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絵への愛を思い出すまで6



"私は奪われる"


いつの頃からか気付いた時には

そういう感覚が自分の中にあった。


私の得意な部分だけをみて

絵、得意なんだって?

私この絵が好きなの!

同じの描いてよ。


器用なんでしょ?

こういうのが欲しいから

これと同じ物作ってよと

自分の都合の良いように

私を使おうとする人が居たり


私の好きなものや

大切にしているもの

描いた絵や作品などを

知らない間に

真似されていたり。


さも

私が作ったの

私が見つけたの

そんな風に周りに

見せつけているのを

黙って眺めていた。



それいいね!と

共有出来たのなら

楽しいのだけど


知らない間に

真似されるということに

私は恐怖を感じた。



言ってくれたらいいのに

え、なんで… 怖い…



そういう出来事にあうたびに

私は

表現すること自体に

億劫になっていった。



私の中の

なにかが減ってしまうような

削られるような感覚が

とても嫌だった。



そういう人に

出会うたびに

またか、またかと

感じていて

そうして私の心の奥底にある

冒頭の感覚に気付いた。


"私は、奪われる"


自分のことをそう思っていたのだから

私の人生に

奪う人が現れるのは当然だった。



私のなにかを勝手に奪う人が居なければ

私は奪われるという体験が出来ないのだから。


そう感じた最初の記憶は

どこにあるんだろう。



遡っていくと

幼稚園くらいの子どもの頃

私はとにかく

自分の好きなものを誰かに

貸してあげたりすることが

出来ない子だった。



今、その物やオモチャに

ハマってしまっている時は

いつにも増して

絶対に離したくない。


だけどずっと楽しそうに遊んでいれば

他の子も私が何してるのか気になるもので

そうしていると言われるのである。



「 貸してあげて。」


なんの変哲もない、よくあるフレーズ。

兄弟間でも友達間でもよく聞く言葉。


はたから見ればいつも遊んでいるのだから

少しだけ貸してあげたらと思うのも

無理はない。


私はこの言葉が本当に

嫌で嫌で、仕方なかった。


子どもの頃のビデオに写る私は

貸してあげての一言で

ピクリと固まり、表情がみるみる変わる。

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嫌!嫌!と大声を出したり

注意を無視したりする。


痺れを切らして他へ移動するオモチャを見て

私はいつも泣き叫んでいた。


まるでなにかと生き別れるかのような

形相で泣きながら手を伸ばしていたり

ずっと手元に戻ってくるまで

何もせずにずっと見つめることも多かった。

その間はこれで遊ぼうと言われたりしても

私は動けなくなってしまう。

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そんな瞬間を捉えたものがたくさんあった。


まさにその一連の流れは

"貸してあげた"ではなく

私の視点から見ると

"奪われる"という

初めての体験だった。


そして、私は子どもながらに

大好きなものを奪われないためには

どうしたらいいのかという思考になる。


皆の顔色を見ては

貸してあげてと言わせないように

先回りして、立ち回るのだった。


その行動ははたからみても

明らかに違和感を覚える動きで


それほどまでに

奪われることに

対する強い恐怖と悲しみが私の中にあった。


大切なものがなくなる夢や

誰かに追われて必死に逃げても

最後には何かを奪われて泣いている夢も

よく見た。


私は自分の好きなものや

使っているものに対して

ものすごく想い入れを込めてしまう。


なぜ好きなのかという理由を

延々と話せるくらいに。


飽き性なくせに

私のツボに一度カチッとはまったものは

永遠に好きというような

アンバランスさがある。



だからこそ

自分が思っているより

楽しさやかわいさが

理解されなかったり

軽く扱われてしまうことや

夢中になっている

世界観を破壊されることが

1番悲しかったのかもしれない。


貸してほしいのは、楽しそうだからで

泣きながら奪われたとしても

私が大好きなものを

目の前ですぐに飽きてしまう。

物が楽しいのではないから。

真似だってそう。

欲しいものは物じゃない。

それが何度でも伝わらない悲しみが

私の中にあった。



だけど

今、私のなにかを奪う人は

居なくなった。


それは

誰にも奪えないということを知ったから。


htlでhappyちゃんが話してくれた

"無限のパイ"というお話がある。

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私はこの話がとても好きで。

"アップルパイ"は

色々なことに当てはめられるなと思うんです。


特に"奪われる"に怯えていた私には

とても響く話だった。


奪われたようにみえた"なにか"に

価値があるのなら

わたし自身に同じものが

そもそもあったんだという気付きにも繋がった。


結果ではなく過程がどうか

どうしたか(Do)ではなく(Be)どうあるか

この視点はいつも意識していないと

忘れてしまいがち。




もしも借りに盗まれたり奪われたとしても   腹を立てたり悲しむ必要も本当はない。 

だっていくらでもまた生み出せるから。    何にも損することなんてない。

たとえその人がそれで利益を得たとしても   盗んでる人は                ずっと盗み続けなきゃいけないから。

それに怯えて源に蓋してたら、もったいない。

あなたが生み出したものと
あなたの真似をしたもの

まったく同じ見た目だとしても
まっっったく違う物です。別物です。

そして、この世界は
もう新しいものなんかないです。

みんな何かの真似をしながら
そこに自分のオリジナルを少し
加えながら生み出したものばかりです。

だから、真似しちゃいけないと
縛られすぎたりもしないで

自分も安心して
人のいいなと思うところを
真似して生きましょう。

何を取り入れたところで
完全なコピーは出来ないんです。


あなたはもうすでに
オリジナルでしかなくて
たったひとりしか居ないんですから。




そう話してくれた。


愛をベースに、物事を捉えて生きるか


恐れをベースに、物事を捉えて生きるか


それによって


見える世界はこんなにも違う。


最近、私の絵に惹かれて

新たな形の作品を

生み出してくれた人に出会った時

その変化を感じた。


素直に嬉しくて嬉しくてたまらない

自分が居た。


その時に私は、私以外のなにかに

固執しなくなったことに気付いた。

私からうまれたものに愛着や

大切な想いはあれど

固執しなくなった。

価値は私自身にあるのだと

気付けたから。


私のことが、私の絵やものが

純粋に好きな人に届いてくれたら

それが1番とても嬉しい。


嬉しいが誰かを通じて

倍々になっていく

幸せで暖かい感覚が

身体中を巡った。


ものづくりや絵を描いていて

知らず知らずに

好きな作家さんや

画家さんに影響を受けていて


これ、、なにかに似ていないかな?

大丈夫かな、、と心配する自分も

いつも居た。

模写でもしてないのなら

そんな小さな心配ももうやめた。


私が描く絵は、私の絵だ。

私が作るものは、私の色だ。



何にも似てない。

誰も真似できない。


そして、私も誰の真似もできない。


私の源に詰まっていた

心配や奪われたくないという想いで

蓋をしてしまった栓をはずしてみたら

またアイディアが湧き出てきた。


その泉を見た時に

懐かしい思いがした。

自分が好きだと思った。


描きたい絵が

書きたい言葉が

作りたいものが

枯れることなく

湧き出してくる。


絵が純粋に大好きだった

こどもの頃

私は私が大好きだった。


それはこの源の存在を

知っていたからだ。


表現をすることは

とても楽しくて

豊かで幸せだった。


やっと気付けた。

私のなにかを奪う人はいない。



たとえこれから奪おうとする人が

私の前に現れたとしても

今までのように感じることは

ないだろう。


それは

奪われたとしても

大事なことはなにか

今のわたしは見えるから。



私にしかかけないもの

作れないものがあるのだと

心底思っているから。



もう私は誰にも、奪われない。



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