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はじめまして、新しい拠り所

 noteという新しい場所を知りました、楓《カエデ》と申します。

 とある処で創作小説を書いているのですが、未だに文章を綴ることへは慣れません。ただ理想は書き切っているため小説については自己で満足しておりました。その一方で、このもやついた行き場のない感情は何だろうと自問自答することが増えていきました。今年はそういった節目なのでしょうか。おうち時間、もとい、家族時間というものと向き合うと、色々な出来事を耳にして、様々な気づきが発生します。

 そんな中で、ふ、と何でも話せる親しい友人から言われた一言を思い返しました。

「よく病まないでいられるね」

 これには当時の会話で文脈があるのですが、その友人はうつ病を患っております。それを踏まえると、友人からは私がそう見えたのかもしれません。ですが私は特別精神や脳みそが強い訳ではありません。ごく普通の一般的感性です。心や脳に出ないだけで、皮膚や耳に表れたことはあります。友人に対し、私自身の話は本当に切羽詰まって辛くなった時にしか口にしません。それは相手の病気を思ってのこともありますし、生きていればいろんなことがあるからです。自分だけではない、仕方がないこともある。みんな苦しい、分かってるけど私だって嘆きたい。不平等で不条理に感じられることもあります。『仕方がない』と自身で高めた期待値を下げて、相手基準に従ってばかりで良いのだろうか? 次第にそう思うようにもなりました。

「病まないわけじゃないよ、そういうものだと割り切っただけ」

 それが世の常なところがあったので、その時はあまり深くは考えませんでした。私も落ち込むときはとことん落ち込みます。ただ決まって、家族関係ばかりです。隣の芝が青く綺麗に映える。まさにそんなところでしょう。今でもいいなあと羨む。『うちは〇〇なだけマシ』なんて、出来事を相対的に並べて比較したらキリがないので割り切りました。まあしょうがないよね、と。便利な言葉です。同時にそれはとても寂しい。

 当たり前に聞こえることですが、この場所をお借りして、

世の中には本当にいろんな人がいる。
〝良い人〟の判断は自分の物差しでしかない。

 という具体例と抽象的な思考をなんとか形に残せていけたらと思っています。ここでは懐古に浸るような捌け口の自分語りにならないよう、物事や過去を俯瞰して描写したい。

 割り切るまでに至った考えや、周りの友人同僚から聞いた『こんなヒトもいるんだな』という物語を、話のタネにでもしていただけたら。そう思ってnoteを思考の拠り所といたしました。

 またそれは時に実体験だったり、そうであってほしいと願う理想郷の創作だったり。毒にも薬にもならないような文。それでも世のどこかにいるあなたの目に触れて、気が楽になって、少しでも肩の荷が下りる心持ちになってもらえたら幸いです。

 長々となりましたが、はじめましてのご挨拶並びにnoteの紹介とさせていただきます。

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