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【書籍】ヴォルフガング・ティルマンスインタビュー

インタビュアーとティルマンスの対談をまとめた本書。なかでもハンス・ウルリッヒ・オブリストは現代アートにおいて最も影響力のある人物のうちのひとりに挙げられる人物である。

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■Chapter1:ホルガー・リーブスによるインタビュー(2009年5月)

第53回ヴェニス・ビエンナーレを前に、南ドイツ新聞社のホルガー・リーブスが行ったインタビューの内容。

ティルマンスの≪Wald≫シリーズは、自身の作品を「コピー」することで制作されている。これは、自作の再利用という訳ではなく、作品を拡大するために「適切なメディアとしてコピーを選択している」と述べている。

ヴェニス・ビエンナーレでは、「自然」をテーマに絞って展示構成がなされている。ティルマンスにとって「色彩はひとつの自然現象」であり、たとえ色彩がメインビジュアルである作品であったとしても、美術のディスクール(≒言説)としてではなく、「自然のひとつの観察」として観ることができると指摘している。

メインルームではNASAのケプラー探査望遠鏡関連の作品が並んでいる。ここでもテーマは「自然」にあり、近年の飛躍的な系外惑星の発見に触れ、地球型惑星が発見されることで、彼は生命体が存在する可能性に興味を抱いている。

地球外生命体の存在が確認されれば、第二のコペルニクス転回ともいうべき、これまでの宗教的概念を根底から覆す可能性をはらんでいる。この点において、ティルマンスはあらゆる宗教人はもう一度自分たちの一回性を根本から考え直す必要がある」と述べている。

ケプラー・ミッションを通して、「さまざまな世界について根本からもう一度完全なる仕方で考える必要が生じる」というように、当たり前の世界観を疑い、新たな概念を書き換える。すなわちティルマンスは作品を通して「世界の創造」を行っていることにほかならない。これはビエンナーレのモットーとも合致している。

ちなみに、ティルマンスの写真のルーツは「コピー」にあるという。自身の過去の作品を大きくするためにコピーを用いているように、コピーを「拡大メディアとして利用する」ことに興味を持っている。写真というメディアを利用し、「写真でなにができるのか」を探求していることになる。

また、基本的にティルマンスの問いは常に同じである。

良いイメージを生むためには、どのように自分のメディアを投入すればよいか。何かが不可能である理由は何千もあります。たとえば、すでにやられてしまっている、とか。そのとき、私はそれが可能になる方法を考えるわけです。(中略)常に問い続けているのです。ある画像は可能か?期待を超えた結果を生むために、どのように写真というメディアを捻り、曲げることができるか?

そして、インタビューの最後には「私の日々の仕事とは、常に眼差しを研ぎ澄まし、それを問いただすことなのです」と結んでいる。

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■Chapter2:ハンス・ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー(2007年1月) 

オブリストはティルマンスの作品について「君の作品の強さのひとつに、それが時代の変化と、変化のなかでの標準化の力に常に向き合ってきたことが挙げられる。」と指摘している。

また、オブリストは『manual』に記された「エイズ=見えないもの」に関する内容に触れ、「写真は不可視のものの何を可視化するのか?」との問いかけに、ティルマンスは言葉の役割に触れ、常に自問していると返答している。

物事に注意を払うこと。どんなことも、何かに発展する可能性がある。それは脅威かもしれない。注意を払っていれば、白か黒か、是か否かなど、杓子定規なカテゴリーで考えることなく、その時その場所の存在と繋がっていられる。

また、ティルマンス自身の作品が抽象、具象と明確に分離してみられていることに反し、「カテゴリー的な区別は、僕のアプローチとは対極を成すもの」だと述べている。具象と抽象を分離させるのではなく、それらを結合するものに興味を抱いており、「僕にとっては抽象写真とは、それが最初から、それ自身を表す具体的なオブジェである理由から、具象だ」とみている。

イメージを焼き付ける紙、それは僕にとってのオブジェだ。僕にとって、イメージは支持体から分離されない。

ティルマンスの制作における出発点は、常に「1枚の写真」から始まっているという。その写真の「単一性」の追求と、インスタレーションの一部として用いることで、その意味を複雑なものへと押し進められると考えてのことだ。

制作方法にも触れ、「決定的なのは、偶然を形にはめる行為を見せないこと。これは人がすぐに落ち込む傾向でもある。(中略)作家性を見せたがるこうした願望は、多くの作品に悪影響を与えている。」と指摘している。

ここから導き出されることは、あたかも偶然の産物を、自らが意図して制作したという作家のアイデンティティによる点であり、その偶然さを受け入れ、作品のなかに「不完全さ」を持ち合わせることで、鑑賞者が入り込む余地を与えることができるかどうか、ということではないかと思う。

インタビューの最後ではアンディー・ウォーホルの功績について言及している。「日常生活からファイン・アートへ、大胆に価値を転換した」ことこそが非常に重要な転換期である一方で、「人々は安心を求め、(中略)人は一時期なものを好まない。死や歴史によって確定されたものしか耐えられない」とティルマンスはみている。

人々は常に新たな表現を切望しつつも、不確定な(評価の定まってはいない)一過性な表現を評価できる物差し(≒評価軸)は持ち合わせてはいない。過去の、既存の評価と比較することによってのみ、その表現の価値が「相対的」に決定付けられるといえよう。

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■Chapter3:ハンス・ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー(2007年2月) 

Chapter2から約半月後のインタビューである。

オブリストはティルマンスの作品の重要な側面として、「コンセプチュアル・アート」や「コンセプチュアル・フォトグラフィー」の点を指摘する。

これに対して、ティルマンスは「直接の影響はない」としつつも、「写真をいつもオブジェとみなしていた」と述べている。そして、以下の点については、コンセプチュアルな行為であるとみている。

写真とは、決して実体を持たないものではなく、三次元の物体をほとんど二次元のイメージ物体へと変換するプロセスだと考えていた。

問題意識は「変換」であって、「あるアイデアを変換すること」が重要であり、さらに厳密ににいうと「ある思考をどうやって可視化するか?」につきるという。

これは、オブリストが指摘するように、ルーシー・R・リパードのいう「非物質化」にほかならない。

オブリストはティルマンスの白黒作品に触れ、それまでの文献には白黒写真に対する明確な言及がほとんどみられなかったと指摘したうえで、このことについてティルマンス本人に伺っている。

ティルマンスの作品の中には白黒の作品が紛れ込んでいる。一般的には、アイデアを白黒に「変換」したとみられてはいる、と前置きしたうえで、ティルマンスは以下のように返答している。

白黒は常に作品の一部として存在し、芸術的な見かけを排除するために、カラー作品を制作し始めた当初から、白黒写真は「すべてカラー用紙」に焼き付けてきた。これは、視覚的に「カラー写真のようにみえる」効果を狙ってのことであり、カラー印刷による本の形態では、印刷状態や紙質によってさらに白黒であることが気付かれない。こうして、白黒写真であることを、ティルマンスは「上手に隠してきた」と述べている。

これは、ティルマンスは写真集やインスタレーションの中に白黒写真の存在を重視しており、全体の構成において色彩過多となるのを抑えるために狙った効果であるという。

すなわち、これは全体的なバランスを考慮して、「意図的に」白黒写真を、白黒写真にみえないように配置しているといえる。暗室作業による写真の「オブジェ」を制作するにあたって、視覚的な効果を理解したうえで行っている「プロセス」なのである。

続いて話題は1980年代のアートやミュージックに移っていく。そのなかで「アプロプリエーション・アート」について触れられている。

アプロプリエーションとは、自身の作品のなかに過去の著名な作品を取り込む、いわゆる「流用」や「盗用」といった表現のひとつである。とりわけ、リチャード・プリンスによるマルボロの広告を再撮影した≪ Untitled (cowboy)≫(1989)が有名である。

オブリストはティルマンスの作品のなかでのアプロプリエーションは「写真より、新聞記事やテーブルなどのテキストに関するレベルで顕著である」と指摘している。この指摘に対して、ティルマンスは以下のように述べている。

僕は自分の作品をアンプのようなものと見なしてきた。自分が求めるメディアは増幅のメディアだと理解してきたわけだ。何を撮り、誰を撮り、何を発表するかは、僕がどのような立場を支持し、公にしたいかということで決める。

インタビューの最後には宗教観について触れている。ティルマンスは「世の中には宗教的な人とそうでない人がいる」という立場のうえで、自身はスピリチュアルなものを必要としている側の人間であるという。

とりわけ、ティルマンスは80年代西ドイツ・プロテスタント教会の理念に共感し、「組織宗教を敵ではなく、心を解放してくれるもの」だとみていた。しかし、そうしたことを踏まえたうえで「宗教があったら、あるいはなかったら、世界はより良い場所になるのかと問わなければならない」と2007年当時の時点で考えている。

「宗教とは、僕らが自分の死と、自分の生命の謎に向き合う手助けをしてくれる一手段にすぎない」とし、クエーカー教がティルマンスにとっての一神教の宗教であるという。

これは、「ほとんどの宗教には信者の方がほかの人よりも神に近いとする基本的想定が隠れている」ことを指摘したうえで、「ある宗教が厚かましくも、他の宗教の信者あるいは無神論者よりも自分たちのほうが神や真実に近いと想定する限り、それは平和な宗教であるとは言えない」と弾糾している。

宗教間の争いが絶えない根本的な部分には、こうした信者同士の優劣を明確化する行為によって生じる摩擦が理由のひとつとして挙げられるのかもしれない。

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先日、とある話しの流れで「やはりティルマンスは抑えておくべき」という話題になり、それならばと思い手に取った本書。

聞き手のレベルによるところなのであろうか。わずか95ページのみであったにも関わらず、全体を通して濃密かつ興味深い内容であった。

ゲリハルト・リヒターはドイツ語の「シャイン」をもとに「絵画で何ができるのか」ということを追求していた。

制作については、美術史のコンテクストの延長線上に自分の立ち位置を明確にしたうえで、自身に関連する被写体をモチーフにしながらも、その本当の意図を覆い隠すことによって、作品の自律性を担保していた。

一方でティルマンスは、すでに誰しもがそうであると思うメジャリィティーな考え方に疑問を呈し、「写真で何ができるのか」ということを追求している。

制作については、リヒター同様に比較的身近な存在などを被写体としているものが多い。また、写真は「オブジェである」とみなしたうえで、各作品はそれぞれ意図が異なっていたとしても、発表方法(展示、写真集など)によって全体的なバランスを考慮しながら提示している。

2020/11/07~12/19、六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートで催された『How does it feel?』展を改めて振り返ってみると、ここまでの内容と展示方法やコンセプトなどがパズルのように組み合わされていく。

私の制作の傾向としては、どちらかというとリヒターよりもティルマンスの方が近いように感じた。写真表現の拡張、すなわち「写真で何ができるのか」を念頭に置きながら、制作のきっかけとなるような事象をとらえられるよう、常にアンテナを張っている。いうなれば、魚群探知機のようなもので、身近に存在する「当たり前だ」と思い込まれている物事に対して、それが判断できるギリギリのライン(画像的にという意味ではなく)で視覚化したいと考えている。

また、ベッヒャー、リヒター、グルスキー、トーマス・ルフ、そしてティルマンス。気になるアーティストはそろってドイツ出身であることからして、ドイツという国の歴史や風土、宗教観や教育などによって数々の才能が育まれていることは少なからず影響していそうな気がする。

このタイミングでティルマンスに触れられたことはよかったと思う。


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