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年間1万人を診察する70歳の町医者は今も青春を生きる

京都府福知山市内で藤原小児科医院を開業している藤原功三(ふじわら・こうぞう)医師は今年70歳。大学卒業後、40年以上にわたり地域医療の最前線で働いてきた。

現役の医師として月曜から土曜日まで患者さんを診察し、年間延べ数で1万人と向き合っている。小学校・支援学校・保育園の検診、児童相談所での診察もこなしている。

70歳になり、休日診療所は免除された。それでも変わらずに85歳までは働くと語る。同世代の医師はどんどん引退している。寂しいと言いつつも「僕は若手に負けない圧倒的な技術で前に進みます」と意気込む。

市内に専門医は4人。「小児科医はそんな多くないから。活躍の場を与えてもらえるのはありがたい」そんな藤原さんの生き方とは。​

「70歳になっても気持ちは若い頃と変わらない」精一杯神経を尖らしながら仕事をこなす

「そのうち頑張ろう頑張ろう」と思いながら歳を重ねてきました。今、70歳になって経験と技術は人並みについてきました。それにエネルギーを若い時に全然使ってなかったから、今になって意外と残っています。それが、きっとこれからも頑張ろうという気持ちに繋がっているんでしょうね。

若い頃からあまり期待はされてきませんでした。それでも自分で「ダメやな」とか「できないな」と思ったことは一度もありません。偉そうなことは言えないけど、自分自身は「できる」という気持ちを持っていたんですよね。

その気持ちを持ち続けているから、ある程度歳を重ねてもエネルギーを保てているのかなと思います。気持ちは若い頃と変わっていません。

同時に、期待されていなかった時のことはずっと覚えているから、だからこそ、その時の状態を今は覆すことできます。「何クソ」とまだまだ頑張ろうと思える糧になっていますね。

生活はとても地味ですが、仕事がとても楽しいです。

「乞食か社長か」中学生の頃に受けた強烈な洗礼

中学生の頃、母が人生相談に乗ってくれる神社のおばあさんに会いに行ったことがありました。その時に母は「あなたの息子さん、将来、乞食になるか、社長になるかどっちかや」と言われたそうです。真に受けた母は帰宅後、僕に「あんたは一生苦労するらしいからしっかりせんとあかんで」と言ってきました。

突然、そんなことを言われて「そんなアホな」と衝撃を受けました。それ以来、ずっとその言葉が頭にこびりついて忘れられません。

当時は「イージーライダー」「真夜中のカーボーイ」のようないわゆるアメリカン・ニューシネマと呼ばれる映画に夢中でした。挫折や、あるいは当時の体制に乗り切れずに落ちぶれる主人公の人生に強く共感を覚えていました。苦しくても必死に生きているんですよね。

でも、母の言葉もあったので「こんな苦しさに負けずに必死になる生き方もかっこいいけれど、自分は嫌だ」と強く思ってしまいました。惨めにはなりたくないと思って。

のんびりした性格ながらも、何とか乞食にならずに今日までやってきました。現在は小さな町の小さな小児科医院の院長をやっているので、よいほうに転がったかもしれません。

「医学部生がカッコよかった」入院をきっかけに医師を志す

医師を志すきっかけになったのは「お世話になった医学生がかっこよかった」というシンプルな理由です。

中学1年生の時、病気になって入院しました。1960年代当時の子どもたちがかかりやすい病気の1つの「急性糸球体腎炎」になってしまって。

突然、尿が米のとぎ汁みたいに真っ白くなったので、おかしいと思い母に伝えたところ「あんた一人で病院に言っといで」と言われました。大阪の山深い箕面市止々呂美という田舎に住んでいたので、バスに乗り込んで30分かけて隣町の池田市の病院に行きました。

診察してもらったら「即入院です」と言われて、絶対安静状態で入院生活を3ヶ月間過ごしました。8人くらいの大部屋で、僕以外は全員大人でした。胃がんの人、建設現場の事故でお腹を負傷して運び込まれた人など様々な理由で入院している人ばかり。

そんな部屋に毎晩遅くに白衣を着た大阪大学医学部のインターン生が来て、診察していくんですよね。そして、みんなが休んでいる時間に勉強して、働いているのがとても新鮮に映り、カッコよさを感じました。「自分もこういう風になりたい」と感動を覚えて、医師を目指そうと思ったんです。

当時は高度経済成長時代だったので、昼は働いて夜は家族団欒が当たり前でした。そんな暮らしとはかけ離れた医師の仕事は未知の世界で、無性にワクワクしたんですよね。

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「勉強はかなりええ加減」何とかなると信じて3浪の末に医学部へ

入院により学校は1年間棒に振ってしまいました。そのため、一学年下の子たちと学ぶことに。

その学校生活の中で、医師という仕事に対しての思い入れが強くなっていったんです。頭の中では宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にある「東に病気の子供あれば行って看病してやり」のように、嵐や雨の日でも往診して人を助けるという妄想が膨らんでいきました。なれる根拠もないのに「僕は医師を目指すべきだ」と思ったんです。

けど、肝心の勉強は中学、高校を通して全然していなくて。クラスでは下から2番目くらいで「かなりええ加減」でした。それでも「そのうち何とかなる」という気持ちはなぜか持っていて(笑)

だから、大学受験は当然失敗。2浪目もダメで、3浪目になり「さすがにこれはあかん」と思って勉強しました。2年目までは予備校に行っていたんですが、集団の中での勉強が馴染まなくて。3年目は宅浪で挑戦しました。

志望大学からは「点数これだけ足りませんよ」というのを教えてもらえることができたんですが、3浪が決まった時点で数学が30点足りませんでした。これは、周囲からしたら「アホかお前は。1、 2点で落ちるのに、30点で稼ぐなんて無謀だから諦めろ」という感覚なんですよね。

でも、僕は楽観的だった部分もあり「1問解いたら30点もらえる。それさえ解けたら医学部に行ける」と考えていたんです。数学がとにかく苦手だったので、高校の数Ⅰ、数II・B、数Ⅲの教科書を3回繰り返し学び直し、もう一度基礎を叩き込みました。

1年後には変化している自分が想像できていたので、最後の一発勝負に賭けることができたのだと思います。博打ですよね。最終的には運が良かったのもあるかもしれませんが。結果的に京都府立医科大学に滑り込みで入学できました。説明のしようはないんですけど、「なんとかなる」と不思議と思えていたんです。

大学でのんびり過ごす「適当に勉強していたら留年するハメに」

滑り込みで入学したのは良いんですが、大学でも随分のんびりと過ごしてましたね。あまりにも適当にやっていたら1年間留年してしまって。同級生がしっかりとやっている中で、僕は本当に全然勉強をやらなかった。

だからこそ、当時はテストに間に合わなくなるという嫌な夢をよく見てました。夢の中では、医師国家試験が1年後に迫っていて、みんなは着実に講義出て準備している中で、僕自身は講義を休んで家でダラダラしているんですよね。ただ時間だけが過ぎていき、試験が差し迫ってきたというところでハッと眼が覚めるんです。

学生時代はこの夢が象徴するようにかなり適当だったと今では思います。だけど、そんな夢に見るほどの体験があったからこそ、今は常に時間に意識を持てるようになりました。

70歳になり、自分に残された人生はあまりなく、若い頃のようにのんびりと構えてられません。もう時間を無駄にできないので、今は気を引き締めています。

じつは、つい最近でも学生時代の嫌な夢を見るので、自分にとってはかなりのトラウマになっているんだと思います。

ちなみに、当時の医学部は1年間でたった2万円の学費でした。授業料が1万2千円、実習料が8千円。貴重な税金で育ててもらったので、今はそれを還元するためにとにかく励む日々です。本当に当時は適当だったので、申し訳ないなと今になって思います。恩返ししないといけないから、周りが引退する中で僕はとにかく85歳まではやらなくてはいけません。

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1歩も2歩もテンポが悪い「医師になったけど自慢できることは何もなかった」

その後、僕は研修医時代も、福知山市民病院勤務時代も優秀な同僚がいる中で、1歩も2歩も遅れてテンポ悪く仕事をしてました。医師にはなったけど、自慢できることは何もなかったです。あまり期待もされていませんでしたし。

それでも、少しずつ診察を通して病気を発見できるようになり、それは自信になりました。今でも「当時助けてもらってありがとうございます」と言ってくれる患者さんいるんですよ。正直、病気を見つけるのは医師として当たり前。それでも、患者さんからの感謝の言葉を聞くと、自分は医師をやってて良かったという喜びを感じました。

「不安は1、2年で解消される」楽観的に捉えることが大切

僕は学生時代も医師になってからも一貫して「なんとかなる」と思って生きてきました。こう思えるのには育った環境があるのではと考えるかもしれませんが、じつは全然関係ないんですよね。

いい加減な言い方ですが、僕は何かに守られている気がします。変な世界ですよね。運命の巡り合わせみたいなのあると考えると、自分はラッキーでした。

「なんとかなる」とは思ってきましたが、もちろん不安もありましたよ。ただ、僕の場合は周囲への影響が及ばないように、家族や一緒に働く人たちにそのような気持ちを悟られないようにしてきました。だから、感情的になったり、落ち込んだりするようなことが、傍から見ると僕の場合ないんですよね。

そして、実際に不安なんて1年も2年もしたら解消されていくことが多いです。「そういうものや」と楽観的に捉えています。

今の不安は、いずれ死を迎えること。死を迎えるまでに自分は何ができるだろうと考えます。患者さんのことも不安です。てんかんなど生涯続く病気を抱えている子どもたちが、僕が辞めた後にどうなるのかなとずっと頭の中で考えてしまいます。けど、それもきっと「なんとかなる」と信じています。

人間の一生の中で、誰もが不安な状況はあると思います。けど、ピンチという時、案外なんとかなって。もちろん悪いことが起こるかもしれませんけど、そういう風になっていくのはそれはそれで仕方ないと思っています。何事もある程度の覚悟を持つことって必要かもしれません。

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46歳で開業「育ててくれた地域に責任を果たしたい」

ちなみに僕が福知山に来たのは大学の関連病院があったからです。当時の担当教授に「君は上がいないほうがやりやすいだろう」と言われて。僕も自分の裁量でできるし、ここなら自分自身潰れないと思い、働くことを決めました。

その後、46歳で開業しました。きっかけは大学で研究することに関心はないし、総合病院で若手の指導するのは荷が重いし、当時は小児科の開業している専門医がいなかったことも背景にあります。娘や息子たちも地元に馴染んでいたのも大きいです。医師として育ててくれた福知山に責任を果たしていこうと思ったのもあります。担当してきた患者さんたちを引き続き見ていくのも自然な流れですし。

「大丈夫ですよ」その一言で安心を与えられることがやりがい

僕の「大丈夫ですよ」と言う一言が聞きたいから診察に来ましたと言う親もいるんですよ。やりがいを感じますし、ありがたいと思います。これは自分自身の医者としてのプライドを維持することにもつながっています。

親は子どもから体の不調の訴えがあったらすごく不安になるんですよね。第三者の目で見たら大丈夫と思える事でも不安に感じるもの。だから、僕のところに子どもを連れて来て、安心を得ようとする。

不安を解消するための選択肢になっているのが何より嬉しいです。他の病院もあるのにわざわざ来てくれるんです。症状を聞いて、きちんと診察して「大丈夫ですよ」と言う僕の一言で子どもの親はカラッとした表情で帰っていきます。

他にも、以前診察していた子どもが成長して大人になって、結婚し、親になって子どもを連れてきてくれることもあります。きっとどの小児科医も同じ気持ちだと思うんですが、とても嬉しいです。「先生、覚えてますか?」「え!大きくなったな」というさりげない会話がとても貴重です。信頼されているんだなと本当に思えますし、身が引き締まりますよね。今後も信頼され続ける状態を維持できたらいいなと思います。

孫を見るじいちゃん先生みたいな感じです。

手紙

※子どもから手紙をもらうこともある。藤原さんは1つ1つを丁寧に保管している。

「自分の力量は限られている、無理はしない」失敗から学んだ謙虚さ

けど、開業してから一度僕は大きな失敗を経験しました。まだ開業して間もない時でした。ちょうど1歳くらいの男の子を連れた母親が「熱が出ました」と言って、診察に来たんです。

何だかおかしいなと思って、採血し、検査しようとしました。けど、その時、なぜかうまいことできなくて。糖分だけ注射しました。それで「どうしてもおかしかったら夕方もう一度診察やりますから必ず来てくださいね」と念を押して診察を終えたんです。

母親はそのまま帰宅してから、子どもが寝入ったから大丈夫かなと思って様子を見ていたんですよね。夜中に意識状態が突然ガクッと落ちて、市民病院の救急に行かれました。結局、入院してから数日後に亡くなって。原因はウイルスによるREYE症候群を起こしたことでした。

診察に来た時、なぜ僕はすぐに入院させなかったんだろうということを未だに後悔しています。当たり前ですけど、小児科医にとっては子どもが亡くなることが一番辛い。だからこそ、それ以来、少しでもおかしいなと思ったら、大きな病院に紹介するようにしています。

自分の力量は限られているので、無理をしない。この教訓があるから、それ以降は一度も過ちはありません。医師の多くはきっと何かしら教訓を抱えて生きているはずです。傲慢にならず、謙虚になることは最も大事なことです。

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自分の一生は一度きり「自分の気持ちに正直に生きる」

僕はこれまで自分の気持ちに正直に生きてきました。「こちらの方がいいんちゃう」と思ったら、それを曲げてまで生きようとは思いません。自分の一生は一度きり。もう残りの人生わずかですけど。

言葉にすると恥ずかしいんですけど、青春時代を振り返りながら「あの時何をしてた」「あの時何を考えていた」「あの時何を決心した」ということを常に繰り返し考えるんです。若い頃はのんびりしていましたけど、考えていたことは汚れていないんですよ。そのような青春時代の自分に恥じないように、初心に戻って残りの人生を生きていくことが大事です。

顔を赤くするようなこともいっぱいありました。バカなことやその逆の真面目に青臭いことも考えて。それは自分にとってとてもいい教訓になりますよね。常に若い頃の気持ちを忘れず持ち続ける。それで一生を終えられたら言うことありません。

若者のように「この先どうしてやろう」とかはありません。毎日変わらずにコツコツと仕事を続けて、今後も患者さん(子ども)、保護者に喜んでもらえる、安心してもらえる存在でいたいです。

【編集後記】

なんて人間臭くて、自分に正直に生きて来た人なんだろう。黙々と働いてきた父は家庭では口数が少ない人でした。だから、あまり多くを知りませんでした。

今回、インタビューをしてみて、やっぱり「自分の父なんだ」と感じた部分が多くありました。私自身「何とかなる」と思い、今日まで自分の人生に正直に生きてきました。それはきっと父が幼い私に「10、20年後輝いていたらいいんや」という言葉を事あるごとに言ってくれたからかもしれません。だから人生に愚直になれています。

生き方なんて答えはなくて、器用だろうが不器用だろうが、自分の気持ちに素直であれば、それでいいのではないでしょうか。自分の人生を好きに生きれば何歳になろうが青春はきっと続いていきます。

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