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コロンブス、それは言語以外の炎上

コロンブスという歴史上の人物が題材となった曲で炎上した悲しき団体が発生したということで、いっそ彼らへの見解を今ここにまとめておこうかと思う。
編集開始時点は2024/06/17である。



自分は「アイドル売りになったな」と言われ始め、ファン内での炎上を経験した『サママ』を知っているぐらい彼らの「夏」に寄り添ったファンではある、ただしファンクラブには入っていないしグッズもせいぜいCDやそれについて来たものぐらいの濃度だ。


さて、正直私は新曲が出たからと言ってすぐに聴き入るような、それこそ前の記事(確か偏食ロンリネス)で述べたように、「まぁこの人だし」で全肯定する安易な人間性では無い。
だからこそ、高濃度に解釈を深めるために見尽くすのだ。

まぁ、そうするためにMVをすぐに見ないようにしていたら消えてたってこともある。だから曲の歌詞しか見れない。泣いた。

けど、歌詞自体はどちらかというと「やることやっちまったことはあるから謝りたい」「でも(そういう問題が風化=大人になってからじゃないと)言えない」「悲しいことばかりでも君といたいからそばにいて欲しい、でも寂しさは癒えない」という感情や事実について喋っているように感じる。私が色々なものを読み漁っているからかもしれないが、私はそう感じた。

ミセスの闇曲(ミセスファンはこういった曲ばかり聴いて、世間的にはキラキラバンドであるからこそ闇曲をマイナーだと捉えてマイナー曲を知っている!と言い張る節があるのであまり口にしたく無い単語だがあえてこう称する)を聴いているかは人によって違うと思うが、歌の中で彼らは絶対に「孤独」を忘れない。「寂しさとの共存から抜け出したくても抜け出せない」ことを嘆いている。時によってそれすらも寂しさだと言う。

私が何を言いたいのかと言うと、「曲名になった彼もまた孤独で、彼は群れ方を間違えた」ということを曲にしているのではないか、という主張をしたい。

フロントマンである彼は、奴隷制度を主従関係というだけではなく、「確かに僕が求めるようにひとりではないけど、それはそれで寂しい群れ方」として捉えているのでは無いか。こう思っている。


そもそも私の主張の前提にあるように、なぜ彼は孤独を嫌っているのだと断言できるのか?
彼の中学時代から遡って、のちに自身のバンドのギタリストとなる友達の存在、活動の上でインタビューをされれば必ず「キラキラした青春の曲」を「自分とは対極な世界だった」と話す正直な姿勢、人気になっていく彼らに「どこかいっちゃう」と捉えるファンに対し、「どこにも行かない、僕らは最初から変わっていないよ」と、進みながらも忘れず手をとることでファンの期待に応えたいと話す姿勢。時々「活動休止した彼ら」の話を聞くが、フロントマンである彼が休んだ期間は、彼のソロ名義や、絶対に彼なのに彼では無い名義を加味するととんでもなく短い。

ファン、もしくは他人との関わりをここまでして欲していないと言うことがあるのだろうか。今回問題になった曲名の彼が孤独を史実の捉え方のように解消していたとするならば、フロントマンである彼の孤独との戦い方は私たちや他人に生まれ持った歌声で話しかけるように、自身の才能である感情の言語化を音楽として示すことにあるのかもしれない、そう考えた今日この頃であった。

ただし、今回は曲を、題材となった彼と同時に歌詞を俯瞰的に捉えることがMVによって難しくなってしまったのだろう。
アボイドノートのように歌っている動作や弾く動作以外歌詞と全く関係ないことが、今回初めて「絶妙に歌と合っているからこそおかしい」ことになって本来の形では伝わらず、もはやそれ自体が仇となってしまったのでは無いか、と思う。

私は彼の孤独との向き合い方に共感すら覚えている。
彼の摩耗する精神と伝わらないもどかしさに寄り添えるような、変わっているようで変わらないファンでいたいと思う。

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