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エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』

この本は「なにか」だった。いちおう最後まで読んだのだけど、正直、あまり読めた気がしていない。

この本は難しい本だった、ということかというと、確かに難しさはあるのだけど、それともまた違う「読めてなさ」が強い。

典型的な「難しい本」を読んだときに感じるのは、たぶん「難しかった」「よくわからなかった」という感じであって、「読めた気がしない」と感じるのは、たぶん、この本に単なる難しさとは別のものがあったからだと思う。

これはまた、「読めなかった」とも違う。文章が肌に合わなかったということはまるでなく、苦しむことなく最後まで文字を追ったわけだし、それによってなにかを受け取った気もする。

難しさ、とも、読めなさ、とも違う「読めていなさ」。

問題はたぶん、この本から受け取った(らしい)もの、この本を読んでいるときに感じていたことが、自分でもよくわかっていないというところにある。たぶん。

「この本は「なにか」だった」という感想はたぶん、そういうことだと思う。

こうして「たぶん」と言いすぎているのも、たぶんそういうわけで、自分が何を受け取ったのかわからない。

強いて言えばイメージかもしれない。

いくつかの大枠のイメージは、わりにくっきりと印象に残っている。たとえば、生命を個別の存在というよりも、地球という星の変状(メタモルフォーゼ)とみるような考え方。

スピノザの汎神論を思わせるこのロジックに、ところどころ科学のフレーバーが施されていて、「神」を「ガイア」に置き換えようとしているのだろうか、と思ったりする。

ガイアは僕にとっては十分にスピリチュアルな言葉に感じられて、神のままで良いというか、置き換える意図がよくわからない。ならばやはり、別に置き換えようというつもりもないのかもしれず、僕の連想が検討外れなだけかもしれない。

科学的な用語と、哲学的なロジックを組み合わせながらも、そこで用いられている文体は詩のようなかたちをしている。読んでいると楽しいし、なにはともあれページは進むのだけど、読みながら読めていない気がしてならない。

その「読んでいると楽しい」というときの、「楽しさ」は、先ほど書いた「大枠のイメージ」とは別の、「小さなイメージ」群が読んでいて浮かんでくる楽しさのように思う。

蝶とすれ違うような感じで、ふっと何か美しい微かなイメージが浮かんでは、すぐにひらりと去っていく。

舞っている蝶を掴めないのはもちろん、じっくり眺めている隙もなく、「あ、蝶だ」と思ってすぐに見失う、というのを繰り返しているうちに読み終えていた。

と、要領を得ないことを書いてしまった。シンプルな難しさ・シンプルな読めなさとは別様の、すらすらと流れるように読んだくせに、どうしても読めた気がしない不思議。だけど、この感覚ゆえに、この本は僕にとってとても印象深い。この本は「なにか」だ。

奇妙な夢をみたけど、目覚めた後、その奇妙さを人に伝えられない。それどころか、自分にさえ説明できない。ただ、夢の後味だけが残っている。たとえるなら、そういうふうな読書だった。

しばらくのあいだはこの夢の奇妙な後味、眩暈のような混乱を味わっておくことにして、いつかまた読み返したい。

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