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【コンセプチュアル・アート】初期モダニズムにおける反芸術の姿勢

現代美術研究家であるトニー・ゴドフリー著『コンセプチュアル・アート』木幡和枝訳、岩波書店、2001年。コンセプチュアル・アートの観念について果敢に挑んだ本書を読み解いていく。

内容が多岐に渡る(全448ページ!)ため、章立てごとに区切って進めていく。2回目は第1章『初期モダニズムにおける反芸術の姿勢  デュシャンとダダ』。この章でコンセプチュアル・アートの原点であるデュシャンに焦点を当てている。

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自己意識のなかでみずからが特別な分類であると自覚して以来、芸術はこの「概念的(コンセプチュアル)」であるという立場をしばしば遊戯的に扱ってきた。

自己意識が自己批評への方向性を獲得し始めたのは19世紀にモダニズムが勃興してからであり、エドワール・マネ(1832〜1883)が当時のパリのモダニズムな生活風景を描いた最初の画家として位置付けられている。

コンセプチュアル・アートの原点、すなわちマルセル・デュシャン(1887〜1968)がレディメイドの作品である『泉』を提示するに至った経緯を読み解くため、キュビズムまでさかのぼって考察されている。

描かれているとされるものの架空の現実性と、ありのままの実体との関係に決着をつけようとしたのがキュビズムであった。結果的にキュビズムが絵画の危機を頂点にまで追い詰めることとなる。ただし、キュビズムは絵画を廃棄することよりもむしろ、伝統的な主題(静物と肖像)の問題にこだわり続けていた。

キュビズムがコンセプチュアル・アートの発生に重要であった点として、ゴドフリーは以下を挙げている。

1. レディメイドの使用の先触れとして日常的なイメージや事物を導入した
2. 認識論つまり表象と、われわれがなにを知っているかをいかにして知るかという問題の探究に、公然と取り組んだ
3. 見る人の期待の裏をかいた、あるいはそれを錯乱した
4. 街なかの生活とスタジオの密室的な生活の融合を目論んだ

かくいうデュシャン自身も1912年頃からキュビズムの画家としてのキャリアをスタートさせていた。ところが、『階段を降りる裸体(No. 2)』をアンデパンダン展(独立美術家展)に出品したことが転機を迎えることになる。審査委員会のキュビズムにおけるステレオタイプな表現方法、およびものの見方に失望した彼は、展示会から絵を引き上げてしまったとともに、絵画と決別してしまう。

しかしながら、デュシャンが決別したのは絵画そのものではなく、愚鈍な絵画そのものを拒絶した点にある。創作と思考は別物だと捉え、思考は言葉とイメージを使ってするものであり、絵の具でするものではない=純粋絵画における学会主導の専制体制を真っ向から反対する姿勢を貫いたのだ。

それから3年後の1915年、デュシャンはニューヨークへ移った(いや、戦火を逃れてきた、といった方が正しいであろう)のと同時期に、レディメイドの思考が形成された。完全なる知覚麻痺の状態に対する反動と、レディメイドに書き込んだ短文による、見る者の意識をより言語的な他の領域に向けさせるという特色によるものである。

『泉』は独立芸術家協会の対応に対する挑発的な作品であった。本物の民主的精神を掲げていた独立芸術家協会は、どんな芸術家でも6ドルの参加費を払いさえすれば出品できるオープンなもの、であるはずであった。当協会の役員でもあったデュシャンが偽名(R. Mutt)を使って出品した『泉』は瞬く間に物議を醸し、役員会の会合により展示しないとの判断が下されてしまった。

その翌日、デュシャンは妹に宛てた手紙のなかで事の経緯をしたため、スキャンダルに発展することも予期していた。

この作品の目的は協会の役員たちがなにを基準にしていたのか。それと彼らの行動様式とを試すことだった。論争を仕掛けたのだ。

作品は写真家のアルフレッド・スティーグリッツによって撮影されてまもなく消えてしまった。

第一次世界大戦が勃発し、当時のアメリカは参戦したばかりであり、「文化と高尚な価値を防衛するための戦争」というのが建前であった。嘘と独善にまみれたプロバカンダは「文化」そのものの不信感を募らせるだけに終わり、意気揚々と戦地に向かった若者たちは容赦なく殺され、意気消沈し、この苦痛と死を正当化する高尚な理由など存在するはずもないと疑問を抱く結果となった。

このような時代において、デュシャンは芸術や文化の本質そのものを作品を通して問うたのである。そのとき、権威は危機に晒されたのだ。当時におけるもっとも信憑性のあるアートは、怒りと疑問を投げかけ問うアートであったのではないか、とゴドフリーは述べる。

その後の流れが、ダダ、シューレアリズムへと受け継がれていくことになる。

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ゴドフリーはキュビズムがコンセプチュアル・アートの発生として重要かつ、理由を4つ挙げている。しかし、「コンセプチュアル・アートの発生」と述べてはいるものの、あくまでデュシャンがレディメイド作品に至る経緯として、キュビズムがよくも悪くも重要な役割を果たしていたにすぎない。「コンセプチュアル・アートの発生=デュシャン」として捉えているため相違ではないものの、いささかミスリードではないか、と読んでいて感じた。

また、「この作品の目的は協会の役員たちがなにを基準にしていたのか。それと彼らの行動様式とを試すことだった。論争を仕掛けたのだ。」とあるように、あくまでデュシャンは芸術における論争を仕掛けるために『泉』を提示をしたのであって、ゴドフリーのいうように第一次世界大戦時におけるアート=「怒りと疑問を発露とするアートではなかったのか」とはいささか整合性が取れていない気がする。

デュシャンが『泉』を出品したのはアメリカが第一次世界大戦に参戦した年と同年(1917年)である。引き取った作品を撮影する際において、

スティーグリッツはマースデン・ハートリー作の≪戦士≫という絵を背景にしてその写真を撮った。便器の後ろに見える2枚の旗は第1次世界大戦を、そして当時の旗振りブームを皮肉をこめてほのめかしているかに見える。

とあり、『泉』で起こった論争を第一次世界大戦と結びつけるように仕向けたのは、ほかならぬアメリカ人の「スティーグリッツ」ではなかったのではなかろうか。

※本誌より引用

今なお続く論争に発展した『泉』は、芸術だけには留まらない「問い」、すなわち、コンセプチュアル・アートとは「問い」のアートである、に帰結される。

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