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【祖父と原爆 13】 救援汽車

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 太陽は西に傾きかけた頃
「救援の汽車が来るので負傷者は全員鉄道線路の近くに集合しろ」
とメガホンで叫び回っている声を聞き、これで僕らも助かるんだと感謝し踊りたい気持ちを押さえつつゆっくり立ち上がった。

 僕らは火傷の苦痛に耐え、痛みを紛らわすため空き地の中を行ったり来たりしていたので気付かなかったが、国道を横切り鉄道線路の方に移動して広い田んぼの畔道の近くに来て驚いた。畔道の両側には踞っている人、横になっている人々で歩く余地もないほどにあふれており、みんな負傷者の群れで言葉もなかった。
 横になり片手を挙げて「水をくれ、水をくれ」と死を目前にして現世の別れ水を頼んでいる火傷と血で顔形の識別もできかねるまでになっている人々。

 僕が「直ぐ助けの汽車が来るので水は辛抱しろ」と言っても死に行く人には聞こえず、物の哀れさに後は声にならなかった。また助かりたい望みで一生懸命、ある限りの力をふり絞って汽車の線路近くまで来た人々で、頼みの汽車は待てども待てども来ず、遂に力尽き見守る人もなく一人寂しく息を引き取っていく人々の死骸が、汽車を待つ間にも畔道の両側に点々と多くなっていく様は、寂しく、もの悲しい戦場の夕暮れを感ぜずにはいられなかった。
 また私も助かりたいばかりに痛さに耐え、必死に線路近くに行こうとする一人であった。自力で歩ける僕らは軽いほうなのかとも思い感謝もしたが、歩くことが出来ない負傷者を看護している姿を一度見たのみで、数限りなく多い負傷者の中で看護人を見たのもそれが最後であった。

 負傷者と死人で溢れている線路近くの畔道に来て、夕日を背に立ったり座ったりして火傷の痛み耐え、助かる一途の望みを汽車い託し、汽車の来るのを待つ時間がいかに長かったことか。

 太陽は西に落ちて夕暮れ迫る頃になって汽笛の音を聞いた我々は、助かる希望から痛みを忘れて立ち上がり、あるいは喚声を上げる人もいたが、それもつかの間のことで、汽車は我々の近くを通過して長崎の方に行ってしまった。

 通過した汽車が腹立たしくも恨めしく、助かる頼みの綱も切れたのかと諦め、力なく座り直して痛みに耐えねばならない自分が哀れに思えた。

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