第4章 かわいさに至る前に──2004 立石遼太郎

こうあるべき、を突き詰めた設計は完璧には出来ませんが、「なぜだめなのかどうしても分からない」ものだけで出来た建物を考えるなら、自分たちにも向いているかもしれない、と考えることにしました。
中山英之『スケッチング』新宿書房、2010

0 あれからもう

あれからもう15年も経つのか、と、少し感慨深い気持ちになる。
2004年、僕は高校2年生だった。大阪の、平和で平穏なホームタウンにある公立高校の学生だった僕には、建築や建築家という言葉はいかにも大袈裟な言葉だった。2004年、僕は建築とは無縁の世界に生きていた。

1  2004年

それにしてもなぜ2004年なのか。中山英之の処女作、《2004》には、建築作品には珍しく、西暦からとった題名がついている。2004年の時点で《2004》はこの世に存在していたかといえば、事態は少しややこしくなってくる。《2004》の竣工は、2年後の2006年まで待たなければならない。
2006年、僕は予備校生だった。《2004》と題した住宅が2006年に竣工しているという事実を知るには、もう1年待たなければならない。
「西暦」という極めてリアリスティックな題名をもつこの住宅は、しかし、中山のその他の作品と同様、どこかしらフィクションの気配がある。中山の作品を語るとき、フィクションという言葉を無視することはできないだろう。しかし、そのなにがフィクションか、なぜフィクションなのか、という点において、僕らはまだ明確な言葉をもっていない。そもそも、建築におけるフィクションとはなにか、ということすら、僕らはわかっていない。
わからないものについては、考えなければならない。
言葉は、当然のことながら、字義的な意味と呼ばれる、ある限定された意味をもつ。と同時に、その周辺に多様なニュアンスをもつことも確かだ。少なくとも建築において、フィクションという言葉の意味は真空状態のまま、周りに孕む空気感が蔓延している。今のところ、《2004》のフィクション性も、この蔓延する空気感に絡め取られたままである。
空気を変えるために、話を過去に戻そう。《2004》は西暦にまつわる物語なのだから。

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