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【書籍】建築家なしの建築

ウィーン出身でアメリカの建築家、エッセイストであるバーナード・ルドフスキー(Bernard Rudofsky, 1905-1988)による著書『建築家なしの建築』(渡辺武信訳)。

1964年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で同タイトルの展覧会『Architecture without architects, an introduction to nonpedigreed architecture』が催された。

https://www.moma.org/documents/moma_catalogue_3459_300062280.pdf
(閲覧日:2021年4月30日)

副題『系譜なしの建築についての小さな手引書』とある通り、本書は世界各地の無名の工匠たちによる風土に根差した土着建築を一堂に会してパノラマ的に紹介した図集である。

記載の通り、世界各地に存在する名建築と同様に、誰が作ったかは定かではないものの、その土地固有ともいうべき建築物もまた数多く存在する。建築のコンテクストからは一見すると逸脱しているかのように思える建築を集め、展示を行ったのが本展であった。

なぜ、本書を手に取ったのかというと、「ファウンド・フォトのコンテクストを探る」において、核心ともいうべき「ヴァナキュラー・フォト(ヴァナキュラー写真)」の用語の始まりを突き止めるためである。

ヴァナキュラー(vernacular)とは「その国の」や「その土地固有の」を意味する単語である。ヴァナキュラー写真というジャンルが存在していたところまでは突き止めていたのだが、そもそも誰が初めに「ヴァナキュラー」という用語を用いていたのか、気がかりではあった。

正統な建築史のコンテクストから外れた建造物はあまりにも知られていなかったため、それまで適当な呼称すら存在していなかった。ルドフスキーは本展においてこうした建築物について、各建築の状況に応じた呼び名を与えていた。

・風土的(vernacular)
・無名の(anomymous)
・自然発生的(spontenous)
・土着的(indigenous)
・田園的(rural)

vernacular:「その土地固有の」建築とは、風土的と訳されているように、『その土地の気候・地質・景観などに見られる環境』に即した建築である。

一方で、土着的:indigenousは他にも「先住の」の意味がある。すなわち、かねてよりその地に住んでいたものによる建築、アメリカであれば先住民族であるインディアン的建築がそれに該当する。

そのため、ヴァナキュラー写真を邦訳すれば『風土的写真』というべきであろうか。写真に写された建築や人々、服装などといったものから「その土地固有の」情報が込められている写真。そして、ヴァナキュラー写真もまた主に無名の写真=誰が撮ったのかが定かではない、スナップ写真を指す。

写真家ではない、その地に住む人々が撮影した地域密着型の写真、という意味合いが強い。また、土着的:先祖代々その地に住んでいるかどうか、よりも「その地に住みつく=その地に定住したもの」によって撮影された、ことが重要である。

無名な建築を集め、分類し、それぞれ呼称を与え、新たなコンテクストの枝を広げていく。こうして新たなもの(未定義なもの)と歴史とが接続され、誰かが再解釈を行うことによって新たな歴史が刻まれていく。まさに、アートの歴史そのものである。

以上のことから、ルドフスキーが『建築家なしの建築』展(1964年)において、無名で呼称が定まってはいなかった建築に対して、各建築の状況に応じて名付けたもののひとつに『風土的(vernacular)』建築がある。これが「ヴァナキュラー写真」という呼称の始まりであるといえる。なぜなら、ルドフスキーが本展で展示していたのはまぎれもない無名な建築家によって建築された「写真」であったのだから。

また、本書にあった都市に関する記述も興味深い。

都市性(urbanity)という言葉それ自身が、壁と結びつきを持っている。なぜならurbsというラテン語は壁に囲まれた都市を意味しているからだ。だから都市が芸術作品であろうと望むなら、それは一枚の絵、一冊の書物、一曲の音楽のようにはっきりと限定された形を持っていなければならない。

都市という芸術作品を作るためには「壁」=限定された形が必要・・・。なるほど、これはちょっとおもしろいので、いずれ制作時のアイデアに生かすことができそうなので、温存しておこう。

また、訳者である渡辺氏があとがきで指摘しているように、ルドフスキーは実際に現地に滞在し、その生活を「一市井人(いちしせいじん)」として体験することによって書かれた著書が多いという。たとえば『キモノ・マインド』という書籍については、2年間日本に滞在して書かれたものであるそうだ。

自らの体験を通じて、その形態だけではなく、形態の雰囲気を論じることができる数少ない人物の一人である、と渡辺氏は評価している。

「経験・体験・発見」

書籍から得られる情報は確かに有益ではあるが、自らが実際に見て、触れて、感じたことの方がより重要である。ルドフスキーはまさにそれを実践し、文書へと落とし込んでいたのだといえよう。『キモノ・マインド』、もろもろ一段落したら読んでみようと思う。




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