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【考察】わかる写真とわからない写真

そもそも「写真がわかる」とは何であろう。そのひとつの解として、表象したイメージや制作のプロセスが「理解できる」ことにあるのだと、私は思っている。

しかし、それと同列に、「わからない写真」というのも多々存在する。「わかる」ことのプロセスを真とすれば、「なにが写っているのかわからない」や、「どうやって制作されたのかわからない」にあたるであろうか。

メディア的な機能における写真であれば、それがどのような状況であるか「わかる」必要がある。しかし、アートであれば必ずしもそれが何であるか「わかる」必要はない。

アーティストが自身の作品について語るとき、制作の動機について話すのと、制作方法について話すのとでは、受け手の印象が大きく異なる。

とりわけ、制作方法については、私自身なにを用いてもいいとさえ思っている。あくまで最終的なイメージを生成するための方法(プロセス)は、適宜理に適っている、やりやすい方法を取捨選択するだけである。

「どうしてこの作品を制作したのですか?」

この問いで問われているのは、どういう方法を用いて制作したのかということではない。「あなたは、どのような考えや経験を通して、この作品を制作するに至ったか」という制作の「動機」が問われているのである。

〇〇のカメラを使って、どこどこで××を撮りました。カメラの性能テストを聞きたいのではない。俗にいう「作例」は作品ではなく、単なる性能テストである。その目的は訴求効果、すなわち購買意欲をもってもらえるような機能が新たに追加されたので、買ってくださいというのが真の目的である。カメラ雑誌やSNSなどで、機材名や設定情報が掲載されているのはこのためなのである。

つまり、同じように撮りたいのであれば、同じ機材で同じような設定を行えば撮れるよというのを、「購入してください!」という直接的なワードを載せていなくとも、暗喩的に「買ってください!」とうたっているのである。


話しを戻そう。作品が写真として提示された瞬間から、鑑賞者はそこに「なにが写っている」のか読み解こうとする。それは、写真とは「撮るもの」であり、「写るもの」であるという、ステレオタイプな写真の領域からものごとを判断しようとする行為にほかならない。

いまや、写真の表層はなにが写っている・写っていないから、なにかが表示されているフェーズへと移行しているのではなかろうか。

私は自身の作品について語るとき、
①自身では撮影していない
②表示されるイメージは何でも構わない
ということをよく口にしていると自覚している。

①は、写真とは撮影するものだけではなく、私は「写真」になるものが生成できるからである。そこに、「シャッターを押す」といった自発的な行為は介入しないし、撮影という行為に対して必然性を感じないからである。

②は、通常写真であればなんらかのイメージを画像化するのが一般的であろう。しかし、「写真」となるためには、そのイメージが何であるのか私にとっては重要ではない。

選考基準はズバリ、ビビっと来たか。ものすごく曖昧な表現ではあるが、最終的なイメージは、想像の範疇を逸脱したものかどうか。そこに、現時点におけるアーティストの取捨選択というオリジナリティが介在している。

そしてまた、そこになにかが表象されていると鑑賞者に思わせた時点で、私の制作における目的の半分は達成されている。なぜなら、表象するイメージに「意味」などないのだから。

チェコスロバキア出身の哲学者ヴィレム・フルッサーは『写真の主体とは撮影者ではなく、装置に組み込まれたアルゴリズムが本質的な主体である。さらに、そのアルゴリズムを構築した技術者たちこそが、真の意味での「写真作家」なのである。』と指摘している。


これからの写真はどこへ向かっていくのであろうか。その転換期における現代写真の軌跡のひとつのあり方を、来年にはさまざまな形で発表していければと思っている。

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