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トースターでスポンジケーキを焼く前編

これはトースターの物語である。もう少し言うなら、壊れかけのトースターの物語である。(壊れかけのRadioみたいに言った!)

どのように壊れているかと言うと定期的に「ぱちっ」と火が消える。そしてキッチンタイマーと化して、しばらくそのまま放っておくとまた「ぱちっ」と点火するのである。もしかしたら温度が上がりすぎないようにそのような仕様になっているのだろうか?取説が失われた今となってはもうわからない。

学生時代には、当時出回り始めたばかりだったオーブンレンジを持っていた。お菓子作りが趣味でもあったので電子レンジだけでなく、オーブンがどうしても必要だった。就職して東京に持って来てみると、そのオーブンレンジは使えなかった。いわゆる西日本東日本の電圧の違いというやつである。どうりでオーブンレンジの割に安かったわけだ。とても悲しかったが、そのオーブンレンジは今も実家でレンジとして健在だ。もはやオーブン機能のことはオーブンレンジ本人も忘れていると思う。オーブンはオーブンとして別に存在しているのだが、このようにレンジとオーブン2台使いになるのがいやで、奮発してオーブンレンジを買ったんだったはずなのに・・・。

オーブンレンジのない東京の生活が始まった。お菓子制作熱は大学生のデカダンな生活のうちに消え失せていたし、冷蔵庫の上に何かを置く、ということがなぜか急に嫌になって、(後から人に聞いたのだが冷蔵庫の上にものを置くのは風水的に良くないらしい。)この生活はストンと私の心にフィットした。当時読んだ本で、電気を熱エネルギーに変えて使うことの無駄を知ったせいもある。火力発電所で石油燃料を燃やすことで作られた電気を再び熱エネルギーに戻せば、数十%ものエネルギーロスになる。だったらはなから電気を経由することなしに、石油燃料のオーブンを使えばいいのである。省エネというかエネルギー効率。(理系。)(物理専攻。)真剣にガスオーブンの購入を考えた時期もある。しかしそんなの買ったらもうパン屋になるしかないじゃん・・・。(残念なことに当時、ちょっと小麦粉アレルギー気味なことに気が付きつつあった。)
そういうわけで私は灯油ストーブを買い、炊飯器を人に譲り(なんと先日「あの時の炊飯器、現役ですよ!」と連絡をもらった。20年近く経ってる。みんな物持ちいいー。)、中華街の照宝で素敵な蒸籠を買った。蒸籠があれば大体なんでも温められる。米は鍋で炊けばよい。(おこげLOVER。)

しかし東京で2度目の引越しの時に母が手伝いに来てくれて、この隠者のような生活に嘆息して、お母さんがオーブンレンジを買ってあげるから、という話になった。少し離れたダイエー(当時)の家電フロアに行ってみたが、どうも欲しいものがない。そもそも隠者は乗り気じゃないし、みんなツヤツヤ、サイバーなデザインなのも気に入らない。しかし母は買うと言って譲らない。ところで近所はなぜか個人商店の電気屋が多い。家具屋、電気屋、家具屋、家具屋、骨董屋、電気屋、家具屋、理髪店、家具屋・・・という感じ。間口の小さな商店ばかりだから、冷蔵庫、掃除機、エアコンなどなど、各家電につき1ないしせいぜい2種類程度の選択肢しか置いていない。こういうお店の主力商品はおそらく電池と電球とエアコン設置であろう。
ダメもとで入ったこれらのうちの1軒に、そのトースターはあった。トースター?そう、それはトーストに特化した商品である。艶のないグレー、コンパクトでおもちゃみたいなダイヤルが2つ。私の記憶では3000円ほどだった。母はオーブンでもレンジでもないこの小さきものに不満そうだったが、しぶしぶ買ってくれた。もちろん配達はしてもらわない。大通りを抱えて家まで帰った。

トースターはすてきだった。トーストはもちろん、ピザや惣菜パンの温めははこれまで蒸籠では無理だった。私は徐々に持ち前のクリエイティブ(!)を取り戻し、トースターでできることを広げていった。クッキーを焼き始め、キッシュ、クロワッサン、フィナンシェなども焼いた。魚も焼いてみたけれど(魚焼きグリルもうちにない。)、これは普通にガスコンロに焼き網を置いて焼くほうが美味しいとわかった。直火がいいのかもしれない。ちなみにトースターの二つのダイヤルは、一つはタイマー、もう一つは上火、下火、両火の調節である。つまり細かな温度調節は一切できない。伝熱線の上をつけるか下をつけるか、両方つけるか。ただそれだけである。しかし大抵のものはうまく焼けた。多少困ったのはパウンドケーキである。こちとらトースターであるから、そもそも庫内の高さがあまりない。パウンドケーキ型を入れると上の電熱線までの距離が近すぎてしまうのだ。しかしこれも、途中でアルミホイルを被せてしまえば、なんとかなる。多少焼きムラが出てもスライスして食べるわけだから要は焼けていて、焦げていなければいいのだ。一番好きなのは、初夏の時期に実家から送られてくる数種の豆で作るキッシュ。空豆の、何もかもどうでも良くなるような呑気な形がアパレイユの中に浮いているのをみると、幸せな気持ちになる。このうっとりトースター生活はかれこれ10年以上、途中、どうやら壊れかけている・・・?と気が付いたが、それ以上に壊れることもなく今に至っている。

自粛生活も板についてきた5月、ホールケーキを用意して欲しいという提案があった。丸くてホイップクリームが塗ってあって上にイチゴなど載っている、あれである。私はかつてお菓子作りが趣味であった時代がある。もう何十年も昔の話であるが、おぼろげにスポンジケーキを焼いた記憶はある。その工程もおおよそわかっている。その経験を踏まえ、「うち、トースターしかないんで(しかも壊れかけ)、無理ですね。ハンドミキサーもないし。」と一蹴したのだったが、あとで一人になって一度やってみるか、という気分になった。自粛で暇だった、ということもある。それと、なんて便利なインターネット、検索したらハンドミキサーなしで卵白をメレンゲに立てる方法を公開してくださっている方を見つけた。なんのことはない、半分冷凍させて泡立てればいいというのである。どうやらトライする価値はありそうだ。スポンジケーキに明け暮れる5月はこうして始まった。(後編に続く。)

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