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【展示】ダミアン・ハースト 桜

国立新美術館で開催中の『ダミアン・ハースト 桜』を観に行った。

イギリスの現代美術家であるダミアン・ハースト。生と死を連想させる作品が特徴で、サメや牛をホルマリン漬けした作品などが有名。


絵画とはアーティストが持つ頭の中のイメージを「描く」もの、と一般的には認知されているが、≪桜≫のシリーズは具体的なモチーフが描かれてはいない。

多くの人は桜を撮ったことがあるとは思うが、桜を撮ると思ったようには写らない。どこか暗く、どんよりとした写真になってはいないであろうか。

われわれの潜在意識の中には、桜の花は濃いピンク色であるというイメージを持ってはいるが、実際には思っているよりもはっきりとした色味ではない。

しかし、ハーストの描く「桜」の色味は、われわれの記憶色に近い。こうした点においては、本作もまたアーティストであるハーストが「描いた」ものであるといっても、過言ではないであろう。

※国立新美術館にて撮影
※国立新美術館にて撮影


遠方から観ると確かに桜のように「見える」が、近付いてみると、そこには無数の絵の具が押し付けてある。絵画=平面、と一般的には思われているが、元来絵画は平面上に絵の具の分だけ厚みのある、立体的な表現なのである。

細部は乱雑に絵の具をくっ付けただけのようにみえるにも関わらず、われわれは遠方から観ると、それが具体的ななにかであると「わかる」。それは、このような形態をわれわれは「桜」であると「知っている」からにほかならない。

コード(記号)は付着した絵の具の形状であり、そのコードの集合体が「桜」として「わかる」。


とりわけ、日本人にとって桜は別れや出会いを連想させる、春の憂いを感じずにはいられない特別な花である。さらには終息の兆しがみえないコロナ禍や社会情勢が緊迫している現在において、桜はひとときの安らぎさえ感じるモチーフでもあろう。

本展の開催は3月初旬から5月、つまり桜前線と合わせて会期が組まれている。

なお、本展のウェブサイトには以下のような本人の言葉が綴られていた。

〈桜〉のシリーズは、美と生と死についての作品なんだ。それらは極端で、どこか野暮ったい。愛で歪められたジャクソン・ポロックみたいにね。〈桜〉は装飾的だが、自然からアイデアを得ている。欲望、周囲の事柄をどのように扱い、何に変化させるのかについて、さらに狂気的で視覚的な美の儚さについても表現している。〈桜〉は快晴の空を背にして満開に咲き誇る一本の木だ。スタジオの中で色彩と絵具に没頭するのはとても気分がいい。〈桜〉はけばけばしく、とっ散らかっていて、儚い。そして、私がミニマリズムや想像上の機械仕掛けの画家であるというイメージから離れたことを示していて、とてもわくわくするものなんだ。

満開に咲いては散りゆく姿が、美しさと儚さを想起させる桜。ソメイヨシノの寿命は60年程度といわれているが、命のあるものはいつか必ず死が訪れる。なにも、桜に限ったことではない。「短期間」で咲き誇り、「散る」という桜の特性が、生と死にはリンクさせやすいからであろう。

ただし、本作はステレオタイプな桜のもつイメージと、ハースト自身のテーマ性とをうまく融合させた作品である、と私は思わない。むしろ、最後の一文に全てが集約されている気がする。

ハーストの作品に対する一般的な認識から逃れたい。長く続けていると、作品に対する印象は一定の方向に収れんしがちである。この人の作品はこうだよね、といった具合に。

よくも悪くも何かにつけては注目されるハーストではあるが、彼自身もまたアーティストとしての生死、いうなればその生き様を作品を通して世の中に提示し続けているのである。

本作はダミアン・ハーストというひとりのアーティストが、この世に生きていた「証」そのものであり、「桜」という仮面を被った意識(=絵の具)の集大成なのである。

※国立新美術館にて撮影
※国立新美術館にて撮影


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