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被爆者の祖父の想いを繋いでいくこと

祖父は長崎の原爆の被爆者でした。私は被爆者三世です。

 普段の生活で意識する事は少ないですが、ちかごろの戦争のニュースや、夏のこの時期は原爆や終戦の歴史に触れる機会が増え、やはり心が痛みます。

幼い頃から祖父の被爆体験を聞き、原爆投下は2度とあってはならないと強く願います。

 私たち家族は毎年お盆休みに、祖父の語る怪談よりも肝の冷える被爆体験の話を聞きました。当時は私も幼く、いつもと様子のちがう祖父がただ怖くて、理解しきらぬまま逃げていました。

 そんな家庭環境にいたので、私たち30歳前後の世代はぎりぎり祖父母から戦争の話を直接聞いているものだと思っていました。しかし周りの人に聞くと、どうもそうではないらしい。
 戦争当時、まだ祖父母が幼くて記憶があまりない、田舎に疎開していて戦火を逃れていた、つらい体験に口を閉ざしている、そもそも戦争の話をしたことが無い、など。
 さらに下の若い世代には、もう戦争は遠い歴史になっているのだと感じました。

 祖父がどんな想いで話してくれていたのか、しっかり向き合えたのは祖父が他界した後でした。話してくれた時間の尊さをわかっていれば、もっときちんと聞いていればと悔やまれますが、祖父は戦時下の体験記を遺してくれていました。

 その中でも長崎への学徒動員〜被爆体験までの章には、祖父のこんな一言が記されています。

 私は第二次世界大戦中、長崎市の三菱兵器大橋工場(場所は現在の長崎大学)で学徒動員として働いていた時、人類史上起きてはならない原子爆弾の被爆者として重傷した。この本は当時の悲惨な状況を記述し、今後二度とおきないよう後世のために書き残すものである。
 一九九三年 冬  原田義則

 個人的な記述もあるので悩みましたが、先のみえない世界情勢の今、祖父の願いを繋いでいかなければならないと感じ、祖父の手記の被爆体験にあたる章を全文公開することにしました。

 長くなると思いますが、おつきあいいただけると嬉しいです。
手記の前半は学徒動員の生活の話なので、被爆体験のみを読みたい方は後半からどうぞ。

これから何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・8月9日以降、痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

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