろうと思う。

自分が死んで悲しむ人がいるのかもしれないが、それはもう私の手に負える話ではない

天が私に与えたリミットだと思ってくれ

よく、
「明日死んでも後悔のない生き方を」
とか
”まだ生きたい。まだ死ぬような年じゃない“
とか言って
必死に必死に生きることを超すすめてくる文言を目にするけど、

“死なないこと”に対して沢山のエネルギーを注いでる人ってそんなにたくさんいるのかなーとか考える。
たぶんこんな考えは少数派なんだろうけど。

でも、もしかしたら、後悔しそうなこと、とかを考えないようにしてるだけかもしれない。

でもさ
いつか絶対にくる死に向かって
後悔だの、焦りだのばっか、
思い巡らせてても意味無くね?

***

ここまでがその日私が日記に書いてたこと。
ここから先は、友達とした死生観のお話から考えたこと

「有名人がやるくらい大きいお葬式がしたい」
「たくさんの人を葬式に呼びたい」
これが、友達の死後の夢(というか希望?)

すっっっごい素敵だと思う
生きてるうちで関わってきたたくさんの人たちに
「俺の死を惜しんで泣いてほしい」と

彼は悲観的な人ではない
現実的ではあるけど、かなり、ポジティブな人

悲観的かつ現実的な自分との考え方の違いを思い知ってしまい、ショックがでかい

両者とも真面目に生きてきたのは間違いないのになーー

私はね、
「周りの人のいないところへ行って静かに死ぬ」
「骨は好きにしてください、拾わなくてもいいです」
みたいな、なんかこう、もう諦めてるみたいな感じ

なにがこんなに違いを生むのか考えた結果
「人に愛されていることを受け止める自信があるかないか」じゃないかと思った

彼は「たくさんの人に自分の死を惜しんで泣いてほしい」と言った。
関わってきた人から愛をもらっているという自覚があるから。
自分がその愛情を受け入れる体勢を常に整えているから。
自分の好きな人が自分のことを好きでいるという自信があるから。

私は「人に知られないよう静かに死にたい」と言った。
周りの人が自分に愛をおくっていると信じられていない。
自分が人からの愛情や好意(厚意)を受け入れていい人間だと思ってない。
人が自分に向けた大きな愛を受け止めるだけの準備がまだできていない。

私はまだずっと未完成で、
心が大人になれていないのだ

何にも考えないで大人になった結果、
子どものときの苦しい記憶だけが私の心にへばりついて、
人から愛をもらったという記憶をどんどん飲み込んでしまう
だから愛の受け皿がいつまで経っても広がらない
いつまで経っても私は他人を愛せない

***
どうやって先に進もう
怖い
考え直すのが怖い
自分が変わってしまいそうで
何もかもが変わってしまいそうで

でも変わりたい
自分を想ってくれる人の気持ちを蔑ろにしたくない
私を大事に想ってくれる人を私も大事にしたい
私が大事にしたいと思っている繋がりを
私の手で繋いでおきたい


どうすればいい?
私に向けられた愛を溢さず掬い上げるには
私が愛を正面から受け止めるには

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