見出し画像

パヴェーゼ『月と篝火』


初めて読んだとき、けっこう気持ちが暗くなったのだけど、お盆だったので読み返した。ちゃんとしっかり暗い気持ちになった。こういう本って好きである。パフォーマンスが安定している。一流の演奏家のように。

食べて気持ちが暗くなる料理とか、会うと気分が落ち込む人、というのは困るけれども、読書については「読んで気持ちが暗くなる」というのは必ずしもその本の欠点ではない。というのが私の考えである。

とはいえ、「なぜそれが欠点にならないのか?」を説明できるわけではない。なんでだろう? 「あばたもえくぼ」みたいな話かもしれないし、全然違うかもしれない。ともかくそういうわけで、気持ちは暗くなるものの、良い本である。

この本は、

ぼくはここで生まれたのではない、それはほとんど確かだ。どこで自分が生まれたのか、ぼくは知らない。

というふうに始まる。語り手(アングィッラとあだ名される男)は私生児で、だから自分の出自が空欄であるような気持ちでいる。彼が久しぶり故郷の〈村〉を訪ね、そこで懐かしい景色のなかで過去を思い出しながら、旧い友人と会って……というような筋の物語である。

出自が曖昧ということで、この人にはアイデンティティが不安定なところがある。育った村のことも「故郷」と呼び切れないところがあるのか、「ここで生まれたのではない」といちいち断りを入れてから語るわけである。

いっぽうで、

二◯年もここを離れていたのに、村はみな、いまでもぼくを待っている

と、この〈村〉と強い紐帯で結ばれていると感じてもいる。初めて都会に出たときには、通りを歩きながら〈村〉の景色を探してしまったと回想する。「草や、薪の匂いや、葡萄畑は、いったいどこにあるのか?」と。

私生児アングィッラは、この帰省の旅で、何度も〈もともと無い故郷〉を喪失しているようにみえる。失う、ということには際限がないかのようだった。

故郷を持てないでいるまま、その故郷を懐かしんだり、あるいは失ったりする。こうした感覚は矛盾しているというか、初めから持っていないものは失ったりできない筈なのだけれど、不思議と共感するところがある。私もしばしば、はじめから無いものを失くしている気がする。

たとえば大切な人を亡くした後、遺品を紛失してしまう。あるいは故人の名誉が損なわれてしまう。そうしたとき、私たちはもう居ないその人をもう一度喪失し直したかのように感じる。

同じような要領で、〈村〉を離れているあいだに起きたできごと(たとえば戦争が土地の人々にもたらしたこと)を聴くたびに、語り手は故郷を繰り返し失っていく。

当たり前だけど、こういう話を読んでいて明るい気持ちにはならない。

何かを一度失っても、また失うことができる。繰り返し失い続けることができる。この反復される喪失のリズムが、毎夏繰り返される祭り、畑で焚かれる篝火、そして月の満ち欠けの反復と重ねられながらこの本を貫いている。

毎回の喪失のたびにやるせない気持ちになるが、しかし、季節が巡るように、満月が新月に変わるように、それは繰り返される。いつでも。どこででも。

少し長いけれど、そういうやるせなさが滲んでいる箇所を引用します。私はここの部分が、すごく好きなんです。

この谷間に、またこの世界に、どれだけたくさんの人びとが生活しなければならないのか、ぼくはついそのことを考えてしまう、そしてたったいまもあのころのぼくたちに降りかかっていたことが、人びとの身に起こっているのだ。しかし誰もそれを知らないし、考えようともしない。どこにだって家はあり、娘や、年寄や、幼女はいるーーそして別のヌートがいる、別のカネッリや別の停車場があり、ぼくのように外へ出て幸運をつかみたいと願う人間がいるーー夏には麦を打ち、葡萄を摘み、冬には猟へ出かける、そしてテラスがあるーー何もかもぼくたちのときと同じことが起こっている。そうならざるをえないのだ。

歴史というか、物事の摂理に対する強烈な無力の感覚がここにはある。良くも悪くも、すべては同じことの繰り返しに過ぎない。もしもただの繰り返しに過ぎないのであれば、それは良くも悪くもなく、まったく無意味な、機械的反復かもしれない。

が、別に彼はそれが無意味だと思っているわけでもないようである。誰かのコピーのような暮らし、かつて他の誰かが生きたものの反復のような生も、やはりひとつひとつ、かけがえのない生なのだ。と、そんなふうに考えているように感じた。

どの家も、どの中庭も、どのテラスも、やはり誰かにとってかけがえのない存在であっただろう[…]物質の損害や死者を思う以上に、一夜のうちに跡形もなく消えてしまった、たくさんの追憶と、そこで過ごされた歳月を思えば、辛さはいっそう身に沁みた。いや、違うかもしれない? むしろそのほうがよいのだ、全てが枯草の篝火と消えて、また初めからやり直したほうが。

いっそのこと、全部消してやり直すのがよいのだ。と、ちょっと投げやりである。ニーチェならば「超人たれ!」とか言うのかもしれないが、このお話の語り手は、永劫回帰にすっかり疲れてしまっているのである。「いや、違うかもしれない?」というところに、疲れているひとの感じが出ている。ひとは疲れると、急にさっきまでと真逆のことを言ってみたりする。

彼にとって、〈村〉で過ごしたありし日の記憶は、ひとつひとつがかけがえのない、一回きりの大切なできごとなのだろう。だからこそ、「そこで過ごされた歳月」が破壊されることに心を痛め、そうした「一回性のかけがえのない生活」が日々あらたに生きられては、また避け難く失われていくことに無力感をおぼえずにはいられない。

ひとは生まれたら必ず死ななくてはならない、というのが既に悲劇で(死ねなかったらそれはそれで悲劇だろうけど、現実には死ぬ)、あらゆる人生の追憶は消え去る。必ず消え去る。

あとに残るのは、生と死のリズム、毎年焚かれる篝火と同じ、時間に刻み目を入れるような反復のパターンだけだ。

ふと思ったのだけど、こういう読みかたをする自分もたいがい見方が暗いのではないか、という気がしないでもない。

ところで、ちょうどこの本を再読した後で会った人が「明日死ぬ、と思って生きてる」という旨のことを言っていた。

これは「明日死んだら今がんばってることも意味がないし、てきとうにやってます」ではなく、「明日死んでしまうかもしれないのだから、今日もしっかりと生きよう」ということで、立派である。

過去のこと(すでに失われたもの)や未来のこと(これから失われるもの)のことに思いを彷徨わせる時間も、ときには大切である。お盆もそういう儀礼である。けれども、「いま・ここ」に意識を繋ぎとめておくことも忘れてはいけない。

カルぺ・ディエムじゃないけれど、目の前のこの一日を味わう、このひと晩を楽しむ、この一本の煙草を満喫する。こうしたことが、目の前の他者を尊重する、といった倫理にも繋がっているような気がしてくる。

友人の何気ない発言からこういう教訓が得られるのも、たぶん『月と篝火』を読んで暗い気持ちにしてもらったおかげなのである。ですので、繰り返しになるけれど、暗い気持ちにしてくれる本ってなかなか良いのです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?