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この孤立した世界で
これを読んでいる今、あなたは立っていたり、座っていたり、寝転んでいたり、つまり「静止している」と僕は予想するが、もし
「あなたは今止まっているように見えて動いているのですよ。」
と僕が言ったら、あなたは信じるだろうか。
僕は地球の自転やら新陳代謝やら、そういうことを言っているのではない。そういう物理的なものにすぐ思考を巡らせてしまうのは近代以降の人間の病かもしれない。
僕が話しているのはもっと精神世界の話であって、つまり僕が大切にしている価値観である。
では、我々の一体何が動いているのか。
喫茶店ロマン
高田馬場駅で下車して早稲田口から出ると、左手に大きなビルが見える。一階にはセブンイレブンがあり、二階には喫茶店「ロマン」がある。
僕が初めてロマンを訪れたのは確か大学一年の初夏で、僕はサークル終わりに一個上の先輩二人と珈琲を飲みに来た。
席に着くなり、先輩たちは煙草を咥え火を点けた。白い煙が立ち上がり、近くの換気扇にシュッと吸い込まれる。あの時は健康増進法が改正されるちょっと前で、席で煙草を吸うことが出来た。
僕がここにはよく来るんですか、と聞くと、先輩は「ここはコーヒーが安いし、ナポリタンは美味いし、なんてたって煙草が吸えるからね。」と答えた。
あれから僕は何度か失恋したし、喫煙者になったし、後輩ができたし、ドイツ留学に行った。ドイツにいる間、僕は何故か後輩からある意味神格化されていて、帰国すると誰も近寄りたがらなかった。
僕自身は何も変わっていないのに、後輩は僕とは違う先輩とロマンに行った。
そんな折、僕がロマンで一人コーヒーをすすっていると、同じサークルの友人が後輩を連れて入店してきた。彼らは自然に窓際の席に僕を呼んだので、僕は初めて後輩とロマンで向かい合った。僕はどうにも気恥ずかしくて煙草を吸って誤魔化したかったが、嫌煙の波は既に社会を先回りしていた。
後輩は僕にここにはよく来るんですか、と聞いた。僕は「コーヒーが安いし、ナポリタンが美味いからね。」と答えた。
文化とは
「文化」あるいは「異文化」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか?
多くの人にとって「文化」とは、日本文化やイギリス文化、中国文化といったものだろうか。
では、東北文化、九州文化、関西文化はどうだろうか。やはりこれも「文化」だろう。
では、隣村の文化、地域の文化はどうだろう。これも「文化」と言って差し支えない。
ウチの文化、お宅の文化と言ったらどう思うだろう。ここで違和感を覚える人はきっと多い。
さらに、私の文化、あなたの文化となれば、頭にハテナを浮かべる人ばかりであるように思う。
文化とはどこまで因数分解出来るのだろうかという問いに対して、僕はどこまでもと答えたい。つまり、文化とはネイションあるいは地球規模のものから、一個人に内在するものまでを包括する説明概念ということである。
僕だってあなただって、それぞれが自分だけの文化を持ち合わせているのである。
好きなアニメでも、寝相でも、歯を磨く順番であっても、僕はそれをあなたの「文化」と呼ぶ。
文化は「動的」
ところで、文化とは納豆のように自分で増殖するものではない。
文化はいつの時代も異物を取り込んで営まれているのであって、文化が本当にピュアであった時など存在しない。
もちろんそれは我々の文化でも例外ではなく、例えばあなたが自分のクセだと思ってやっていること———本は掴むのではなく抱えるように持ったり、ローファーを履く時はガニ股になったり、疲れると中指の関節だけ鳴らしたり———は、自分自身でゼロから編み出したものではない。
意識・無意識に関係なく、我々は他者から常に行動規範や価値観を取り込んで生活している。というよりむしろ、我々は常に他者に晒されている。
すると、文化は「静的」ではなく「動的」と言えるのである。
我々の文化は常に変容し、色を変え、形を変え存在している。
昨日の僕と今日の僕
つまり、文化はそれ自体に「違いを受け入れること」や「新たな形に順応すること」の本質を内包しているのである。
僕が初めてロマンに行って先輩にその喫茶店の魅力を聞いたとき、僕は自分の知らない文化、つまり異文化に触れた。そして歳月は流れ、僕がロマンに来る理由を後輩に説明した時、ロマンでの経験や記憶は既に僕の身体の一部であった。
僕はロマンを自身の文化に取り組むことで、自分であり続けたのである。
昨日の自分も今日の自分も、紛れもなく「僕」ではあるのだが、今日の僕は昨日の僕に比べれば、「ネオ・僕」と言える。「自分は『ネオ・僕』だ」と思った瞬間、その「ネオ・僕」は「僕」になり、そして今の自分が「ネオ・僕」になる————
そうして、僕は幾多にも「ネオ」を繰り返す。
僕は、他者を受け入れ変容した生命体として僕を見るとき、とても感動する。なぜなら、僕は社会に生きていると思うからである。
僕は決して一人ではないのだと、そう思わずにはいられないからである。
我々は動き続ける。立ち止まっていても、座り込んでいても、我々は常に晒し晒され、「自分」から「ネオ・自分」へと自身を変容させる。
そうして幾多にも重なりあったネオ・自分の中で、我々は他者を感じ、社会を感じて生きていくのである。
世界は個人化が進んだと言う。引きこもりという言葉が「Hikikomori」として世界中を駆け回り、YouTuberは撮影から編集、グッズ販売まで全て一人でやってしまう。
しかし、個人化した世界でも我々は唯一、動的な文化だけは失っていない。
自分が自分である時、我々は決して孤立しない。
これが僕の言う大切な価値観である。
Photo by Wolfgang Hasselmann on Unsplash
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