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愛する人に死にたいと言わないつよさがほしい

朝から電車に揺られていた。
なぜなら今日は記念すべき初出社日だからだ。
目的地に着くまで音楽を聴いて目を瞑っていようと思っていた。だが緊急地震速報のアラートによってそれは、かなわなかった。一斉に鳴り響くスマートフォンのアラートは迫力があった。
栃木・埼玉で震度5弱を観測したとのことだが、幸い大きな被害はないようでよかった。わたしは地震が大嫌いで苦手なので、かなり怯えたが。

新生活のはじまりがこれか……と思ったものの、業務は問題なく終えたのでよかった。おそらく人間関係も問題なさそうだ。
ただ数カ月ぶりの勤務は思った以上に消耗が激しかった。病人が社会のなかに溶け込むのは大変だ。

いつもわたしは、まるで人好きのような顔をして、ニコニコしている。演じているわけではないが、外に出るとそうなってしまう。昔はそれがあまりにもひどかったが(人から好かれようとしすぎていた)、ここ数年で矯正したお陰でいくらかマシになった。それでも相当、疲れるのだから無理をしているのだろう。

電車でいろいろな思いがこみあげた。そしたらいろんなことを思い出してしまってTwitterでつぶやいた(今はXだしポストなんだけどやっぱり慣れないなあ)。
わたしがリアルで「死にたい」って言わない理由やあれやこれ。

愛されることって自分のかかえる弱さや思いを全部受け止めてもらうことだとずっと思ってた。でも、ふだん死にたいなんて言ったことのない相手から本気で一緒に死ぬことを提案されたことで間違ってることに気づいた。
「一緒に生きたい」って言ってくれてる相手に対して、ひとり強情に「死にたい」と言い続けることはあまりに酷い仕打ちだ。それに言ったところで、何かが癒るわけでもない。ただひたすらにずっと死にたくて辛い。

人から好意を寄せてもらっても今は付き合うことができないと思っている。寄りかかる相手ができたらわたしはまた「死にたい」と言ってしまうと思うから。
「わかってあげられなくてごめんね」「どうしたらわかってあげられるかな」
泣きそうな顔で言われると苦しくなる。好きな人には笑っていてほしくて、傷ついてほしくない。傷つく理由がわたしなんてもう嫌だ。
だから寄りかかる相手ができても、「死にたい」なんて言葉を口にしないわたしになってから恋人をつくるよ。その時に好意を寄せてくれる人がいたのなら。
わたしの病気のことも、苦しみも、全部全部ひとりで抱えて生きていきたい。それで隣に愛する人がいてくれたらこの上なく幸せだ。
きっとむずかしいけど、実現不可能ではない気がする。やりきった後で、ひとりぼっちになるのならそれはそれで受け止める。

孤独を愛するつよさがほしい。

というようなことや孤立死した父のことを考えていたら気づいたら電車で泣いてた。ほんのちょっとね。
家に着いたら灰色のふわふわが走って迎えにきてくれて、堰を切ったように涙がこぼれてた。子どものように「うわーん」と泣いても、この家にはわたしと猫しかいないから許される。

わたしには、猫がいるんだよ。だからまだ大丈夫。

明日もがんばって電車に乗って働いてくるよ。
みんなもがんばろうね。ほどほどに。それでも朝起きて家を出ることさえ大きな一歩だから、そのがんばる力ははてしないんだよ。生きるって大変だね。


あ、Twitterでおともだち(相互フォロワー)が増えてうれしかったよ。それで今日のところはいい日ってことにしておこうかな。

おわり


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